其の九 祈りの果てに結ぶもの
展示室の外から、きゃーーー!という女性の甲高い悲鳴が聞こえ、
続いて
「まだ、死ぬるでないよ、若き術者」
男性の柔らかな声と、ぴちゃ、びちゃ、と濡れた足音がこちらへ近づいてきた。
見れば、長い銀髪に赤い瞳、真白の長着を纏い、銀の帯を貝の口に締めた男性が、裸足のまま歩いてくるではないか。
その人を見て、イヅツさんと渡会教授が揃って瞠目した。そして慌ててその人に道を開け、跪いて頭を垂れた。
ちりーん、ちりん、ちりりん、ちりーん、ちりん、ちりりん……
鈴が、その人の足の運びに合わせて鳴る。
……一体何者なの、この……人ではない誰かは。
その人は展示室の内へ迷いなく踏み入り、津田さんの傍らに立つと片手を掲げた。
すると大きな水球が現れ、意識のない津田さんを包んだ。
津田さんは水の中で穏やかな顔つきで眠っていて、胎児のように身を丸めてゆらゆら揺れている。
その水球の中に片手を差しいれ、眠る津田さんの顎をあげさせる。
鱗型の黒い痣を撫で
「私をどうぞお許し下され」
その人はそう言って、あの白く平らな石をそこへ数秒宛てがった。
そしてその人は、水球から抜いた手に握る白い石をくるりと回した。
石の片面が黒く染まり、代わりに津田さんの痣は消えていた。
白い和装の神々しい御方は、次に、床に蹲る龍のミイラを拾い上げると、その石を黒い面が表に来るように龍の顎下へと嵌め込んだ。
大切な鱗を返された小さな龍のミイラが激しく暴れだす。
あの石は、ただの玉砂利ではなくて。
龍の命の要であり、魂の依り代、逆鱗だったのか。
みるみるうちに、乾いた身体が小さいながらも美しい黒龍へと変わる。
ただ、眼窩は空っぽで、歯も戻らなかった。
痛々しい姿で、それでも何度も水球に突進し、歯のない口で津田さんに噛みつこうとする。
それを自分の腕に噛みつかせ、銀髪の人が言った。
「もはや弟の言葉も通じませぬか、兄様」
ぴくりとその黒龍が震え、動きを止める。
「人を想うての我が愚行が、後に兄様を苛んだは我もまた心痛の極み。なれど彼の者らはもう居らぬ。兄様、どうか、鎮まり下され。その者になんの咎が有りやしょう。
その者は我に約したのです。兄様を我が祠へ共に祀り安寧を捧げると」
その人は慈しむように、小さな黒龍を抱きしめる。
「しかしの、兄様。尚も人を害さねば、恨み晴らさでおけぬのならば、」
険しい声で言いさす銀髪の御方。
黒龍は目のない眼窩で“弟”を見つめた。
やがて己の喉を掻き始めた。その裏表が白黒の鱗を外そうとしているようだ。
せっかく取り戻したそれを。
「それが兄様の望みとあらば」
銀髪の人は優しく笑み、黒龍からその鱗を抜き取り、飲み込んだ。
その途端。
その銀髪の人の姿が、美しい純白の龍へと変化した。
長大な身体は展示室いっぱいになり、ぎゅうぎゅうで窮屈そうだ。
その左手に、津田さんの入った水球……水に満たされた龍珠を優しく握っている。
そして、じっと渡会教授を見下ろしている。
「約定は違えませぬ、フタバミノリュウジン様。この者に代わり、渡会家名代としてこの景晴が御霊を彼の地へお還しすることをここに約します」
渡会さんは低頭したままそう言った。
「良かろう。……なに、この者の天命も霊力も、損なわせてはおらぬよ。しばし、眠らせておけ。そこな人の兄弟もな。今日見聞きした物事全て、胸の内にの」
白龍は言いおいて、動かぬ黒い龍の亡骸を咥えると、龍珠と共にふっとその姿を消した。
龍珠から吐き出された津田さんは、何事もなかったようにそのまま床に身を丸めてぐっすりと眠っている。
そんな津田さんを渡会教授が抱きかかえて此方へやってきた。
良かった、胸と背にあったあの傷も治っている。
その緩く握った拳の中に、それぞれ白と黒の面の一枚の鱗を大切そうに包みこんでいる。
渡会教授は白手袋でその白黒の鱗を拾い上げ、白布で包み直して、更には小さな木箱に入れた。
「津田の荷物におわしたとは」
しみじみと言い、今は壁に凭れさせている津田さんを見つめている。
津田さんの鞄の入っていたロッカーが水浸しになっていて、それをヨルくんが黙々と拭いている。
他の客は既に帰され、根木司氏は何故か警察に連行されてすでに居らず、会場に残ったのは僕たちだけだった。
「帰るぞ」
イヅツさんに急かされ、僕らはロッカーから各々の荷物を取り出し、帰支度をする。
イヅツさんが眠ったままの津田さんをおんぶし、渡会教授がソラくんを抱える。
二木さんは津田さんの荷物を背負って黙々とついてくる。
幸虎くんは何度も二木さんを振り返り、ちゃんと後ろにいるのを頻繁に確かめている。
重苦しい空気に耐えかねて僕は二木さんに、あのカップルの苗字なんかを訊いてみた。
「ネギさんとキシネさん」
ぼそっと短く返事がかえってきた。
「そこに本人達がいるぞ」
渡会教授が指さすビルの外に、確かにあのカップルがいた。
僕らを見て頭を下げてきた。
展示室から出たあと、お二人とも僕らを心配してここでずっと待っていてくれていたそうだ。お名前を尋ねたら、女性が
「あの愚かしい蒐集者の名の影響で、黒龍の結界に閉じ込められたのかと思ったが、……龍神の神意が半端に働いたようだな」
もし、津田さんを乗っ取ったミイラの龍が僕ら全員を殺そうとしてもこのお二人を殺すことは出来なかっただろうと渡会さんは言った。
それは、【龍の誠に美しき“いのり”】に込められた、
人を祟るようなことをしてくれるなという、弟からの意志に妨げられて、
黒龍の祟りが成就できないということだ。
それは、かつて人間に殺され、その眠りも妨げられた兄龍にとっては、弟からの愛のこもった恐ろしい呪いでしかなかったろう。
愛する者を守り生かすために、進んで犠牲となる者たちは。
愛する者らに後追いの死も復讐も許さないという、甘く恐ろしい呪いをかけるだけだ。
そのあとに遺される者の痛みを、苦しみを、絶望を、知ることはないくせに。
冬の夜。
白々しい街灯に照らされた坂道を、僕たちは後ろに真っ黒な影を引き連れて下っていった。
家に帰るために。それでも生きていくために。
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