三、皐月


 ようやく年度初めの大騒ぎからひと段落して、気が付けばもう連休になる。

 実家で一人暮らしの母から、


「今年も帰ってこられないの?」


 と聞かれ、猫を飼いはじめたことを話すと、


「ぜひ連れていらっしゃい」


 母も喜んでいるようだから、キミと一緒にお出掛けしようと思うの。


 私の住んでいる空港近くのマンションから、電車を乗り継いで一時間。

 駅員さんに聞いたら、ちゃんとおとなしくかごに入っていれば、猫の料金はいらないそうだ。


 これならキミとどこにでも行けるよね?


 今までは仕事が終わると帰って寝ることしか考えられなかったけど、キミが来てから楽しみが増えたかな。



 我はしばらく電車の中に納まっていた。

 とにかく駅に人が多く集まっていることには驚いた。


 かつての宮中でも、これほど多くの人が集まることはめったにない。

 それはさぞにぎやかな宴でもあるのだろうと思っていたが、この人たちは言葉も交わすことなく、黙々と立っていた。

 

 見目麗しい女官(であろう者)たちにも声をかけず、公達のような男たちは、こわばった顔で黙っていた。


 戦場にでも行くのであろうか。

 そんな様子を眺めながらの道中である。

 

 やがて電車は、海辺の町へとゆっくり滑り込んだ。

 鼻をくすぐる潮の香。

 いつか小夜とともに訪れたお伊勢参りの時のような、暖かな安らぎに満ちていたころを思い出す。

 

 潮風が心地よく流れる丘の上、我はそこで外に出ることを許された。

 初めての空、初めての場所。

 電車に乗った疲れもあって、我は恐る恐るかごを出た。



 ねぇキミ、お外はうれしくないのかな。

 私はキミとここに来られてうれしいよ。


 ここはね、家の近くの季節ごとにお花が咲いている公園で、小さかった私を連れてお父さんとお母さんがお弁当をもってよく来ていたの。

 

 ここに来ると懐かしくなって、きれいなお花を見ながら過ごしていると、昔みたいに無邪気になれて、元気がでるんだよ。



 女房がそんなことを話している顔をきょとんと眺め、足元をちょこちょこ歩いていた。

 やがて女房は椅子に腰掛け、一面を埋め尽くす菜の花の鮮やかな黄色に、女房の表情がほころんでいた。


 風が吹くと一面を、黄色の波が揺れているようだった。

 我はというと、ひらひらと舞う白い蝶を見つけ、追いかけっこを楽しんでいた。


 春風の フルートのよう 菜の花に モンシロチョウと 戯れるキミ



 久しぶりに会う母の姿は、なんだか小さく見えた。

 父を亡くしてもう七年。

 私が大人になるのを見届けて、あっさりと亡くなってしまった。

 一人暮らしを心配して、地元に帰るといったのに、


「お前にとってあこがれの仕事なんだろ?」


 そう言って、一人暮らしを許してくれた。


 最近は早く彼氏の一人でも連れて来いなんていうから、帰るのがどこか気まずくなっていたけれど、今日はキミがいるから気持ちをやわらげてくれた気がした。


 母はいそいそと食事の支度をしている。

 私は久しぶりの実家で、何もすることなく、すっかりと寝転んで甘えてしまった。



 我は、母様が女房にあきれた視線を送ったのがわかった。

 いつものように鼻先をフンフンと嗅いで、健康チェックをする。


 さすがに酒は飲んでいないが、さっきのソフトクリームの甘い匂いがした。


 そして頬に猫パンチして起こす。


 いくら母様に甘えても、年頃の女房が寝転がるなど、我には理解しがたい。


「あら、あなたにはわかるのね?

 これだから貰い手がないのよ。」


 半分呆れて、そして笑って言った。


「それで、この仔はなんていうの?」


「えっと、私はいつもキミ呼ばわりで、この子もそれで分かっているから、名前とかは考えていないかな?

 変わっていていいでしょう?」


「でも、迷子になったとき、どうするの?

 動物病院でも名前がないと困るでしょう。」


「確かに、それもそうね。」


「ジョニーとか、トムとか、どう?」


「へ?」


 我は母様に名を付けてもらうことを、あきらめた。


 我は高貴な猫である。

 名が風流でないどころか、聞いたこともないような、西洋人のような名では皆に示しがつかない。


 我は一目散にその場から離れ、話題が変わるのを待った。


 ほどなくして、


「それで、少しはいい縁でもあったの?」

 

 やはりその話題からは離れられないらしい。


「私があなたくらいの年にはもう、さおりを育てていたのよ。」


 女房はいやそうな顔をしているので我が心配して見上げると、


「そう、キミに出会えたんだよ。」



 へへっ、今はまだこれでいいと思う。

 だって出会いなんてないような生活しているし、この生活から抜け出したいと願ったら、キミに出会えたんだから。


 素敵? な旦那様より手のかかるキミとの時間が楽しくて。

 本当に? このままでも……という訳にはいかないのよね。

「……そのうちね」と笑って答えたけれど、それが、いつなのか自分でもわからなかった。


 わかっている 若さの影は 遠ざかり もう少しだけ 無邪気でいたい



 女房の胸に抱かれながら、我は考えていた。

 女房が時々見せる、可愛らしさ。

 花は盛りというのに手折る者もないのだな。

 しかしこのままという訳にもいかぬ。

 我にはこの女房の言う夢のある道とは何か、皆目見当がつかなくなった。

 この女房の歩む道を、もうしばらく見ていたい。


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