第17話 道太郎の帰郷

 吉乃がけ付けた時、道太郎はすでに虫の息であった。

 かたわらには数馬と勝五郎が神妙しんみょうな顔つきで座っていた。

「父上」と呼ぶ吉乃を制して数馬が言った。

「今は眠っております。腹に入ったたまが血管に当たり、内部で出血しているとのことです」

「それではもう……」言いかけて吉乃は声をまらせた。

「あっしらは見送ることしかできないなんて……」

 勝五郎も涙を流し、膝に置いた拳に力を込めた。


 その頃、紀州では病のとこいた満江みつえを兄の慶次郎けいじろうと下女のが見つめていた。

 満江は荒い息づかいをしながらしきりと手招てまねきをしているように見えた。

 満江は夢を見ていた。


 柑橘かんきつ系の香りが鼻孔びこうをくすぐる。満江はみかん畑の広がる丘の上にいた。

 眼下がんかの道を誰かが登ってくる。近づくにつれてはっきりとその笑顔が見えてきた。

 道太郎様だ。道太郎様が帰って来られた。

「あなた……、戻られたのですね。お会いしとうございました」

「わしもどれほど会いたかったか、苦労をかけてすまなかったな」

「いいえ、わたくしはあなたを信じておりましたゆえ苦労とは思いませぬ。お役目は無事おすみですか」

「あとは数馬が上手うまくやってくれるだろう」

「数馬はお役に立ったのですね」

「ああ、そなたが立派りっぱに育ててくれたおかげだ」

「これからはずっとおそばにいてもよろしいのですか」

「もう決して離れることはない。ともに参ろうな」


 満江の最後の言葉は「はい、ともに」であった。

 それはうわ言なのか誰にもわからなかった。ただその顔から苦痛が消え、安らかに旅立ったことだけは見て取れた。

 同時刻、江戸では道太郎が目を閉じたまま吉乃の手を固く握っていた。

 そして「満江、満江」と連呼れんこし「ともに参ろう」と言い残して息絶いきたえた時、数馬はすべてを理解した。

「父は今、母に会っていたのだと思います。そして母もまた願いを叶えて父と共に黄泉よみの国へと旅立ちました」

 勝五郎たちは数馬の話を素直に信じた。

「道理で幸せそうなお顔をしていらっしゃる」

 鼻をすすりながら勝五郎が言った。

 数馬は吉乃に向きを変えて、

「遠く江戸と紀州に別れても通じ合うことができる。人の心とは時に奇跡きせきこすものですね、我らの持つ小太刀と短刀のように」

 微笑む数馬の目から大粒おおつぶの涙がぽろぽろと落ちた。

 自分の悲しみを両親の幸せに置き換えた数馬の心が、切ないほどに痛々しく吉乃の胸に突き刺さった。

 吉乃は言葉を失い、ただ数馬の手を握ることしかできなかったのである。



「そうか道太郎がったか」

 加納久通はつぶやくように言った。

「父はわたしをかばって銃弾に倒れたのです。されどその犠牲ぎせい甲斐かいなく茅野竜膳に逃げられてしまいました」

 数馬は両手をついて頭を下げた。

「案ずることはない、茅野は忠義にうすい男だ。役目を放棄ほうきして何処ぞへ出奔しゅっぽんしているであろう」

 加納は数馬をなぐさめるように言うと、

「そなたたちは本日ご落胤が上様にお目通りすると敵をだましたのだったな。今頃は大久保様も覚悟を決めているはずだ」

 厳しい顔をして立ち上がった。

 数馬は改めて平伏した。


 加納は大久保屋敷を訪ねた。

 大久保はその意図いとさっして死装束しにしょうぞくで待っていた。

「叔父上、その姿はどういうことですか」

「すべてはお取次様がご存知のことと推察すいさつつかまつる。此度こたび所業しょぎょうはそれがしの一存いちぞんでございます。それがしは隠居いんきょの身であるため、旗本はたもとであるせがれの大久保家とは何の関りもございませぬ。どうかそれがし一人いちにん切腹せっぷくにてお許し願いとう存じます」

 大久保はひたいを畳にこすり付けて懇願こんがんした。

「それはいささか虫の良い話でござるよ。上様に弓を引いたも同然の行為を御身おんみの切腹だけで済ませるおつもりか」

 叔父といえども加納はきびしくめ立てた。

「倅は何も知りませぬ。何卒なにとぞ、倅だけはお許しくださいませ」

 大久保は涙を流した。

 暫く考えた後、加納はある提案をした。

「ご落胤らくいんをめぐる騒動そうどうが明るみに出れば上様もお困りになるであろう。されば旗本大久保家は何も知らぬままにするしかない」

「それではそれがしの切腹だけで収めていただけますか」

 大久保は喜びに顔を上げた。

「心こころえ違いされてはこまる、切腹は断じて許さぬ。ご子息を助けたければ病死してもらわねばならぬのだ。叔父上はすぐさま床にし、二月ふたつき三月みつき後に他界たかいしてもらう。断食だんじきするなり、少しづつ服毒ふくどくするなり御身の始末はご自身で決められよ」

 加納は吉宗へのゆるぎない忠誠を尽くすべく、身内に対してもえて冷酷な決断をした。

 大久保は武士らしく切腹して死ぬことが叶わぬとも息子を守ったことに満足し、去って行く加納の後ろ姿に深々と頭を下げた。

 大久保忠直はその年の十一月に病床にて息を引き取ることになる。加納との約束を守り病死と届けを出した大久保家も安泰あんたいとなった。


 また、加納は登城とじょうの際に大奥の葉山はやまを訪ねた。

 葉山は大久保が己のとがを認めたことを告げられると、首を項垂うなだれて愕然がくぜんとした。

拙者せっしゃはまだ上様に葉山様の所業を申し上げておらぬ。そなたを断罪だんざいすることは上様につらい思いをさせることである。明るみに出れば今さらにしてきご正室せいしつ真宮さなのみや様の顔に泥を塗ることにもなる」

 葉山は青ざめた顔に苦悶くもんの表情を浮かべた。

「どうかわたくしに自害じがいをお許しくださいませ」

 答える代わりに加納は厳しい顔で首を横に振った。

「大奥での自害は上様の知るところとなるゆえ、自害したければ大奥を去ってからご随意ずいいになさるが良かろう」

 加納の言葉は重く、葉山のすべての力を奪った。

 葉山はその三日後、高齢を理由に宿下やどさがりを願い出た。そしてともも連れず単身で城外に消えたのであった。


 道太郎の葬儀は勝五郎のはからいで『を組』でおこなわれた。

 弔問ちょうもん客の殆どは江戸の町人たちであったが、その中にお忍び姿の加納久通がいた。

 焼香しょうこうを済ませると加納は奥の間で吉乃と対面することになった。

「吉乃様、初めてお目にかかります。久通にございます」

 加納は丁寧ていねいに挨拶をした。

「加納様のおかげで無事に生きながらえております」

 吉乃も笑顔を返した。

「何をおっしゃいます、わたくしは姫様に難儀なんぎをおかけしたばかりでお守りしたのは道太郎と数馬の手柄てがらにございます」

「はい、わたくしも香月家の皆様には感謝とおびの気持ちでいっぱいです」

 吉乃は目を伏せてしみじみと言った。

「それにしてもお美世様もお美しかったが吉乃様はさらにお美しい。上様もきっとお喜びになられるでしょう」

 そこに数馬が部屋に入って来た。

「本日はお忙しいところ焼香をたまわりかたじけのうございます。父道太郎もさぞ喜んでいることと存じます」

「うむ、道太郎には生きているうちに礼を言いたかった。命をして姫を守ったこと、わしは生涯忘れぬ」

 加納の言葉に数馬は心を震わせた。

「そのお言葉だけで本望ほんもうでございましょう」

「数馬、これからどうするつもりだ。紀州に戻って香月家を再興さいこうしたいならばわしがそうさせるぞ」

 加納は自分のめいにより汚名を着た家を復活させるのも己の責務と考えていた。

「まずは国元に戻り、父の菩提ぼだいとむらいたいと存じます。ご返答はそれからでもよろしいでしょうか」

 数馬がそう言うと、加納は「うむ」とゆっくり頷いた。

 すると吉乃が数馬の方に向きを変えた。

「どうぞその旅にわたくしもお連れくださいませ。道太郎様はわたくしにとっても父親同然のお方です。わたくしも墓前にお参りがしとうございます。そして山寺に眠っている母の墓前にも報告をしたいのです」

 加納も数馬も吉乃の申し出に反対する理由がなかった。だが、加納には気掛かりもあった。

「上様は吉乃様とのご対面を楽しみにしていらっしゃいますぞ」

「それについては加納様にお願いがございます」

 吉乃が突然言い出すのに加納は驚き、

「何でございましょう」

 と、慌ててき返した。

「わたくしは山育ちの粗野そやな娘です。このまま上様にお目通りする自信が持てませぬ。墓参ぼさんから戻りましたら加納様のお屋敷に住まわせていただき、行儀作法ぎょうぎさほうそして武家の娘としてのたしなみを仕込しこんでいただきたいのです。上様へのお目通りはその後にしたいと存じます」

 吉乃の真剣な眼差まなざしに加納は承諾しょうだくするしかなかった。

(いずれは何処どこぞの大名家にとつぐ身なれば、武家の教育は必要となる。上様もご納得されるであろう)

 加納の考えとは裏腹うらはらに数馬の心中は穏やかではなかった。

 急に吉乃が遠い存在へと離れて行ってしまうような不安を覚えたのである。

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