第5話 数馬も江戸へ

 十九歳の数馬は父をも超える関口新心流せきぐちしんしんりゅう達人域たつじんいきに達していた。数馬をきたえた師範代は道太郎の友でもあった。

 数馬は十五年間、一日も欠かさず一里半も離れた城下まで通ってきた。

 四歳から始まった城下通いは過酷なものであった。途中で足が一歩も動かなくなると道の端に座って母に持たされたみかんを食べた。

 一時半いっときはん歩いて塾で一時いっとき、昼餉の弁当を食べてから道場で半時はんとき木刀を振るって帰途につく。そしてまた一時半歩いて家に着くのは日が暮れてからだった。

 それが成長に合わせて城下で過ごす時が増え、その分だけ文武ぶんぶに励むことができた。

 剣術が上達したのは道場での稽古けいこばかりでなく、少年時代から通ったこの道のりが足腰あしこしきたえたのだ。

 しかしいくら学問や剣術に励んでもそれを生かす場がないことに数馬は悩んでいた。

 伯父おじ慶次郎けいじろうは事あるごとに武士を批判した。

「武士になどなって何とする。おまえの父親にしても武士を捨てて女と逃げたのだぞ。それよりわしのみかん農家をげ」

 伯父の言葉を聴くたびに数馬は父をうらんだ。母は己の知っている父の姿を信じよと言ったが、その父の姿は時の流れに遠くかすんでいた。

「母上、いくら修業しゅぎょうんでもわたしの素性すじょうでは婿養子むこようしの口も仕官しかんすることもかないませぬ。この先武士として生きるにはどうしたらよいのでしょうか」

 数馬は母に悩みを打ち明けた。

 満江みつえは数馬に慶次郎を呼びに行かせると、押入から道太郎の書状と小太刀を取り出して膝前ひざまえに置いた。

 慶次郎と数馬が座すと満江は、

「これは夫からの文です。まずはお読みください」

 そう言って慶次郎に差し出した。

 慶次郎は読み終えると数馬に回した。二人とも密命みつめいの二文字に驚いた。

「道太郎様は藩を捨てて出奔しゅっぽんしたのではありませぬ。家族にも言えぬ密命を受けたのです」

 満江は強い口調で告げると次は小太刀を手に取って鯉口こいぐちを切り、つばの根もとのはばきを見せた。

 そこには紀州徳川家の家紋かもん、三つ葉あおいられていた。

 慶次郎も数馬もその家紋に目をみはった。

「そうです、今は将軍様になられた吉宗公から下賜げしされた刀と考えます。数馬よいですか、あなたの父上は上様から信頼されているのですよ」

 母の言葉に数馬は目を大きく見開き、心が洗われるような気がした。

 慶次郎はがっくりと肩を落とし、

「満江、数馬、散々道太郎を悪く言ってすまぬことをした。道太郎のように忠義にあたいする上司じょうしを持ったならばわしも武士を捨てなかったものを」

 と、胸の内を明かしてびた。

 すると満江は数馬に向かって座りなおすとおもむろに小太刀を渡した。

「江戸へ行きなされ。そして上様のおそば用取次役ようとりつぎやく加納久通かのうひさみち様にお目通めどおりを願いなさい。あなたに学問や剣術の道を開いてくださったのは加納様なのです。きっと父上の事情をご存知のはずです」

 数馬は突然の江戸行きに驚いたが、先が見えたことに喜び「はい!」と答えた。

 席を外した慶次郎が一振ひとふりの刀を手にして戻って来た。

「数馬、これを持って行け。いつまでも木刀を差しては歩けぬだろう。この刀は我が先祖が手柄てがらを立てたおり、殿からたまわったもので初代南紀重国しょだいなんきしげくにの作だ。百姓家には無用の長物ちょうぶつだからな」

「伯父上、ありがとうございます」

 数馬は有難く受け取った。

「そうだ、これを忘れるところであった。これは路銀ろぎんだ」

 慶次郎はふところから袱紗ふくさの包みを取り出した。

 その包みは以前たつきとして満江が渡した物であった。

「兄上、それは……」

 満江が尋ねると、

「道太郎が家族のために送った物を使う訳にはいかぬだろう」

 慶次郎はれたように笑った。

 兄の好意に満江は涙をうるませ深く頭を下げた。


 翌朝、数馬は出立した。

 こちらは陸路での江戸行きである。初めての旅に数馬は心を弾ませた。

 伯父から貰った路銀を無駄むだにしないためにも物見遊山ものみゆさんの旅ではないと己に言い聞かせていた。

 しかし、伊勢神宮いせじんぐうにだけは寄り道をして参拝した。

 母の健康と己の前途を祈願するためであった。

 満江は昨年みかん畑で倒れ、医者からは心のぞうの病でもう一度発作ほっさが起きたら助からないと言われていたからだ。

 数馬はこの旅に出る時、母にはもう会えないのではないかと考えた。それでもとどまらなかったのは、母が信じる父をさがして一目でも逢わせてやりたいと思ったからである。

 

 紀州を離れてから十五日後、数馬は品川宿に着いた。

 その日は旅籠はたごに泊まり旅のあかを落とした後、翌朝に加納久通の屋敷を訪ねることにした。

 早朝、加納はまだ登城とじょう前で屋敷の門は固く閉ざされていた。

 数馬が門をたたくと顔を出した門番は何者かといぶかし気な顔をした。

 数馬は腰から小太刀をさやごと抜くと、

「この小太刀を加納様にお見せください。わたくしの素性がわかるはずです」

 そう言って門番に手渡した。

 門番はそのまま待つように告げて門の中に消えた。

 しばらく待つと先ほどの門番が再び現れ、此度こたび丁寧ていねいに招き入れると玄関で若侍わかざむらいに引き継いだ。

 数馬が通された座敷には加納が登城するための正装せいそうで座していた。

「お目通りをたまわりかたじけのうございます。わたくしは香月道太郎の嫡男、香月数馬こうづきかずまにございます」

 数馬は下座しもざに正座し平伏へいふくした。

「数馬か、大きゅうなったのう。最後にそなたを見たのは幼いながら必死で剣の修業をする姿であった」

 加納はなつかしむように目を細めて微笑んだ。

「そなたはわしにしっすることがあってはるばる紀州より参ったのであろう。今は登城前ゆえわしが戻るまで当屋敷でゆるりと休むがよい」

 と、配下の者に数馬の部屋と食事の指示をすると出て行った。

 

 昼餉ひるげを終えた数馬が打ち水された庭に向かい、手入れの行き届いた草木を眺めていると加納が早々と帰って来た。

 加納は着流し姿に着替えて座敷に現れた。

「待たせたな数馬、そなたから預かった小太刀を上様にお見せしたところ、『そうか、生まれたのは女子おなごであったか。香月が守ってくれたのだな』とお喜びのご様子であった」

 数馬には何のことかまったくわからなかった。

 困惑の表情を浮かべる数馬を見て、加納は真顔になって数馬を見た。

「そなたには子細しさいを話しておかねばならぬな」

 前置きして加納は話し始めた。

 十五年前、道太郎が懐妊かいにんした美世を守って姿を消したこと。そしてそれが吉宗の密命であったことを説明した。

「当時はまだ紀州藩主であった上様は表立ってお美世様を守ることができず、そなたの父に託したのだ」

 加納は苦し気な顔をして言った。

「上様は二振ふたふりの刀を渡された。小太刀と短刀だ。生まれた子が男子おのこであったら小太刀を、女子であったら短刀を持たせよ。そして残った方は道太郎にさずけるとおおせられた。そなたが小太刀を持っているということは、生まれたのが姫様だという証なのだ。嫡男であったならご落胤らくいんであってもお家騒動いえそうどうになりかねぬ。上様はたいそう安堵あんどされ、姫として迎え入れてしかるべき大名家だいみょうけとつがせるおつもりなのだ」

 加納は吉宗の心中を伝えた。

 数馬の頭から父への疑念は完全に消えた。むしろ父があわれでならなかった。己のすべてを捨ててまで貫く忠義、姫が大名家へ嫁いだ後には何が残るのか。ある意味、伯父の言葉は間違っていなかった。数馬は武士の悲哀ひあいを感じていた。

 父に会いたい、会えばきっとその答えが見つかると顔を上げて加納を見た。

「父が何処に隠れているかご存知でしょうか」

「いや、わしにもわからぬ。わしが用意した隠れ家へは行かなかった。お美世様を乗せた駕籠屋の話では刺客に襲われ駕籠を捨てたそうだ。恐らく隠れ家も敵の知るところになったと察したのであろう」

 そして加納はしばし考え込んだ。

「数馬、そなたも父同様わしに仕えぬか」

 突然の申し出に驚いたが、数馬は父と同じさだめを生きなければ父の思いはわからないと考えた。

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