第12話 想い人たち

 幸助こうすけ祝言しゅうげんが近づき、数馬が宴席用に新しいかんざしを買ってくれるというので吉乃は喜び勇んで長屋にやって来た。

 ところが数馬は家の前で武家の娘と親しそうに話し込んでいた。

 吉乃を見つけると数馬は、

「吉乃さん、もうそんな刻限こくげんですか。急いで支度したくをして参ります。あっ、この人はこの長屋に住む瑞江みずえ殿です」

 と、簡単に紹介して家の中に入ってしまった。

 吉乃はそのぞんざいな紹介ぶりがかえって瑞江と親し気で腹が立った。

 瑞江はふくれる吉乃の横顔を見て可笑おかしそうに微笑ほほえんだ。

「吉乃様、心配はりませぬ。あなたのような美しい方にかなうはずがありませんもの」

 瑞江は吉乃の存在を知っているようだった。

「そして吉乃様、香月様をおしたいしているのでしょう。香月様を見る目でわかりますよ」

 吉乃はどんな顔をしてよいかわからず頬を染めてうつむいた。

 すると瑞江は遠い空を見上げて、

「わたくしもあなた方のように共に歩きかたらいたい人がいます。国元に夫となるかたを待たせているのです」

 と、寂しげな表情を浮かべた。

「それはまたどうして」

「香月様はご存知ですが、わたくしは兄と共に父のかたきを討たねばなりませぬ。何処どこにいるとも知れぬ仇を捜し、見つけても返り討ちにあうかもしれないのです。国を出る時に破談はだんを申し出ましたがあのお方は、京太郎きょうたろう様はいつまでも待つとおっしゃってくださいました」

 瑞江は空を見上げたまま涙をぬぐい、そのまま家に帰って行った。

 数馬が支度を終えて出てきた時、吉乃は顔を歪めて走り寄った。

「数馬さん、何とか瑞江様を助けてあげて」

「はい、そのつもりです。必ず無事に故郷へ帰してさしあげましょう」



 初夏の大川端おおかわばたさわやかな風が吹き抜けて気持ちが良い。川の水は陽の光を浴びてきらめきながらとうとうと流れ、土手の草花は瑞々みずみずしく青かった。

 吉乃は新しい簪を髪に差してもらい上機嫌じょうきげんだった。高価な物ではなかったけれど、贈り物を身に付けて並んで歩ける幸せに心が満たされていた。

(上様にお目通りをしたその日から城中で暮らすことになり、数馬さんとは会えなくなってしまうのかしら。それは嫌だ、こんなふうにいつまでも共に歩きたい)

 吉乃は刺客から逃れる日々だけでなく、愛する人までも奪われる過酷なさだめをのろった。

「どうかしましたか」

 急に黙った吉乃をのぞき込むように数馬が声を掛けた。

「いいえ何でもありませぬ」

 吉乃は幸せな時に悪いことを考えてしまう己を恥じた。

 二人が浜町河岸はまちょうがしまで来た時だった。

「近くに廻船問屋かいせんどんや清水しみず屋』があるのですが、一人娘のおさんはおさんの幼なじみで親友なのです。最近おちよさんの表情が日増しに暗くなってきたとおさえさんが心配しているのです」

 吉乃は友を案ずるさえの言葉を代弁だいべんした。

「何か原因があるはずです。おちよさんについて知っていることを教えてください」

「おちよさんの父親はとてもきびしくて外出もままならず、出かける時は何処どこ何用なにようかと問いただすと共に用心棒ようじんぼうが二人もついて来るそうです。おちよさんは嫌気いやけがさして父親とは険悪けんあくだとか」

 吉乃の説明に数馬は腕を組んで考えた。

「しかし、それは昨日今日始まったことではない筈です。最近変わったことといえばおさえさんの祝言です。おちよさんは幸せそうなおさえさんがうらやましいのではないでしょうか」

「そうかもしれませんね。それならおさえさんに言えないのは最もです。わたくし一度おちよさんを訪ねてみます」

 数馬も納得し、吉乃がちよに直接会うことになった。


 その三日後、吉乃がうなだれた様子で長屋にやって来た。

「どういたしましょう、もうわたくしの手には負えませぬ。おちよさんには父親が進める縁談えんだんがありました。されどおちよさんは善造ぜんぞうさんという清水屋の手代てだいおもい合っているのです」

「それでおさえさんが幸せに包まれるほど我が身が悲しく思えたのですね」

 吉乃は力なくうなずいた。

「だからといって吉乃さんがそこまで落ち込まずともよいのに」

 数馬は困ったように苦笑した。

「気の毒でならないのです。何不自由のない家に生まれながら少しも幸せでないなんてくやしいのです」

 吉乃は己の境遇きょうぐうと重ねているようだった。将軍の娘に生まれながらも命を狙われ、厳しい道を歩んできた吉乃もまた幸せにならねばならぬ存在だった。

「わかりました。それでは此度こたびはわたしが善造さんに会って覚悟かくごのほどを聴いて参ります」

 この時数馬は吉乃の気持ちを楽にするためだけに動くことしか頭になかった。

 ところがこのお節介せっかいがやがて新たなえんつむぐことになるとは二人とも思いもよらなかったのである。



 清水屋の手代『善造』は近くの長屋に住む祖父の善吉ぜんきち見舞みまっていた。

 善造は幼くして両親を亡くし善吉だけが唯一ゆいつの肉親だった。

 その善吉が死期しきを前にして善造を呼んだ。

「善造、わしは心残りでこのままだと三途さんずの川を渡れねえ」

 善吉は呼吸を乱しながら善造の手を握って言った。

じいちゃん、何のことだよ。わかるように話しておくれ」

 善造が促すと善吉は頷いて、ひりついたのどに水を一口流し込むと話し始めた。


 善吉の話は十七年前にさかのぼる。

 当時善吉は清水屋おかかえの船頭せんどうをしており、小舟で大川を行き来していた。

 その日は主人の惣衛門そうえもん寄合よりあい仲間二人を乗せて、新しく建造された大型船を見物するため品川の港に来たのだった。

 夜は馴染なじみの小料理宿『磯辺いそべ屋』でうたげもよおした後それぞれの部屋に宿泊した。

 その明け方であった。寄合仲間の部屋から出火した火事はまたたく間に燃え広がり、敷地の奥に位置する磯辺屋のあるじ夫婦が燃えてくずれた二階の客間と共に犠牲ぎせいとなった。

 たまたまかわやに下りていた惣衛門は奥の部屋からい出て廊下にいた赤子あかごを抱いて外に飛び出したのだ。

 暗いうちから帰りの小舟を岸につけて待っていた善吉は、火に追われた惣衛門が赤子を抱いて飛び出してきたのを見て腰を抜かすほど驚いた。

「わたしが戻るまでこの子を預かっておくれ。おまえは先に帰って誰にも言うんじゃないよ」

 善吉は言葉が出ずにただ何度も頷くと、惣衛門は焼け出された使用人たちの所へ戻ったのだった。

 惣衛門が帰って来たのはその晩だった。詮議せんぎの結果、火元は寄合仲間の寝煙草ねたばこによる火の不始末ということだった。煙草を吸わない惣衛門はおとがめなしとなったのである。

 善吉から赤子を受け取った惣衛門は夫婦で話し合い、自分たちの子として育てることに決めた。

 け落ち同然で江戸に出て来た磯辺屋夫婦の力になってきた惣衛門は赤子が生まれた時、その名付なづけ親を頼まれた。いつまでも幸せにと願いを込めて『』と名付けたのは惣衛門であったのだ。

 惣衛門は偶然名付け親になったことも、今まで子宝こだからに恵まれなかったことも神から与えられた使命しめいだと思うことにした。


 善吉はまた一口喉を潤した。

「磯辺屋のだんなは腕のいい板前で男前の上に気風きっぷの良い人だった。おかみさんは気遣きづかいのできる優しい人で、宴の日はいつも舟で待つわしにまで料理を振舞ふるまってくれたもんだ」

 善吉はなつかしむように言った。

「おじょうさんの本当の両親のことかい」

「そうだよ。旦那だんな様はあの両親ならばきっと気立きだての良い娘に育てたに違いないと思い、負けじと心血しんけつを注いで育ててきたんだ。そしてあの日以来、自分たちさえ磯部屋へまりに行かなければと今でもご自身を責めておられる。旦那様のせいではないのに」

 善吉の目に涙があふれた。

「爺ちゃん、ひょっとして俺が清水屋へ奉公ほうこうできたのはこのおかげかい」

「黙っていてすまねえ善造、だが口止め料とかじゃないんだよ。旦那様はわしにしか本心を明かせねえ。わしたちは同じ苦しみを分かち合っているんだ。おめえを立派な商人にすると言ってくださったのは旦那様の方からで、番頭ばんとうさんの代わりができるまでに出世したのはおめえの頑張りだ」

 善造の胸の内にはちよに対する想いがあった。だがその想いをはるかにしのぐ大きな愛を知ってしまった。

「善造、わしはもう長くねえ。わしがいなくなったら旦那様の苦しみをわかってあげられる者がいねえ。おめえに旦那様の話し相手になれとは言わねえが、せめてお嬢様に本当のことを話して旦那様の本心を伝えてはくれねえか」

「旦那様はご自分から打ち明けようとは思わないのかなあ」

 善造は他人が口を出したことで余計よけいにこじれるのを心配した。

「旦那様は恐れていなさるんだ。打ち明けた結果、うらまれて娘を失うんじゃないかと。自分自身を許せないのに許される筈がないと思っているんだ」

「わかったよ爺ちゃん、俺も心がすれ違っているだけだと思う。互いを大切にしている想いは確かだからきっと上手うまくいくよ」

 善造は己の心に順序を付けた。ちよへの想いを封印してまずは祖父の安らかな旅立ちを願うことにした。



 数馬が善造を訪ねたのは、善造がちよの秘密を知った直後だった。

 店の外に呼ばれた善造は数馬の同心姿を見て、何かの事件の聞き込みだと思ってついて来た。

 数馬は大川にぎ出す舟着ふなつき場の石段に腰を下ろすと、善造にも座るように促した。

「わたしは南町奉行所同心の香月数馬と申す。善造さんを訪ねたのは役目ではなく、わたしのお節介というところだから気軽きがるに聴いてくれ」

 善造は訳がわからずただ頷いた。

「わたしが懇意こんいにしている神門の頭の娘の祝言が近づくにつれ、おちよさんが父親との不仲ふなかとままならぬ恋に悩んでいるというのだ」

 数馬は本題を切り出した。

「わたくしにどうしろとおっしゃるのですか」

 予測よそくに反して善造の投げやりな言葉に数馬は驚いた。

「わたしは二人が恋仲と聴いて善造さんの覚悟を知りたいと思ったのだが、そなたはおちよさんを好いてはおらぬのか」

「昨日まではおこがましくも一緒になりたいと思っていました。でも今は違います。旦那様の深い愛情の前にはわたしのいたれたなどちっぽけなものだとわかったのです。お嬢さんの幸せを考えたら旦那様が進める縁談の方が良いに決まっています」

 うつむいた善造の目から大粒の涙がしたたって石段にみを作った。

「何かあったのだな、これから共に神門の頭の所へ行こう。かかえきれない悩みがある時は助けてくれる人に頼るものだ」

 そう言うと数馬は清水屋に戻って「終日まで善造を借りるぞ」と声を掛けて浅草へ向かった。


 勝五郎の家では数馬が相談に来た訳を話した後、善造がなかなか言い出せずに重苦おもくるしい空気が流れていた。

 さらに買い物から帰ったさえにれられてちよまで集まってしまった。

 進退きわまった善造は、惣衛門の本心を伝えるという祖父の願いを叶えることだけに専念した。

 善造が話を進めると、静かな部屋に女たちのすすり泣く声だけが響いた。

 ちよは青い顔をしてさえに肩を抱かれている。二人とも顔をくしゃくしゃにして泣いていた。

 も勝五郎の手を握り、袖口そでぐちみしめてえている。

 話が終わると、

「旦那様が厳しくしたり束縛そくばくしたのはそれだけお嬢さんを大切にしていたからなのです。亡くなったご両親に顔向けができるように」

 善造が付け加えて言った。

 ちよは不安げな顔で「おさえちゃん」と、すがるようにさえの顔を見た。

「大丈夫よ、おちよちゃん大丈夫」

 さえは背中に回した手で優しくでた。

「お父様は馬鹿よ、何も悪いことをしていないのに。孤児こじになったわたしを育てただけじゃない。それも何不自由なくすべてを与えて。今までどうして話してくださらなかったのかしら」

 少し落ち着くと泣きはらした顔でちよがおこるようにき捨てた。

こわかったんだよ。父親というのは我が子の前では臆病おくびょう不器用ぶきようなもんさ」

 勝五郎がさえの顔をちらっと見て言った。

「あなたたちのことはどうするの」

 さえは惣衛門が進めている縁談のことも案じていた。

「わたしは旦那様のお気持ちに答えられるほどお嬢さんを幸せにすることなどできません」

 ちよは善造の答えに首を激しく左右に振って、

「わたしは幸せにして欲しいのではなく、あなたと共に幸せになりたいのです」

 と、声に力を込めた。

「帰ったら惣衛門さんとはらって話すことだ。互いを思う心がほんの少しすれ違っただけさ。きっとわかりあえる」

 勝五郎は微笑みを浮かべて立ち上がるとちよと善造の肩をぽんと軽く叩いた。


 土間から通りに出るとちよは表の縁台えんだいに座って待っていた浪人ろうにんの一人に声を掛けた。

亀石かめいし様お待たせしました。家に帰ります」

 そんな声を聞きながら部屋に戻り茶を飲んでほっとした時、勝五郎がしみじみと言った。

「しかし、世の中というのは色々なえんからみ合っているもんだな」

 その瞬間、数馬は「あっ!」と叫んで表通りの方を振り返った。

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