シェイクスピアの茹で玉子
走って来たのか、いっちゃんは予告よりも早く現れた。私と渉くんが店に入った瞬間「九死に一生を得た」と安堵までした、あの寒さの中を駅から歩いてきたようには見受けられない。ダウンジャケットには確かに冷気を纏っているのに。それでも喉は渇いているみたいで、テーブルに裏返しに置かれたマグカップとおかわり用のアップルティーが入ったポットに手を伸ばす。
「いっちゃん、ダメ!」
「飲む!」
「よせよ、いch」
制止する両手を振り払ってでも飲もうとするのは、いつか私の行く手を阻んだ力強さだった。そういう
いっちゃんは本気だ――――!
「一花ダメだ!」
渉くんも私に加勢してくれて、いっちゃんにポットを奪われるのは防げた。熱々の紅茶なんて一気に飲んだら喉や食道がどうにかなってしまう。
「おまえ役者だろ?」
そーだそーだ。しかも公演中だぞ。何秒かの後いっちゃんが静かに頷く。冷たい水をもらえるか店員さんに確認すると、快くアップルティーと一緒に持ってきてくれた。しかも中ジョッキで!なんという気の利いた店だろう。女子力が高すぎて感動する。
「感謝して飲め」
私が言うといっちゃんは再び頷いて一気に水を飲み干した。グビグビ音が聞こえてくるみたいだった。
「俺と蕗にもだぞ」
「―――――うん。感謝する」
いっちゃんはメニューを見てすぐにスコッチエッグプレートのLサイズに決めて、結局三人とも同じものを注文した。時刻は午後八時半を回るところです。渉くんは十時に
いっちゃんが改めて言った。ひとつも息が上がっていないのはさすがだ。
「ありがとう、二日も続けて」
「お疲れ」
「お疲れ」
「うん。ありがとう」
昨日も見た舞台は今日も面白かった。少し演出が変わったとか、じゃああの場面はアドリブでやってるんだねとか。私と渉くんが感想や発見を語っても、いっちゃんは上の空といった感じだった。今思えばなのだけれど。
そのうちスコッチエッグが運ばれてきた。Lサイズのバターライスが写真よりも大盛りなのは嬉しい誤算だ。皆で「いただきます」をしてからナイフとフォークを持つ。
「でけえ」
「何これ、コロッケ?」
「どちらかというとメンチっぽい」
「でけえ」といっちゃんが呟いたのも今思えば、やっぱり心は此処に
「この舞台が終わったら引っ越すんだ」
渉くんも私もスプーンを握った手を止めて顔を上げる。流れるように言ったけれど、いっちゃんは平静を装って―――――——装っていたように思う。その底に並々ならぬ覚悟や決意があったのではないか。彼の役者たる矜持を以て、宣言することで今ここに腹を括るような何かが。芝居がかっているわけではないのに劇中劇を観ていかのようで真意が見いだせなかった。
それだけのことを発表するには、そのくらい彼の口調は神妙すぎた。まだ舞台の余韻が残っていたのか、昨日とは様子が違って感じたというのも今思えば。全て今思えばの話だ。
どうしたんだろう。その時はそう思っただけだった。心が揺れるのは伝播する。誰かが台詞を噛めば次々と噛むみたいに。
「――――――うん」
「――――――何処に?」
********************
いっちゃんは埼玉県出身・埼玉県在住の一人っ子でお母さんと実家に住んでいる。お父さんは随分前に出て行って、その後ですぐお母さんがそんなことになって離婚して。順番は確かそうだった。
演技指導の職に就くまでは居酒屋でアルバイトしながら役者をやっていた。行政の支援を受けられるように世帯分離した方がいいよね、と森田さんと話した記憶がある。だから、その
玉子が思っていたよりも熱くて舌をちょっと火傷した。
「これウインナーコーヒーでもやるよな」
「やる」
「いい例えだ」
渉くんがつまらなそうに共感してくれるから私もいっちゃんも首を何度か縦に振る。油断してもいたけど、早く食べなくちゃいけないような気がしたんだ。
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