第10話 幽霊屋敷

 道太郎の家は勝五郎の言う通り、薬研堀の幽霊屋敷ゆうれいやしき》と尋ねれば誰もが知っていた。

 古寺の土塀どべいに囲まれた袋小路ふくろこうじの突き当りにその家はあった。土塀の中はすべて墓場だ。

 まさに近所の住人たちが幽霊屋敷と恐れるたたずまいであった。さらに夜更よふけになるとコツン、コツンと音がするというのだ。

 そのうち、成仏じょうぶつできない魂が自ら墓石ぼせきを彫っていると噂されるようになり誰も近づかなくなった。


 数馬は人気のない路地を進んで雑草に覆われた庭に立った。雑草は人が一人通れるだけの通路状に刈られていた。

 古い平家の入口は板戸で固く閉ざされていたが、中には息を殺すような人の気配が感じられた。

 数馬が小さく戸を叩くと、戸の隙間すきまからこちらをうかがう目があり確認後に小さく板戸が引かれた。

 姿を見せた娘をおびえさせぬよう数馬はすぐに名乗った。

「わたしは両国で暴漢ぼうかんを追い払った際にお目にかかった者にございます。『神門しんもんかしら』勝五郎さんにお住いを教えてもらい参上いたしました」

 不安そうだった娘の顔がみるみる明るくなり笑顔に変わった。

「お会いしとうございました。ご覧の通りのあばら家ですが、どうぞお入りください」

 数馬は改めて大きく引かれた板戸を抜け、土間から板の間に上がった。

「その折はお助けいただきありがとう存じます。気が動転して名乗ることもせずご無礼ぶれいをいたしました。わたくしは吉乃と申します」

 吉乃はそれだけ言うと立ち上がって台所から白湯さゆを運んできた。

 膝前ひざまえに置かれた白湯を一口含んでから数馬は吉乃の顔を見た。

「わたしもあなた様に会いたいと思っておりました。昨夜は夜通し火事場におり、纏持ちの幸助さんに出会ったことから神門の頭に吉乃様のことを伺いました。そのまま浅草からお訪ねしたものですから煙臭けむりくさい格好で申し訳ありません」

 吉乃は数馬の同心姿を見て、火事場にいた意味を知った。

「それはお疲れのことでしょう。お役目ご苦労様にございました。失礼でなければお名前を伺ってもよろしいでしょうか」

 数馬は一瞬躊躇ちゅうちょした。名乗れば吉乃を困らせることになると考えたからだ。

「あなた様を驚かせてしまいますが、わたしは探索方同心の香月数馬と申します。道太郎はわたしの父です」

 懸念けねんした通り吉乃は小さく「えっ」とつぶやいたまま言葉を失い、そのままうなだれて顔を上げることができなくなった。

 数馬もまたかける言葉がなく、吉乃の膝にしたたる涙を見つめていた。


 先に口を開いたのは吉乃であった。

「母とわたくしが父上を独占してしまってから、数馬様と母上様がどのように生きてこられたのかお聴かせ願えますか」

 吉乃は口先でびることはせず、残された家族の苦難を理解し胸に納めることが贖罪しょくざいであると考えていた。

 数馬もそんな吉乃の気持ちに沿うべく己のい立ちを語った。

「吉乃様のことも知りとうございます」

 数馬が願うと吉乃も、刺客に狙われながら生きてきた山里での暮らしや炭焼きで生計を立ててきたことなどを打ち明けた。

「姫様のご身分に生まれながら長年に渡る山中での暮らしはさぞや難儀なんぎでございましたでしょう。わたしは父が受けた密命のことも吉乃様がご落胤であられることも上様お側ご用取次の加納久通様よりお聴きしております。互いにさだめに従って生きてきたのです。どうかわたし共への罪悪感でお心を痛めないでください」

 吉乃は顔を上げると小さく微笑んだ。

「優しいお言葉、かたじけのうございます。わたくしは両国での出来事の後、また数馬様に会えるような気がしていました。正直な気持ちを申し上げると、わたくしたちをつなぐごえんを嬉しく思っているのです」

 吉乃の頬が薄紅色うすべにいろに染まった。縁と聴いて数馬はふと小太刀のことを思いだした。

「吉乃様、もうひとつ不思議な縁がございます。両国で抜かれた短刀を見せていただけますか」

 吉乃が短刀を取りに行っている合間に数馬も小太刀を鞘ごと帯から抜き膝前に置いた。

 吉乃が同じように短刀を置くと数馬は説明を始めた。

「わたしも聴いた話ですが、この小太刀と短刀のはがねは元々一振りの刀を作るための玉鋼たまはがねでした」

 数馬は加納から聴いた刀にまつわる話を伝えた。

「刀をきたえるのは一種の神事しんじです。ですから刀に魂が宿ることもあるのだと思うのです。そして二つに分けられた魂は一方が危機におちい抜刀ばっとうした時、もう一方も共に戦おうとするのではないでしょうか。両国であなた様が短刀を抜いた時、わたしの小太刀がうなりを上げてかすかに震えました」

 数馬が付け加えて話すと吉乃は目を丸くして、

「わたくしも同じです。手の中で短刀が震えました。まことに不思議なご縁ですね」

 と、嬉しそうに笑った。

「今後はいつもその短刀をたずさえてください。吉乃様の危機を感じたらすぐさまけ付けますゆえ」

 数馬も目を輝かせて吉乃を見つめた。

「ところでこんなところに住まわれて恐ろしくはないのですか」

 数馬が問うと、

「世間では幽霊屋敷と呼ばれているとか。数馬様は幽霊が怖いのですか、生きた人間相手ではあんなにお強いのに」

 と、吉乃は悪戯いたずらっぽい笑みを浮かべた。

「それはそうですよ。幽霊には剣術も役には立ちませぬ。夜中に墓石を彫る幽霊などまっぴら御免ごめんです」

 しかめっ面をする数馬を見て、吉乃は口に手をやり声に出して笑った。

「それは父上の仕業しわざです。刺客に襲われた時の逃げ場を作っているのです。此処は袋小路で路地をふさがれたら逃げ場がありません。そこで庭に面する土塀に穴を開け、墓場から本堂を通り山門へ逃げるのです」

「それでは夜中に墓石を彫る音というのは土塀を削っていたのですか」

 吉乃は目を細めて大きく頷いた。

 道太郎はいかに人目に付かない場所に隠れてもいずれは刺客にぎつけられると思っていた。必ず逃げ場を確保しておくことが身に付いていたのだった。

「そこまでして父は何故なにゆえ加納様を頼らないのでしょうか。めいくだしたのが加納様だというのに」

「父上はあらゆることに警戒しておられます。数馬様は真っ直ぐなお方ゆえ否定されると思いますが、わたくしを亡き者にしようとしているのは加納様の叔父おじに当たる大久保忠直ただなお様です。そして上様ご嫡男であらせられる家重様の祖父でもあります。大久保様は落胤であるわたくしを男子おのこと思い、家重様の世継ぎの座を守るために刺客を立てました。そしてわたくしが女子おなごと判明した今でも、命を狙ったことが上様に知られぬようわたくしの口を塞ごうとしているのです」

 数馬は話を聴きながらこみ上げる怒りに身体が震えた。

「何と身勝手な。父は大久保様の甥である加納様のことも疑っておられるのでしょうか」

「わかりませぬ、信じたいとは思っているようですが警戒もされているようです」

 吉乃は困ったような顔をした。

 数馬は吉乃を困らせることを望んではいなかった。

「わかりました、暫くはこのままでいましょう。加納様にも吉乃様に会えたことはせておきます。加納様と大久保様のかかわりはわたしの方でさぐります」

「今後はどのようにすれば数馬様とお会いできますか」

「わたしは八丁堀の同心屋敷ではなく馬喰町の六兵衛長屋に住んでおります。いつでもお訪ねください」

 数馬の誘いに吉乃はすぐにでもついて行きたい気持ちになった。

「一つお願いがございます。わたくしは身分を隠して町娘として暮らしております。ゆえに互いを呼び合う折は『様』ではなく『さん』付けでお願いいたします」

「かしこまりました。それでは吉乃さん、たまには幽霊屋敷を出て江戸の町見物でもご一緒しませんか」

 輝くばかりの数馬の笑顔に吉乃は間髪かんぱつ入れずに「はい」と答えた。



 その夜、数馬の住む六兵衛長屋に道太郎が訪ねてきた。

 戸を開けた数馬は一目で父であることを認識した。

「父上……」

「数馬か、大きくなったなあ」

 道太郎は自分より背丈が伸びた息子を見上げた。

「どうぞお入りください。」

 数馬は中に招き入れると、正座をして深く頭を下げた。

「長い間のお役目、ご苦労様にございました」

 道太郎の顔は数馬の記憶していた温和な父の顔ではなく、眼光が鋭く長期にわたって気を張り詰めた武士の顔であった。

「吉乃から聴いたが腕をみがいたようだな」

「はい、父上と同様に町道場で関口新心流を修業いたしました。剣術も学問も人並みに学ぶことができました」

 道太郎は目を閉じ眉間みけんしわを寄せてつらそうな表情を浮かべた。

「わしのせいで辛い目にあったであろう」

「いいえ、母上からは悪い噂は無視して己の知っている父上を信ぜよと言われておりましたゆえ」

 道太郎の閉じた目に涙が滲んだ。

「そなたの母はどうしておるのだ」

「母上は伯父上のみかん畑で働いておりましたが、心の臓の病で昨年発作ほっさを起こして倒れました。もうそんなに長くは生きられないと思われます」

「そうか、満江みつえが……」

 そこで数馬は膝をって詰め寄ると、

「父上、お願いでございます。吉乃様の警護はわたしが引き継ぎますので母上に会っていただけませぬか」

 と、父に懇願こんがんした。

「満江には再び生きて会うことはかなわぬと告げてある。わしは武士として役目を放り出すことはできぬ」

「父上は家禄かろくを捨て、家族を捨て、汚名おめいを着てでもげる忠義ちゅうぎをどのように受け止めておられますか」

 数馬は少し投げやりな態度を示した。

「それは武士だからだ。わしは人である前に武士であることを優先させるよう教え込まれて育った。忠義の心に背いては己の存在価値などないのだ」

 道太郎の決意はかたくなで、己の受けた命を最後まで貫く姿勢を見せた。

「父上は加納様からの命を受けながら、加納様を信じることができないのですか」

「信じたいとは思うが大久保様のおいであることも事実である」

 道太郎は正直な気持ちを告げた。

「わたしは加納様を信じます。藩士でなくなった我が家を気遣きづかい、わたしに武士の道を授けてくださいました。また、江戸入りした関わりのない父娘を刺客から守るためにわたしを探索方同心という身分にしたのも加納様です。加納様は大久保様が刺客を送っていることなどまったく知らないのです」

 数馬の説得に道太郎は腕を組んで沈思ちんしした。

 結局その夜は物別れに終わったが、問題は大久保忠直の所業を加納久通が知った時にどのような反応を見せるかにかかっていた。

 十五年ぶりの父親と息子の対面はにがいものになってしまったが、数馬は父が負った役目を終わらせるために何をなすべきかさとったのであった。

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