第12話 想い人たち
ところが数馬は家の前で武家の娘と親しそうに話し込んでいた。
吉乃を見つけると数馬は、
「吉乃さん、もうそんな
と、簡単に紹介して家の中に入ってしまった。
吉乃はそのぞんざいな紹介ぶりがかえって瑞江と親し気で腹が立った。
瑞江はふくれる吉乃の横顔を見て
「吉乃様、心配は
瑞江は吉乃の存在を知っているようだった。
「そして吉乃様、香月様をお
吉乃はどんな顔をしてよいかわからず頬を染めてうつむいた。
すると瑞江は遠い空を見上げて、
「わたくしもあなた方のように共に歩き
と、寂しげな表情を浮かべた。
「それはまたどうして」
「香月様はご存知ですが、わたくしは兄と共に父の
瑞江は空を見上げたまま涙を
数馬が支度を終えて出てきた時、吉乃は顔を歪めて走り寄った。
「数馬さん、何とか瑞江様を助けてあげて」
「はい、そのつもりです。必ず無事に故郷へ帰してさしあげましょう」
初夏の
吉乃は新しい簪を髪に差してもらい
(上様にお目通りをしたその日から城中で暮らすことになり、数馬さんとは会えなくなってしまうのかしら。それは嫌だ、こんな
吉乃は刺客から逃れる日々だけでなく、愛する人までも奪われる過酷なさだめを
「どうかしましたか」
急に黙った吉乃を
「いいえ何でもありませぬ」
吉乃は幸せな時に悪いことを考えてしまう己を恥じた。
二人が
「近くに
吉乃は友を案ずるさえの言葉を
「何か原因がある
「おちよさんの父親はとても
吉乃の説明に数馬は腕を組んで考えた。
「しかし、それは昨日今日始まったことではない筈です。最近変わったことといえばおさえさんの祝言です。おちよさんは幸せそうなおさえさんが
「そうかもしれませんね。それならおさえさんに言えないのは最もです。わたくし一度おちよさんを訪ねてみます」
数馬も納得し、吉乃がちよに直接会うことになった。
その三日後、吉乃がうなだれた様子で長屋にやって来た。
「どういたしましょう、もうわたくしの手には負えませぬ。おちよさんには父親が進める
「それでおさえさんが幸せに包まれるほど我が身が悲しく思えたのですね」
吉乃は力なく
「だからといって吉乃さんがそこまで落ち込まずともよいのに」
数馬は困ったように苦笑した。
「気の毒でならないのです。何不自由のない家に生まれながら少しも幸せでないなんて
吉乃は己の
「わかりました。それでは
この時数馬は吉乃の気持ちを楽にするためだけに動くことしか頭になかった。
ところがこのお
清水屋の手代『善造』は近くの長屋に住む祖父の
善造は幼くして両親を亡くし善吉だけが
その善吉が
「善造、わしは心残りでこのままだと
善吉は呼吸を乱しながら善造の手を握って言った。
「
善造が促すと善吉は頷いて、ひりついた
善吉の話は十七年前に
当時善吉は清水屋お
その日は主人の
夜は
その明け方であった。寄合仲間の部屋から出火した火事は
たまたま
暗いうちから帰りの小舟を岸につけて待っていた善吉は、火に追われた惣衛門が赤子を抱いて飛び出してきたのを見て腰を抜かすほど驚いた。
「わたしが戻るまでこの子を預かっておくれ。おまえは先に帰って誰にも言うんじゃないよ」
善吉は言葉が出ずにただ何度も頷くと、惣衛門は焼け出された使用人たちの所へ戻ったのだった。
惣衛門が帰って来たのはその晩だった。
善吉から赤子を受け取った惣衛門は夫婦で話し合い、自分たちの子として育てることに決めた。
惣衛門は偶然名付け親になったことも、今まで
善吉はまた一口喉を潤した。
「磯辺屋のだんなは腕のいい板前で男前の上に
善吉は
「お
「そうだよ。
善吉の目に涙が
「爺ちゃん、ひょっとして俺が清水屋へ
「黙っていてすまねえ善造、だが口止め料とかじゃないんだよ。旦那様はわしにしか本心を明かせねえ。わしたちは同じ苦しみを分かち合っているんだ。おめえを立派な商人にすると言ってくださったのは旦那様の方からで、
善造の胸の内にはちよに対する想いがあった。だがその想いをはるかに
「善造、わしはもう長くねえ。わしがいなくなったら旦那様の苦しみをわかってあげられる者がいねえ。おめえに旦那様の話し相手になれとは言わねえが、せめてお嬢様に本当のことを話して旦那様の本心を伝えてはくれねえか」
「旦那様はご自分から打ち明けようとは思わないのかなあ」
善造は他人が口を出したことで
「旦那様は恐れていなさるんだ。打ち明けた結果、
「わかったよ爺ちゃん、俺も心がすれ違っているだけだと思う。互いを大切にしている想いは確かだからきっと
善造は己の心に順序を付けた。ちよへの想いを封印してまずは祖父の安らかな旅立ちを願うことにした。
数馬が善造を訪ねたのは、善造がちよの秘密を知った直後だった。
店の外に呼ばれた善造は数馬の同心姿を見て、何かの事件の聞き込みだと思ってついて来た。
数馬は大川に
「わたしは南町奉行所同心の香月数馬と申す。善造さんを訪ねたのは役目ではなく、わたしのお節介というところだから
善造は訳がわからずただ頷いた。
「わたしが
数馬は本題を切り出した。
「わたくしにどうしろとおっしゃるのですか」
「わたしは二人が恋仲と聴いて善造さんの覚悟を知りたいと思ったのだが、そなたはおちよさんを好いてはおらぬのか」
「昨日まではおこがましくも一緒になりたいと思っていました。でも今は違います。旦那様の深い愛情の前にはわたしの
うつむいた善造の目から大粒の涙が
「何かあったのだな、これから共に神門の頭の所へ行こう。
そう言うと数馬は清水屋に戻って「終日まで善造を借りるぞ」と声を掛けて浅草へ向かった。
勝五郎の家では数馬が相談に来た訳を話した後、善造がなかなか言い出せずに
さらに買い物から帰ったさえに
進退
善造が話を進めると、静かな部屋に女たちのすすり泣く声だけが響いた。
ちよは青い顔をしてさえに肩を抱かれている。二人とも顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
しずも勝五郎の手を握り、
話が終わると、
「旦那様が厳しくしたり
善造が付け加えて言った。
ちよは不安げな顔で「おさえちゃん」と、すがるようにさえの顔を見た。
「大丈夫よ、おちよちゃん大丈夫」
さえは背中に回した手で優しく
「お父様は馬鹿よ、何も悪いことをしていないのに。
少し落ち着くと泣きはらした顔でちよが
「
勝五郎がさえの顔をちらっと見て言った。
「あなたたちのことはどうするの」
さえは惣衛門が進めている縁談のことも案じていた。
「わたしは旦那様のお気持ちに答えられるほどお嬢さんを幸せにすることなどできません」
ちよは善造の答えに首を激しく左右に振って、
「わたしは幸せにして欲しいのではなく、あなたと共に幸せになりたいのです」
と、声に力を込めた。
「帰ったら惣衛門さんと
勝五郎は微笑みを浮かべて立ち上がるとちよと善造の肩をぽんと軽く叩いた。
土間から通りに出るとちよは表の
「
そんな声を聞きながら部屋に戻り茶を飲んでほっとした時、勝五郎がしみじみと言った。
「しかし、世の中というのは色々な
その瞬間、数馬は「あっ!」と叫んで表通りの方を振り返った。
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