第23話 亜蛇よ走れ!

 千絵は深川で暮らして桃代の到着を待っていた。

 数馬が桃代の奪還だっかんを意気込んでから既に半年が経過し、享保十四年(1729年)の正月を迎えた。

 当時桃代は高取藩の江戸屋敷にいるものと思われていたが、数馬が訪ねた時には何処かに連れ去られていた。

 しかし当てが外れたのは数馬たちだけではなかった。

 叔父の仁右衛門にえもん林田権蔵はやしだごんぞうは千絵を人質にして桃代に婚姻こんいんせまるつもりであったが、千絵に逃げられた今は説得するすべがなかったのである。

 仁右衛門はともかくとして目付親子が桃代にこだわったのには訳があった。目付めつけ蔵人くらんどはかねてから悪徳商人より賄賂わいろを受け取る仁右衛門の上前うわまえをはねてきたからであった。蔵人としても仁右衛門との強い結びつきを手放したくなかったのだ。

 だが若い娘を無理やり妻にしたとあっては目付としても面目が立たぬため、何としても桃代を納得させる必要があった。

 桃代はどんなに脅されても決して思い通りにはならないと決めていた。最後は自害じがいすることまで覚悟していたのである。

(母上様、どうかご無事でいてください)

 千絵が数馬によって守られていることなど知るよしもない桃代は、ただひたすら祈るばかりであった。


 三月になり加納屋敷の門前に一人の若者が立った。

 奥に通された亜蛇を見て吉乃は驚きと満面の笑みで部屋に迎い入れた。

「亜蛇!亜蛇ではありませぬか。背も伸びて見違えるほど立派な武士になりましたね」

 亜蛇は二年の修業を終え、数馬の長屋を訪ねてから吉乃のところに来たのであった。

「姉上こそすっかり姫様らしくおなりで、とても近づき難くなりました」

「何を言うのです、わたくしは以前と変わらずそなたの姉です。そしてそなたは自慢の弟です」

 吉乃は亜蛇の成長を誰よりも喜んでいた。

「そなたの文武両道における努力は聞き及んでおります。それで修業は終わったのですか」

「それが蘭学の師である医師の北山魯庵きたやまろあん先生に見込まれて長崎ながさきに同行させていただくことになりました」 

 いまだに吉宗との対面が叶わぬ吉乃は、着々と人生を歩む亜蛇が誇らしくもうらやましくもあった。

「いつまで江戸にいられるのですか」

「三月ほどです。魯庵先生の江戸でのお役目が終わってからになります。ところで姉上、馬喰町ばくろちょうの長屋を訪ねたのですが兄上は留守でした。行き先をご存じありませぬか」

 亜蛇の問いに吉乃は暗い顔をした。

「おそらく深川ふかがわの別荘に行かれたのでしょう」

「深川とは何でしょうか」

 不思議な顔をする亜蛇に吉乃は桃代に起きた困難を説明した。 

 

 話を聴いて憤慨ふんがいする亜蛇と共に吉乃も深川に向かった。

 そして数馬も吉乃と同様、亜蛇の変わりように驚くと同時に再会を喜んだ。

 しかしその横で桃代の行方がわからず、その身を案ずる千絵を見て、

「わたしに一計いっけいがございます。千絵様わたしにお任せください」

 と、亜蛇が自信に満ちた顔で言った。

「亜蛇、どうするのだ」

 数馬が不安げに訊くと、

「敵の動きがわからぬ場合は、こちらから動くように仕掛けるのです」

 亜蛇は学んだ兵法の知識をもとにそれぞれの役割を説明した。

 

 翌日、亜蛇は高取藩江戸屋敷の門をたたいた。

「それがしは佐倉藩士、香月亜蛇こうづきあじゃと申す。こちらに坂田桃代殿はおられるか」

 亜蛇は佐倉藩と偽った。門番は一旦門を閉めてから暫くして戻ると、外出している旨を告げた。

「しからばお伝え願いたい。深川は富ヶ岡八幡宮北とみがおかはちまんぐうきた蛤町はまぐりちょうにある加納別荘で母上がお待ちであると。必ずご本人に伝えてくだされ」

 数馬は千絵の居場所をわざと印象付けて藩邸を離れた。

(これで今宵当たり必ず千絵様を拉致らちしに来るであろう)


 その夜半、深川の別荘を十数人の武士が囲った。その上で頭目とうもくらしき者が門を叩いた。

「この屋敷におる高取藩坂田松之助の妻、千絵殿をお引渡ひきわたし願いたい」

 門が開くと数人が門内に滑り込んだ。それぞれが刀のつかに手をかけている。

「おひかえなされ、此処ここ何処いずことお思いか」

 吉乃が玄関のかまちに立って一括いっかつした。武士たちはその威厳いげんに圧倒されて一瞬声を失った。

「当屋敷は上様おそば用取次ようとりつぎ、加納久通様の別邸べっていなるぞ」

 たたみかけるように言うと、わきに控えた数馬が、

「して、こちらは上様ご落胤らくいんの吉乃姫様である」

 言いながら蠟燭ろうそくあかりを吉乃の前に差し出した。

 吉乃は黒塗りの短刀を抜き、鯉口こいぐちを切ってはばきに灯りを当てた。

 武士たちは黄金色こがねいろに光る三つ葉あおいの家紋を見て益々狼狽うろたえた。

「上様から拝領はいりょうした村正むらまさの守り刀じゃ、しかと見るのです」

 吉乃は芝居しばいがかった台詞せりふを楽しんでいた。

「大変ご無礼つかまつりました。お許しくださいませ」

 ひれ伏して脂汗あぶらあせを流す頭目に数馬は、

「まずは名乗られよ」

 と、静かに言った。

「はっ、それがしは高取藩徒頭かちがしら高垣小五郎たかがきこごろうと申します」

「高垣、そなたが此処に来たのは藩命はんめいではなかろう。誰のめいだ」

 徒頭は忠義に厚い男のようで、命じた者の名を言わなかった。

 数馬は高垣の側に片膝をついた。

「そなたが口を閉じ腹を切ったところで事態じたいを収めることなどできぬぞ。おおやけになれば高取藩二万五千ごくが吹き飛ぶ話なのだ」

「わたくしも家臣かしん路頭ろとうに迷うことはしたくありませぬ。正直に申せば内々に済ませます」

 と、吉乃も助け船を出した。

「お目付めつけ、林田蔵人様の命にございます」

 徒頭はようやく観念かんねんした。

「目付の周りで変わったことはないか」

「お目付のご次男、権蔵様が藩邸に長逗留ながとうりゅうされていて本日国元に出立されました」

 数馬はあせって訊き返した。

「何、それは確かか」

「はい、それがし配下の者が木挽町こびきちょうまでお送りしたら材木問屋の蔵からかごと浪人者が出てきて、此処でよいと追い返されたそうです」

 数馬は「しまった」と、唇を嚙んだ。

「今はどの辺りにいるかわかるか」

「品川沖に停泊中の大型船に朝になったら乗り込むと言っていたそうですので、高輪たかなわか品川に着いているやもしれませぬ」

 それを聴いた瞬間、亜蛇は縁側から飛び降りた。

「亜蛇、聴いたか」

「しかと聴きました。参ります」

 亜蛇は既に刀紐かたなひもたすきを掛け、脚絆きゃはんをして股立ももだちちを取り、草鞋わらじいて待機していたのだ。

 腰には数馬の小太刀をび、皆の願いを引き受けるようにそのつばを握りしめた。

 飛び出して行く亜蛇の背に向かって数馬は叫んだ。

「亜蛇!走れ」



 夜が明け始めてきた。もやとしじまを切り裂くように亜蛇は走った。

 品川の港が見えてきた。小舟を待つ広場には籠を囲むようにして三人の浪人者、少し離れて林田権蔵らしき武士がいた。

 やがて小舟が入ってくると、亜蛇はすぐさま船着き場に下りて船頭せんどうに刀を向けた。

「これから此処は修羅場しゅらばと化す。命がしかばすぐに去れ」

 船頭は慌てて舟の向きを変えた。

「これで行き場はないぞ」

「おのれ何者だ、やれ」と、権蔵があご指図さしずした。

 やみくもに斬り込んできた二人は亜蛇の相手ではなかったが、もう一人の浪人は腕が立ちそうだった。

「なかなかやるな。だがここまでだ。一刀流いっとうりゅう佐久間甲斐さくまかいだ。参る」

 佐久間は上段に構えた。身幅みはばの広い剛剣ごうけんである。荒々しい太刀筋たちすじで、受ける刃ごと叩き折って勝ちを重ねてきたのだろうと亜蛇は思った。

香取神道流かとりしんとうりゅう、香月亜蛇。お相手仕る」

 亜蛇も名乗って正眼せいがんに構えた。

 亜蛇は相手の呼吸を見ていた。息が止まって腹に力を貯めた瞬間、亜蛇は刀を横にずらし寝かせた。

 佐久間は力を込めて振り下ろした。受けにくる刀を折ってそのまま脳天から唐竹割からたけわりにするつもりであった。

 ところが亜蛇は払いにいかずに寝かせた刃で脇腹わきばらから胴を抜き、振り下ろす切っ先をかわしながら反対側にすり抜けた。

 亜蛇は刀を合わせなかったのである。倒れた佐久間の口が「どうして……負けた」と、問いかけた。

にごった心ではわたしに勝てぬ。覚悟かくごが違うのだ」

 亜蛇は冷ややかにそう答えた。


 一人残った林田権蔵は籠から桃代を引きずり出すと背後から襟首えりくびをつかんで刃をのどに当てた。

「それ以上近づいたら桃代の命はないぞ」

 権蔵は上づった声で言った。だが殺したところで自分も斬られることはわかっていた。

「わしを斬れば高取藩が黙っていないぞ」

 数馬は大刀をさやに納めて小太刀を抜いた。そしてあおい家紋かもんを見せて、

「高取藩だと、上様を敵に回してか」と、不気味ぶきみに笑った。

「おぬしは一体何者なのだ」

 気が狂ったように叫ぶと権蔵は桃代を亜蛇に向けて突き飛ばした。

 亜蛇が左腕で桃代を受け止めると、権蔵は桃代の背後から桃代もろとも袈裟懸けに斬り下ろしてきた。

 咄嗟とっさに亜蛇は左の肩口から水平に小太刀を払い、その勢いのまま半回転し桃代をかばって背を向けた。

 それは亜蛇の秘剣ひけん一閃いっせん』であった。権蔵は喉からあふれ出る血に驚くように目を見開いたまま崩れ落ちた。

 しかし権蔵の刀は惰性だせいで亜蛇の肩を襲っていた。桃代を守るためあまんじてみずから刃を受けたのだった。


 桃代は亜蛇の腕の中で気が付いた。最初は自分を救ってくれたのが亜蛇とはわからなかった。

「お救いいただき、有難うございます。まあ、お怪我けがを」

 顔を見た途端とたん、懐かしさや有難さが絡み合って桃代は涙を流した。

「亜蛇さん、助けに来てくださったのね。とても立派になられて、お会いしとうございました」

「桃代さん、無事でよかった。お怪我はありませぬか」

 荒い息遣いをしながら亜蛇も微笑み返した。

「傷が深いわ、お医者様を探しましょう」

「大丈夫です、それより舟を呼んでください。深川に戻りましょう」

 桃代が船頭を連れてくると、船頭は亜蛇を見て荷揚にあげ人足の手を借りて舟へ運んだ。

「かたじけない、すまぬが深川蛤町の堀端ほりばたまで頼む。加納様の別荘まで……」

 亜蛇は船頭にそこまで告げると気を失った。

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