第10話 エンカウント

 俺は妻崎に嘘をついた。


「さて、と。この辺なら、大丈夫か」


 駅から少し離れた場所にあった袋小路で立ち止まった後、姉ちゃんに『遅くなる』と短いメッセージを入れた。

 陰気で何もないこの場所に、わざわざやってくる物好きは少ないに違いない。


「おい、時間の無駄だ。出てこい」


 ただ、俺は確信を持って、近くに姿を潜めている何者かを呼んだ。


 妻崎と学校を出た辺りから店に居る間、ずっと視線を感じていた。

 ここに来るまでに、わざと何度も道を曲がったり、少しの時間立ち止まったりして、気配を確かめたから間違いない。


 おおかた、昼間と同じ奴だろう。

 俺にバレていることに気づかず、のこのこついてきたんだとしたら、あんまりこういうことに慣れている人間ではなさそうだ。


 もしくは、俺をわざと一人にするよう誘ったか。


「…………お出ましか」


 微かな衣擦れと、アスファルトを踏む音。

 同時に、俺の退路を塞ぐ形で現れた人影が一つ。


「顔を隠してるってことは、後ろめたいことをしてる自覚はあるみたいだな」


 上下ジャージ姿で細身。

 ブカブカの帽子を目深にかぶり、口元をマスクで隠している。

 この肩と腰骨の形。まさかこいつ、女か?


「………………」

「だんまりかよ。いいけどな。俺に用事があるんなら、さっさとすませてくれ」


 返事はない。全身黒ずくめの女は黙り込んだままだったが。


「問答無用ってか。わかりやすくて、助かるっちゃあ、助かるんだが」


 すうっと相手が腰を落として構えたのを見て、溜息を吐く。


 お喋りをするつもりはないらしい。


 先に動き出したのは黒ずくめの女の方だった。


 真っ直ぐに突っ込んできた女の最初の攻撃は蹴り。

 顎のあたりを狙って下から跳ね上げられた脚をよく見て、上半身を反らし躱す。

 目の前を通り過ぎて行った右脚が地面につくなり、今度はそっちを軸にした逆脚の中段蹴り。これは半身になってやり過ごした。


 速いし、しなやかで無駄がない。

 型に乗っ取った格闘技の動きと考えて間違いないだろう。


 蹴りを二回躱された女は、手数で勝負することに切り替えたらしい。間髪入れず拳での攻撃を繰り出してくる。

 正面、下から、右左と時々蹴りを混ぜつつ、単調にならないように意識されているのが分かる連撃だった。


 弱い相手じゃない。

 でも、大丈夫そうだ。半年間サボってて、鈍った体でも捌けてる。


「……っ!」


 顔面に向かってきた突きを、今度は避けずに手で払う。

 初めての接触に面食らった女の隙を目が見逃さなかった。


 手を伸ばし、顔を狙う。


 マスクか帽子、引っぺがしてやろうと試みる俺の手に、女はしっかり反応した。


 残念。引っかかったな。


「ふ、ぐっ!」


 顔の方は囮だ。

 遅れて打った俺の拳を無防備な脇腹に喰らって、女の口から苦悶の声が漏れた。


「くぅぅっ!」


 すかさず女の顔にまた手を伸ばしたが、払いのけられた。

 片手で脇腹をおさえながら、女は飛び退いて、俺から距離を取る。


「顔見られるのが、そんなに嫌か?」


 離れるなり片膝をついた女。

 殴った手応えから察するに、息をするのも苦しいはずだろう。


「逃げるなら今だぞ。俺、女に手を出すの嫌いなんだよ」


 必要があると思ったら、容赦はしないけどな。


「……は」


 俺の言葉に、女の肩がぴくりと動いた。

 唯一見えている目が、ぎろりと俺の方を向く。


「ふ、ふーっ、フゥウウウッ!」


 荒い息をしながら立ち上がった女は、自ら帽子とマスクに手をかけてむしり取り、癇癪でも起こしたように地面に叩きつけた。


 なんだこいつ。

 なんでいきなりこんなに怒りだしたんだ?


 日によく焼けた褐色の肌。

 顔立ちは本来かなり整っているんだろうが、今は眉間に皺をよせ、歯をむき出しにしているせいで見る影もない。


 さっきまでの沈黙が嘘のように、女は煮えたぎる感情を俺に向けてきていた。


 それだけならまだ、痛かったんだろうな、くらいに思っただろう。


「お前……っ!」


 女と目が合った瞬間、俺は思わず息を呑んだ。

 その瞳に宿っていたのは、見覚えのある光。


 人を襲う、獣の目だった。


「ちょっと、待て。おい」


 女の明るい色をした癖の強そうな短い髪が逆立ち、意志を持ったように揺らめきだす。


「グゥ、フウウ、がああっ!」


 一際大きく唸り声をあげて、女は自分の上着を脱ぎ捨てた。

 でも、その下から現れたのは乙女の柔肌なんてもんじゃない。


 毛だ。


 髪と同じ、白と茶色の間にあるような色をした毛。

 胸や腹は下着のような物をつけているのでどうなっているのかはわからないが、むき出しになった腕や背中、首筋、そして頬や額に至るまで、女の全身を獣のような体毛が覆っていく。


 犬歯が伸びて牙となり、指先の爪は鋭く尖っていく。

 ジャージの尻の辺りから飛び出したのは、尻尾だ。頭のてっぺん、髪の毛をかき分けて立ち上がったのは三角の耳。


 手の込んだ動くアクセサリーじゃない。

 二本足で立ってこそいるものの、女の姿はもう。


「嘘だろ……この感じ、なんでだよ」


 なんでこっちの世界に、魔物がいやがるんだ。

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