四、水無月


 我もここに来てからだいぶ生活に慣れてきた。

 我が住まう女房の屋敷は、時折にぎやかな音がする。


 日に何度かキンキンと鳴きながら飛来する巨大な鳥や、蛇のような電車がゴウゴウと音を立てるほかは、いたって静かである。


 朝のミルクを飲み、一寝入りしてから部屋の中をうろうろとする。

 少し体を動かすと、小腹がすいたので女房が用意したおやつを食べる。


 カラカラと子気味良い音を立てるそれは、口に入れて思い切りかむと、カリッと音がする。

 皿から落ちたそいつを猫パンチするとくるくると回っていて楽しい。


 腹が膨れるとまた横になり、眠りにつく。

 日暮れ頃には目を覚まし、女房が帰ってくるのを待っている。


 そうこうしているうちに扉がガチャリと開いて、女房が入ってくる。

 いつもうまそうなにおいがするので、女房にすり寄り、ねだってみるが、いつも寝所に寝転がり、一休みする。


 フンフン、今日は酒の匂いがする。

 それに混じって、知らない男の香りも漂っていた。


 ははん、そうか。

 この女房にもつがいができたのだな。

 そう思うとだらしなく眠っている女房をそのままにして、我は眠りについた。



「さおりさん、お疲れ様です。

 ようやく新人の行事が終わりましたね。」


 声をかけてきたのは、新たに上司になったおつまみ君だった。

 名を何と言ったか覚えてはいなかった。

 四月の大忙しの時期を乗り切ってからは、こうして気軽に声をかけてくるようになった。


「さおりさんにはいろいろと教えてもらって助かりました。

 お礼にどうです一杯?

 おごらせてもらえませんか?」


「まあ、おごりならいいかな?」


 ふと、その日の帰りに一杯付き合ってみた。


「そういえば、新人の時にオリエンテーションで指導していただいた以来、一緒にお仕事するのは初めてですよね?」


「うん、そうなるね。」


「そういえば、お名前はなんでしたっけ?」


「ひどいなぁ。

 まるで気にも留めてなかったみたいだね。」


 まぁ、実際そうだけど……。


「改めまして、佐々木です。

 よろしくおねがいします。」


「まぁ、あの有名な『佐々木さん』ですよね。」


「どんな有名人……なんでしょうか?」


「お噂はかねがね……。」


 そういたずらっぽく返してみると、彼は吹き出した。


 それから私は他愛もない話をしながらふと、この人とは話していても楽だな……と感じていた。

 話しやすく、明るく屈託のない笑顔があった。

 

 そこで、若い子とのお付き合いについて聞いてみると、


「いろいろ声かけたけど、振られまくったよ。

 長く続かないんだよ。

 その、話題に困ってさぁ。」


 から始まって、


「渋谷の高級なマカロンを二人で食べたいとか、BTSのライブに二人で行きたいとか。

 とりあえず付き合ってみたけど、価値観が違うなって思い知らされて……

 かわいい若い子じゃ話が合わないのかなって?」


「あら、ご自分を高級物件とでも思っているのかなぁ?」


 少しお酒の力も借りて、遠慮なく話をしていると、


「相手に会わせよう、理解しようって近づいていくんだけどね。

 こっちが一生懸命になって話しても、彼女は自分のことばかりなんだよ。」


 ああ、そういう展開ね。

 少し年上の、何でも言うことを聞いてくれる優しいお兄さんで……佐々木君には、子守のようになってしまうよね。


「かわいいなぁって思えていた彼女だけど、なんか見ているだけでいいやって思えてね。

『ねぇ、聞いてる?』と、よく聞いてくるから、適当に返事をした。

 彼女はただ話したいだけで、もしかして僕のことを見ていないのかな?

 そう思ってね。」


「そしてさよなら。」


 そりゃ、共有する話題も関心事もない状態から彼女も頑張ったんだろうけど、この手の男には通じなかったのね。


「『かわいい子』は、ながめているに限る。」


 なんて突然悟ったかのように言うと、


「かわいい子といると、心の隙間を埋めてくれると思ったけど、そうじゃなかった。」


 まぁ、女がかわいくなろうとする理由がわからなければ、この人に春はないんだろうな。

 そう思って下から上まで改めて眺めていると、唐突に


「さおりさん、よかったら僕と、付き合ってみませんか。」


 ってなに?


「君なら僕に合わせて歩いてくれるような気がするんだ。」


「私はかわいいって思われるほど若くはないのよ。」


 それから、プライベートの連絡先を交換して、今日のところはお開きになった。


 何年振りかに異性に声をかけられて、少し有頂天になっていたかもしれないけど、今日のお酒は気分が良かった。


 そうだ、キミにも話をしなきゃ!

 

 そう思って玄関を開けると、いつもの「お帰り」のにゃぁが待っていた。

 

 きっとこれもキミが変えてくれた未来なんだろうかなぁ?

 

 うん、きっとそうだ。

 そう思うことに決めた。

 そうして私はいつものようにベッドに沈んだ。


 それからというもの、同じ課の上司である佐々木君は、仕事で事あるごとに用事を言いつけ、一緒に仕事をする機会が増えた。


 社内でも人前でも、「さおりさん」なので、私はどうしていいやら恥ずかしくなった。

 それでもお構いなしに話しかけてくるから、


「人前では二人の関係が目立たないように、けじめをつけましょう。

 変な誤解をされても困るので。」


「誤解されてもいいじゃないか。

 ホントのことだから。」


 と妙にわけのわからない言葉で畳みかけてくる。

 なので、


「一度、外でゆっくり話をしませんか?」


 なんだか自分からデートに誘ったようで、少し癪だが……。

 社内で振り回されるよりもよっぽどいいので、週末はデートの約束をしてみた。


 顔洗う キミの隣で ドライヤー 明日のデート 晴れるかと聞く

 

「そういえば、最近デートなんてしてなかったな、デートって何をするんだっけ?」



 我はその様子を、少し離れた場所から眺めていた。

 女房は思った以上に乗り気で、明日の予定に小さな期待を膨らませているようだな。


 時々にんまりとしながら服を選んでいるのであった。

 それは、夢のある道に踏み出そうとしているのかもしれない。

 我は女房の隣で静かに丸くなった。


 さて、この夢のある道はどこへ向かうのやら。

 それがどんな道であれ、今はただ、この温もりが心地よかった。

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