第18話 共に紀州へ

 爽やかな秋の空に冷たい風が感じられるようになった頃、数馬たちは旅支度たびじたくを終えた。

 二人の道中着どうちゅうぎの仕立てによるもので、必要な路銀ろぎんはすべて加納が用立ててくれた。

 また、廻船かいせん問屋の清水屋が和歌山わかやまに向かう船に乗れるよう手配をしてくれた。

 こうして恩を受けた人々に見送られながら、浅草から小舟で大川を下り品川沖に停泊中の大型船に乗り込んだ。

「わたくしは幸せ者ですね」

 甲板から海原うなばらを見つめながら吉乃がつぶやいた。

「武家の作法を学んだら、まことに姫様として生きるのですか」

 数馬もまた沖に目をやったまま訊いた。

「わかりませぬ。どう生きるべきかこの旅が教えてくれそうな気がいたします」

 それ以上の答えを今の吉乃から引き出すことはできぬと、数馬は口をつぐんでその話題を封印ふういんした。


 出立しゅったつの数日前、数馬は伯父の慶次郎けいじろうから書状を受け取った。それは母の訃報ふほうを知らせるものだった。

 数馬の思った通り、満江は道太郎と同日に亡くなっていたのだ。

 帰郷してもそこに母の姿がないと思うと、数馬は潮風しおかぜ身体からだに浸み込むような寂しさに襲われた。

 数馬も返信の書状にて父の最後の様子と帰郷ききょうの旅に出ることを知らせた。

伯父上おじうえも寂しい思いをされていることであろう)

 いつの間にか船はいかりを上げてゆっくりとすべるように動き出した。


 そして同じ品川には薬研堀やげんぼりの戦いから逃れた茅野竜膳が辿り着いていた。

 茅野は南品川の村に住む『改行かいぎょう』という山伏やまぶしの家に身を寄せた。

 そこは数馬が助太刀をした橋本兄妹のかたき、亀石重兵衛がひそんでいた場所でもあった。

 改行は自らを『天一坊てんいちぼう』と名乗り、将軍吉宗の落胤であると言って浪人者を従えていた。

 浪人たちは天一坊が大名のくらいを得たおりには仕官しかんが叶うものと信じ手弁当てべんとうつかえていたのである。

 ところがその威厳いげんも茅野には通用しなかった。

「天一坊様、わたくしはもうお一人ご落胤様がいらっしゃるのを存じております」

 茅野が唇の端に笑みを浮かべながら告げると、天一坊はぎょっと目を開くと眉間みけんしわを刻んだ。

「何、そのような者がおるのか」

「ある方のめいで密かにそのお方を亡き者にしようとしましたが、警護の者にはばまれ策は失敗に終わりました。天一坊様にとっても邪魔じゃまな存在かと思いますが如何いかがいたしましょうか」

 天一坊は少し考えてから、

「上様は落胤が二人いることをご承知か」

 と訊いた。茅野は唇の端に笑みを含ませて首を横に振った。

「刺客に追われて江戸に着いてからは人目につかぬように隠れていたようです。調べたところ上様との対面話もわれらをおびき出すためのさくでした。したがって上様はいまだご存じないはずでございます」

 茅野がそう告げると、天一坊は安心したように頷いた。

「されば早々に始末しまつせねばなるまいな。血を分けた者であってもと同様の素性すじょうの者がおっては上様を混乱させるだけだからのう」

 天一坊が答えると茅野の目があやしく光った。

「わたくしに腕の立つ者を三人ほどお貸しください。必ずや天一坊様の不安の種を取り除いてごらんに入れます」

 茅野は思わぬところで出世の糸口を掴んだとほくそ笑んだ。



 数馬と吉乃を乗せた船は途中の浜松はままつに寄港し荷の積み下ろしをしてから紀伊半島を廻り込んだ。そのまま紀伊水道きいすいどうを北上すると吉乃は海沿いの山を指差した。

「あの山を越えると備長炭びんちょうたんの原料となる姥目樫うばめがしが群生しており、その近くに父上の炭焼きがまと山小屋があります。そして山を下りると小さな集落があり、親しい人たちが暮らすわたくしの生まれ故郷となります」

 吉乃はなつかしそうに話すが、数馬は将軍の娘でありながら貧しく生きてきた吉乃が不憫ふびんで返す言葉が見つからなかった。

 数馬は気付いた。吉乃が突然武家の行儀作法ぎょうぎさほうを身に付けたいと言ったのは、勝手にこの世に誕生させ厳しい環境に身を置くことになった上様へのめの気持ちと、姫として立派に育った姿を見せつけることが亡き美世みよと道太郎の苦難にもむくいる道だと心に決めたのだろう。

 それならば数馬は待つしかないと思った。上様にお目見めみえした後、吉乃がどの道を選ぼうとも自分は吉乃を信じていつまでも待とうと決心した。


 二人は和歌山の港で下船し城下を歩いた。

 数馬にとっては一年ぶりであったが懐かしさなど微塵みじんもなかった。

 人々から好奇こうきの目で見られ、耐え忍びながらの修業であった。

 今、潔白けっぱくであった父の遺骨を抱いて見回す和歌山城下には何の未練みれんもなかった。

 加納久通は和歌山藩士として生きる道を示してくれたが、数馬は再び江戸に戻ってこのまま加納に仕えたいと思った。


 城下を素通すどおりして町はずれの坂道をしばらく上ったところで吉乃は立ち止まった。

「数馬さんはこの長い道のりを幼い頃から歩かれたのですか」

「はい、四歳からです。子供の足取りではなかなか辿り着けず、帰路は常にせまり来る黄昏たそがれに追われるようでした」

 吉乃の目の先には、小さな笠をかぶり背に教材を結び付けた少年が腰に差した木刀を重そうに歩く姿が浮かんだ。

 背に夕日を浴びながらひたすら坂を上るその小さな後ろ姿を想像し涙があふれた。

 数馬はそんな吉乃の目を見て、吉乃の言いたいことがわかった。

「吉乃さん、もうご自身を責めるのはやめましょう。確かに幼い時は辛い道でしたが、わたしを強くきたえてくれたのもこの道です。今では良い修業をしたと思っているのです」

 数馬が明るい表情で言うと、

「わかりました、もう過去をやんだりなげいたりはいたしませぬ」

 吉乃も微笑みを返した。


 伯父の家では慶次郎と下女げじょが待っていた。

 慶次郎は数馬一人の帰郷と思っていたが、共に旅をして来た吉乃を見て驚いた。

伯父おじ上、上様のご落胤であられる吉乃様です。父上は身重みおもの吉乃様のお母上『お美世様』を守るために密命みつめいを受けて出奔しゅっぽんしたのです」

 慶次郎とみねは慌ててひれ伏すと、とうに道太郎への疑いもない今では「うんうん」と、何度もうなずいた。

「密命で動いていることは存じておりましたが、まさかこれほどの大義たいぎとは。してお美世様はどちらに」

「母は昨年の春、胸の病にて亡くなりました。その四十九日法要を終えてから道太郎様と江戸へ下ったのです」

 吉乃の説明に慶次郎は再び頭を下げると、

「それはご愁傷しゅうしょうさまでございました。姫様が上様とご対面される場にさぞかし立ち合いたかったことでしょうに残念でございます」

 と、優しい口調で言った。

「お心遣いかたじけのうございます。されど悲しみはお互い様のこと、満江様こそ残念にございました」

 そこで数馬は慶次郎に確認したかったことを思いだした。

「ところで伯父上、父上は亡くなるきわに薄れる意識の中で母上の名を連呼してから『共に参ろう』と告げて息を引き取ったのです。わたしはその時母上も亡くなったのだと感じました。あれは父上の夢だったのでしょうか」

 慶次郎は暫く考えて、

「それはいつのことだ。正確な時を教えてくれ」  

「八月二十六日の早朝、空が白み始めた頃でした」

 数馬が答えると慶次郎はひざを叩いた。

「そのようなことがあるものなんだなあ。数馬よ、満江もまた同じ時刻に身罷みまかったのだ。不思議なことに息も苦しいはずなのに布団から腕を伸ばし、笑顔で手招てまねきをしていた。そしてわしもおみねもはっきりと聴いたのだ。『はい、共に』とな」

 数馬は涙を流した。悲しい涙ではない、それは喜びの涙だった。

 過酷なさだめによって引き裂かれた両親がようやくその願いを叶えて共に旅立ったのだ。

 その場にいる者は皆同じ気持であった。


 その日は伯父の家に泊まることになった。

 数馬がみねを心配して台所へ行って見ると、案の定みねは首をひねって考え込んでいる。

「おみね、案ずることはない。吉乃様は山育やまそだちだから村の料理をしょくしてきたのだ」

 そう告げるとみねは安堵あんどして、

「それなら村には村の美味しい食べ物が沢山ありますよ」

 と、元気になった。

「おみねは母上が亡くなって、これからどうするつもりだ」

「わたしは慶次郎様がいつまでもて良いとおっしゃってくださいましたので、このまま慶次郎様のお世話をさせていただくことにしました」

 数馬が江戸に行ってからの一年間で慶次郎とみねがより親しくなったように感じた。独身を通してきた慶次郎にとっては、それも良いかなと数馬は思った。そしてそこにも母の意思いしがあるような気がした。


 翌朝、慶次郎はくわを持って丘を登った。その後を数馬は父の遺骨を、吉乃は花束を抱え、少し離れてみねが水桶みずおけを持って続いた。

 みかん畑の丘の上は平らな墓地になっており、母と並んで父の墓標ぼひょうが既に建てられていた。

「わしは武士を捨てた身だ。いまさら先祖の菩提寺ぼだいじには埋葬できぬ。すまぬな数馬」

 慶次郎は土を掘りながら数馬にびた。

「何を申されますか伯父上。わたしも此処ここが好きです。みかんの香りに包まれたこの場所で遠く城下を見下ろしながら両親も思い出話ができるでしょう」

 数馬は城下に向いた墓標を見ながら笑顔で答えた。

 手向けた線香から立ち上る二本の煙はからみ合うように一つとなって澄んだ秋空へ消えていった。

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