第9話 下谷の火事

 砂埃すなぼこりを巻き上げる強い南風が吹き荒れた夕暮れ間近、江戸の町に火の手が上がった。火の出何処でどこ下谷したやであった。

 どの家も夕餉ゆうげ支度したくで火を使っていたが、家財をまとめて逃げるのに精いっぱいで釜土かまど始末しまつをする余裕などはなかった。

 吉乃は浅草にいて勝五郎たちの出動しゅつどうに合わせて、女衆おんなしと共ににぎめしをこしらえていた。

「さあ、支度のできた者から食べておくれ」

 威勢いせいの良いの声が土間どまに響き渡る。

 火消したちは頬張ほうばる握り飯を味噌汁で喉に流し込むと次々と表に飛び出して行った。

 勝五郎は現場に到着するやいなや子分たちを指揮し、まだ火の届いていない風下かざしもの家をこわし引き倒した。火の速さとの時間勝負だ。

 まとい持ちの幸助が屋根に上り『を組の纏』を高らかに振ると、それを見た人々は火事の方向を知り風上かざかみに逃げた。 


 数馬は己の住む長屋が風上であることを確認すると下谷に向かって走った。

 火事場に着くとすぐに逃げまどう人々の誘導や火事場泥棒どろぼうの警戒に当たった。

 当事者以外にとっては、火事は江戸のはななどとしょうして格好の見物対象であった。それゆえ見物人の家をねらった空き巣も多かったのだ。


 幸いにも風下には寺が多く、広い境内けいだい火勢かせいを止めたおかげで大火には至らなかった。寺も山門を焼いただけで済んだ。

 だが火事は延焼を食い止めても思わぬところへ飛び火し、そのたびに走り回ってはかき消し水をかけるという攻防こうぼうが朝方まで続いた。

 疲れ果てすすだらけになって帰る勝五郎一家に数馬はねぎらいの声を掛けた。

「ご苦労にございました。おかげで大火にならずに済みました」

 すると纏をかついだ幸助が同心姿どうしんすがたの数馬を見て驚いた。

「あなたはあの時の……お役人だったんですかい」

 今度は数馬が目を見開いて煤で汚れた顔をのぞき込んだ。見ると左腕に包帯を巻いている。

「あなたでしたか。両国ではとんだ災難でしたね、もう傷は良いのですか」

「はい、纏を振るのにも不自由はありませんや」

 二人の話を聴いていた勝五郎は幸助に目をやった。

 幸助はさっして両国広小路での一件を説明した。

 勝五郎は数馬に向き直ると深々と頭を下げた。

「うちの者を助けていただきありがとうございました。お礼を申し上げるにもお名前を知らず失礼をいたしました。手前てまえは町火消し『を組』の勝五郎、こいつは纏持ちの幸助でございます」

「わたしは探索方同心の香月数馬と申します。お疲れのところ足止めをしてしまいました。ささ、どうぞお進みください」

 その場を離れようとする数馬に勝五郎が声を掛けた。

「香月様も一晩中警戒に当たられてお疲れのことと存じます。あっしらと共に朝餉あさげを召し上がりませんか」

 そういえば数馬も腹が減っていた。笑顔で応ずると浅草に同行した。


 浅草の家ではしずとさえが心配そうに待っていた。

 吉乃は夜半やはんに道太郎が迎えに来て帰宅していた。

 しずは誰も怪我をしていないことを確かめると安心し、すぐに神棚に向かって手を合わせた。

 子分たちは順番に井戸端いどばたで顔を洗い着替えてから食卓に集まった。

 それぞれが達成感で満たされていた。自慢したりたたえたり、朝から宴会のようだ。しずがねぎらいの酒を出したせいでもあった。

 

 腹が満たされるとしずは子分たちに、

「みんな、湯屋ゆやに行っておいで。家中いぶくさくってたまんないよ。湯屋の女将おかみさんには多めに払ってあるからゆっくりとかっておいで」

 そう言って家から追い出した。

 勝五郎は待っていたかのように数馬を庭に面した座敷に誘った。

 茶を飲みながら勝五郎は数馬の顔を凝視ぎょうししてから口を開いた。

「あっしはもう一人香月様と名乗るお方を知っております。香月道太郎様というお名前をご存じありませんか」

 数馬は思わぬ所で父の名を耳にし驚いて身を乗り出した。

「父です。わたしの父を知っているのですか」

 勝五郎は道太郎と出逢った経緯いきさつから、親しい付き合いをしている現在までを説明した。

「そうでしたか。して今の住まいはどちらに」

「はい、薬研堀やげんぼり近くの貸家にお住いです。あっしにとっては恩人ですからいつまでも我が家に居て欲しかったんですが、迷惑に巻き込むことはできぬとかたくなでして」

 勝五郎は不服そうに言って、

「何か事情がありそうで、ご子息様としてそのわけをご存じありませんか」

 と、数馬に尋ねた。

 数馬は一旦は黙ったまま首を横に振ったものの、今でも姫が出入りしているとなれば安全のため打ち明けることにした。

「驚かずに聴いてください。わたしが四歳のおり、父は紀州藩主であった上様のめいを受けて家を出ました。あるお方を守るためでしたが、今ともにいるのはその方の娘で上様の姫君です」

 驚くなと言われても無理な話であった。勝五郎は大きく口をけたまま後ろ手に畳に手をついた。

「そっ、それではご落胤らくいんという訳で……」

「そうなのです。実はわたしは姫の名を知りません、教えていただけませんか」

 数馬が訊くと、やっと正気に戻って、

「吉乃様とおっしゃいます」

 と、丁寧に答えてから勝五郎はしずを呼んだ。

 そしてしずも同席の上で数馬は詳しい事情を話した。

「数馬様や母上様もご苦労されたのですね」

 しずは袖口で涙を拭いた。

「わたしは父を母のもとに帰したいと思っております。ですから父に代わって姫をお守りするために参りました」

 数馬は吉乃の出自しゅつじについては勝五郎夫婦のみの胸にとどめて欲しいと念を押してから浅草を後にした。


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