第22話 亜蛇の修行

 数馬が再び六兵衛長屋に戻ると、それを聞きつけた人々が連日のごとく訪ねてきた。

 そしてその口に上るのが亜蛇の存在・素性であった。

 うわさ好きの江戸っ子は亜蛇の生き抜いてきた山中の暮らしを知り、たちまち奇跡きせきの少年として町の人気者になった。

 歓迎されるのは喜ばしいことであったが、あまりちやほやされては本人のためにならぬと数馬は苦笑した。

 それでも亜蛇を塾に通わせ、同心どうしん用の訓練所で剣や柔術を教えた。

 亜蛇の学びたいという意欲は上達を早め、寒い朝も早くから鍛錬に励んだ。


 春になり桜が芽吹く頃、下総国しもうさのくに佐倉藩の橋本源之助はしもとげんのすけより便たよりが届いた。それは妹の瑞江みずえ祝言しゅうげんを上げるむねの招待状であった。

 佐倉藩では亀石一族の不正を正し、大きく空いた役職の席を忠義に厚い有能な武士に与えた。

 その結果、源之助は勘定奉行かんじょうぶぎょうへと出世していたのである。

 数馬は瑞江が薙刀なぎなたの使い手であることを思い出し、亜蛇を連れて旅立つことにした。


 瑞江の婚礼は盛大に行われ、数馬は両家から恩人おんじんとばかりに手厚いもてなしを受けた。

 数馬は数日滞在することにして成田山新勝寺なりたさんしんしょうじへも出かけた。

 婚礼の挨拶廻りを済ませた瑞江は夫と共に数馬たちの帰りを待っていた。

「香月様、仇討の折には大変お世話になりました。夫もわたくしが無傷むきずで帰った時は香月様にたいそう感謝をしておりました」

 瑞江に続いて「馬廻うままわ組頭くみがしら溝口京太郎みぞぐちきょうたろうにございます。妻を助けていただきかたじけのうございました」

「わたしも助太刀すけだちという役目をまっとうでき何よりでした。また、佐倉藩の立て直しもうまくいったようで安堵あんどいたしました」

「それも加納様にご尽力いただいたおかげでございます」

 瑞江は重ねて感謝の意を伝えた。

 仇討あだうちからまだ一年も経っていないのに、数馬は昨日のことのように懐かしく思い出していた。

「ところで何かご相談がおありと聴いておりますが」

 瑞江の問いに数馬は後ろに控える亜蛇を前に押し出して、

「この者は亜蛇と申してわたしにとって弟のような存在です」

 数馬は亜蛇と知り合った経緯いきさつを話したうえで、

「亜蛇には学問と剣術を教えているのですが、習得しゅうとくが早くもうすぐわたしでは役不足になりそうなのです。何処どこか良い修行先をご存じないでしょうか」と、頼んだ。

 瑞江は「相変わらず香月様は人のために動いていらっしゃるのですね」と、あきれ顔で笑った。

「されば拙者せっしゃが修業した香取神道流かとりしんとうりゅうの道場に入門されるのがよろしかろう。拙者が紹介状を書きます」

 京太郎が提案すると「佐倉藩は医学が盛んな所です。良い学問所も沢山ございます」と、瑞江も説明した。

「それは有り難い。どうぞよしなにお計らいください」

 数馬はこの上ない提案に深々と頭を下げた。


 出立の朝が来た。数馬は江戸へ、亜蛇は利根川とねがわを下り目的の道場に入門した。

 一人になった数馬は別れ際に瑞江が言った言葉をめた。

『香月様、姿かたちは将軍家の姫様になろうとも吉乃様のお心はひとつです。香月様のお心がらぎなきものならば何も案ずることはございませんよ』

 そうなのだ。何をうろたえておるのだ。亜蛇には偉そうに言っておきながら、わたしこそ覚悟が足りないではないか。

 数馬は己をいましめると歩調を早めて力強く歩き出した。



 亜蛇は住み込みの道場で早朝から掃除をした上で朝稽古あさげいこに汗を流し、朝餉の後は塾で勉学に励んだ。戻ると夕餉まで木刀を振るって鍛錬をし、夜は寝るまで学問の復習をした。

 塾では年下の塾生と席を並べていたが、遅れを取り戻したい一心で必死に食らいつきわずか半年で追い越してしまった。

 亜蛇の成長は文武ぶんぶ共に目覚めざましく、剣術もる事ながら学問においては医学書を読むに至っていた。

 塾の講師からはその才を見込まれ、蘭方医の道を勧められオランダ語の読み書きも始めるのであった。


 一方吉乃は将軍家の姫としての所作しょさだけでなく、自ら望んで武家の女人にょにんとしての行儀作法ぎょうぎさほうや料理に至るまで厳しい指導を受けていた。

 そして数馬は加納久通の用人としてろくみながら、探索方同心たんさくがたどうしんの仕事をこなした。そして時々は品川しながわの天一坊をも監視していた。


 享保十三年(1728年)の夏、天一坊の周りには多くの浪人が集まるようになった。

 天一坊はあからさまに将軍家ご落胤を名乗り、支持する者には出世を約束した。

 そこまで行くと幕府も放ってはおけず、代官所だいかんしょに出頭させて詮議せんぎを始めた。

 姫様修行を終えた吉乃は吉宗からの呼び出しを待っていたが、吉宗としてもご落胤騒ぎをこれ以上広げる訳にはいかなかったのである。



 ある日の品川からの帰り道、数馬は宿場の入口で苦しそうにうずくまる武家の女性を見つけた。ともの男女が心配そうに面倒を見ている。

「どうなされた」

 数馬が近づいて声を掛けると、

大和国やまとのくにより奥様のお供をしてきたのですが昨日から熱を出され、お休みになるよう申し上げたのですが無理をなされてこれ以上進めなくなりました」

 と、下僕げぼくこまり果てた顔で言った。

此処ここでで風に当てるのは良くない。まずは宿に入りましょう」

 そう言って数馬は女性を背負うと近くの旅籠はたごに入り、店の小僧に医者を呼びに行かせた。

 布団に寝かせ世話を付き添いの女に任せると隣室も借り「われらにできることは何もない」と、下僕を落ち着かせると部屋に誘った。

何故なにゆえそんなに旅を急ぐのだ」

 茶を飲みながら数馬は下僕に尋ねた。下僕の名は藤吉とうきちといった。

「わたくしの口から申し上げてよいかわかりませんが、ご詮議とあれば申し上げます」

 藤吉は数馬の帯に差した十手を見て言った。

「あっ、いや詮議ではない。何か役に立てればと思っただけだ」

「さようでございましたか、でもお助けいただけるならばお話いたします」

 藤吉は膝をそろえて正座しなおした。


 藤吉のつかえる主人は高取藩納戸役の坂田松之助さかたまつのすけであった。数馬には聞き覚えのある名だった。

 そして旅をしてきたのは松之助の後添のちぞえである千絵ちえだ。

 江戸で病に倒れた松之助は娘の桃代ももよ看取みとられこの世を去ったのである。

 坂田家にはあとぐ男子がなく、他家に養子として入った松之助の叔父『辻本仁右衛門つじもとにえもん』は目付めつけ林田蔵人はやしだくらんど』の次男を桃代の婿むこにと勧めた。

 目付の次男『林田権蔵はやしだごんぞう』は粗野そやで女好きの遊び人であり評判の悪い武士だった。そのような男を年端としはも行かない娘の婿にしようというのだ。

 仁右衛門は坂田の本家をつぶしてはならぬと言いながら、実のところ己の嫡男ちゃくなんの出世が目的であるのは千絵にもわかっていた。 

 それで松之助が倒れた時、真っ先に桃代を逃がすように江戸へ向かわせたのだ。

 此度こたびはそんな仁右衛門のすきをついて家財かざいを処分し、ひそかに江戸を目指していたのだった。


「奥様は血のつながらないお嬢様を大層可愛かわいがり、たとえお家がぼっしてもお嬢様だけは守り抜く覚悟でいらっしゃいます」

 藤吉はくやし涙を浮かべながら語った。

「藤吉、えんというのは不思議なものだな。わたしは桃代殿と箱根の峠で出逢い、共に江戸まで旅をしたのだ」

 数馬が告げると藤吉は目を丸くして、

「これはきっと神様の思し召しですね」

 と、手をすり合わせて拝んだ。

「とにかく、わたしが何とか力になろう」

 その時、隣室では駆けつけた医者が診察をしていた。病は軽く、旅の疲れが出ただけであった。

 一日休ませ、明後日は陸路ではなく水路を行くことにした。

 数馬は早速、猪牙舟ちょきぶねの手配をするため港へ走った。


 回復したとはいえ舟に揺られて千絵は血の気のない顔をしていた。

 舟が大川に入る頃、やっと口を開いた。

「藤吉から聴きました。此度こたびばかりか娘までお世話になりかたじけのうございます。当家の内情ないじょうまでお話ししたとか、まことに恥ずかしい限りでございます。よろしければお名前をお教え願えないでしょうか」

「いや、これは失礼いたしました。わたしも気が動転していたようです。南町奉行所同心どうしん、香月数馬と申します」

 数馬は表向きの役職を告げた。

「お役人だったのですね。わたくしは江戸に頼る人がおりませぬ、無謀むぼうにも娘を助けたい一心で飛び出してまいりました。何卒なにとぞ、お力添えをお願い申し上げます」

 千絵の切なる願いは数馬の胸を打った。

町方まちかた同心が大名家の事情に首を突っ込むことはできませんが、何とかして桃代殿を救い出しましょう」

 数馬の言葉に千絵は丁寧に頭を下げ、顔を上げると初めて微笑みを見せた。

「さらに厚かましいお願いですが、娘や使用人と暮らせる家を世話していただきたいのですが。家財を売った金子きんすが少しばかりございます」

 数馬は笑って「わかりました」と、答えた。現実的なことを考えられるだけ千絵に気力が戻り、数馬は安堵するとともに嬉しかった。

 一旦千絵たちを六兵衛長屋に連れて行き「此処はわたしの住まいです。むさ苦しいところですが暫しお待ちください」と、数馬は言い置いて加納久通を頼った。

「数馬、此度は何だ。いつものお節介の虫が騒いだか。どうせまたわしに尻拭しりぬぐいをさせようとの魂胆こんたんであろう」

 加納は口元を曲げて苦笑した。

「ご推察すいさつ、恐れ入ります。どうもわたくしには不思議なめぐり合わせが付いて回るようでございます」

「どのような事情か話してみろ」

 数馬は箱根で桃代に会ったところからの経緯を説明した。

「確かに母娘別々に出会うとは奇遇きぐうであるな。してわしは何をすればよいのだ」

「確か殿は深川ふかがわひさしく通わない別荘をお持ちと聞いておりますが、しばしその母娘にお貸しいただけないでしょうか」

 数馬は上目遣いに恐る恐る訊いた。加納は呆れた顔で、

「よう調べておるな、確かに最近は公務が多忙で別荘など行っている場合ではないのだ。よし、人助けとあらば仕方がない。好きなようにせい」

 と、仕舞しまいには笑い出した。

「有難き幸せ」

 数馬は平伏した。

「後は娘をどうやって連れ出すかだ。くれぐれも大名家とめるではないぞ」

「はい、きもめいじます。町方同心として市中の事件の聞き込みということで連れ出そうと思います」

 しかし加納は、大名家が町方の依頼に快く応じるはずがないことを承知していた。

(どうせまたわしの名をうまく利用するのだろう)

 とすべてを理解していた。それでも釘を刺さなかったのは数馬の人助けを誇らしく思っていたからであった。


 加納の部屋を出ると、数馬は帰りがけに吉乃を訪ねた。

「吉乃様、お久しぶりでございます」

 真顔の挨拶に吉乃は、

「おやめください。わたくしは何も変わっておりませんよ」

 と、以前と変わらぬ笑顔を見せた。

「まるで別人のように美しい姫様になられたので驚いてしまいました」

「二人の時は前と同じ呼び名でお願いしますね」

 数馬からもやっと笑顔が戻った。

「亜蛇はどうしていますか」

ふみによると既に香取神道流かとりしんとうりゅう目録もくろくを取得し、学問では蘭学らんがくを学んでいるとか。会った時一番変わっているのは亜蛇かもしれませぬ」

 数馬は瑞江の勧めに従って亜蛇を送り出したことを伝えた。吉乃は瑞江の祝言に行けなかったことを悔やんだ。

「今日は加納様にご用でしたか」

「はい、深川の別荘をお貸しいただきたくお願いに参りました」

 不思議な顔をする吉乃に、数馬は加納にした話を繰り返した。

「まあ、桃代様がそんなことに……。わたくしも深川で暮らそうかしら」

 吉乃は吉宗への目通めどおりが叶う日まで加納家で待たされることに疲れていた。

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