第〇話 半年ぶりの再会。遠くなった我が子   2013/5/6

 空が白み始めたばかりの夜明け前。わたくしは一人森の奥深くへと歩いていた。

 連日のように太陽がギラギラと輝くようになり始めた今日、旅に出した愛娘が帰ってくる。

 目的である泉に着く頃にはもう夜明け間近だった。真っ白な霧の中、向こう岸の見えないほど広い泉を小さな影が歩いてくる。岸辺の土を踏んだ瞬間、駆け寄り縋りつくように抱きしめた。

「おかえり。おかえりなさいっ、グレイシーッ」

「......ただいま帰りました、お母さま。お変わりないようでなによりです」

 そっとわたくしの背をちいさな手がきゅっと握る。

「あなたは少し大きくなったわね。妹たちも変わりなく過ごしているわ」

「そうですか。よかったです」

「初めてにの旅はどうだった?」

「......外はきれいでしたが、怖くもありました。......もしかしたら、人間が嫌いになったかもしれません」

「......まあ、そう。今は休むといいわ。起きたらゆっくり土産話を聞かせて。あなたがきれいだと思ったものの話を」

「......はい」

 そっと抱き上げる。安心したのかウトウトしはじめる。旅で何か恐ろしいことがあったり、緊張ばかりしていたのかもしれない。いったい何があったのか。これは聞きださなければいけないと思った。                     


 ◯●◯


 昼を過ぎたころ、わたくしはグレイシーの眠る寝台の枕もとに腰かけていた。

 天蓋の紗が揺れ、大窓から射し込む陽が顔にかかる。グレイシーはイヤそうに眉をよせた。陽を遮るように少し動くと薄く目を開けた。                      

「ぅん......、おかあさま?」

「......あら、起こした?もっと寝てていいのよ」

「......いえ、もう起きます」

 のそりと起き上がり、窓の外をみて眩しげに目を細める。

「......今は昼過ぎ、ですか」

 独りごとのようにポツリと呟く。

「ええ、そんなくらいよ。......そうだわ。今夜はあなたの旅帰りたびがえりを祝した宴よ。みんなあなたの帰りを待っていたわ」

「......うたげ」

 ぼんやりと繰り返す。帰ってきて以来どこかうわの空で、表情が乏しいように見える。

「ずっとぼんやりしているけど、宴は明日にする?」

「......いいえ。支度ができ次第、すぐに参ります」

 首を振りながら返される、どこか他人行儀な言葉。

「無理しなくていいのよ」

 わたくしはその言葉に眉尻を下げる。

「無理などしておりませんよ。ご心配いただきありがとう存じます」

 淡く微笑み、大理石の床に足をつけて立ち上がる。

 それをみて理解わかってしまった。姿カタチは幼いままだけど、半年前、旅に送り出したときよりも少し背が伸びただけでなにも変わっていないと思っていたのに、大きく変わってしまっていた。

 その声、言葉、所作、そして表情。僅か半年ばかり前までは確かにあった幼さは消え、見当たらなくなっていた。この子の表情が乏しくなったのは、なにか大きな傷を心に負ったからではなかったのだ。

 ……よく聞いた話じゃない。

 わたくしは心のなかにそう言い聞かせ、母の意地としてこの寂しさ、この悲しみを悟らせまいと努めていつも通りに微笑んだ。

「そう。ならば二刻と半刻(四時間半)後に広間にいらっしゃい」

「はい」

 返事を聞くと部屋を後にした。


族長サメレク。どちらへ?」

 扉の外に控えていた側近がいう。

「広間へ。宴の支度の進み具合を見に」

「はい」

「......族長サメレク。やはり、今日ではなく後日のほうがよろしいのではないでしょうか。姫さまもさぞ、お疲れでいらっしゃることでしょう。本日はお休みいただくべきかと存じます」

 大理石の柱に囲まれた廊下を進みながらもうひとりが聞いてくる。

「......五つになった子どもってどんな感じなのかしら?」

「姫さまのような感じではないのですか?」

「グレースは普通じゃないわ。普通の五歳児が知りたいの」

「姫さまのお話をお伺いたしませんことには、なんとも申し上げられません」

「......あの子、子どもらしさを感じられなくなったの」

「旅から帰ったばかりの子どもが、ひとと距離をおきたがったり生意気になるとは聞いたことがございます。そういったものとは違うのですか?」

「何といえばいいのかしら。大人っぽく、とは少し違うわね。達観した、といえばいいのかしら。それもちょっと違う気がするけどそんな感じになって、とても遠くに感じたわ」

「子はいつか親から旅立つものですし......」

「そうだけど、それは早すぎるわ。姫さまはまだ五つでいらっしゃるのよ」

 ……あの子はどうしたというの。確かにわたくしの娘であるのに、まるで知らない別人のよう......。

 こうも気もそぞろになるとは、わたくしの思うより衝撃は大きいのかもしれない。


族長サメレク。広間につきました」

 心ここに在らずに歩いていると広間についてしまった。大きな木の扉を潜り、大広間も中央を歩き最奥、三段ほど高くなったところに敷かれたラグの縁の刺繍などの装飾を確認する。

 これは上質な羊の毛皮で、季節と用途によって装飾の色が変わる。今回の季節は初夏。鮮やかな少し薄めの空色を基調に白を使いほか二色程採り入れた刺繍をされている。祝いごとであるから、縁に金糸の房飾りと無色透明の雫型の水晶が使われている。

 ラグの上には露草色と白で花の意匠で織られた円座を置き、左には脇息を、右には象牙に彫金された卓を置く。

 次いでこまごまとした装飾の配置を確認していく。

「......この食器、純度が違うわ。変えて」

「はっ、はいっ」

「......これ、石が違う。変えて」

「ッ申し訳ありません、すぐにっ」

「......これ、翳りがあるわね」

「すぐに磨きなおしをっ」

「いえ、石が違うわ。変えて」

「はいっ、すぐにお取替えいたしますっ」

「あと、これとそれとそっちとあっち。純度が違うわ。それから、そことあそこ。意匠が違うわ。変えて」

「っは、はいっ」

 何度か休息を挿みそんなやりとりが続いた。

「他にはございませんか......?」

 恐る恐ると聞いてくるのに対しわたくしは柔らかく微笑んで労った。

「......ええ、もうないわ。お疲れさま。ゆっくり休むといいわ。宴まであと半刻ほどあるから」

 ……なぜこうも違うものが多いのかしら。数の欠けも貸し出したという話も聞いていないから、足りないなんてことないはずなんだけど。模造品が多いわ。


 休憩が終わり人々が動きはじめて少し、続々と人が集まり始めていた。わたくしは着替えや化粧を済ませ、円座にゆったりとし脇息に凭れていた。

 ……グレイシーが来るのはあと四半刻くらいね。              

族長サメレク。お久しぶりに存じます。本日もご機嫌麗しく」

 長い真っ直ぐな白髪の上半分を括った青年が数名の側近を従えて膝をつき、口上を述べる。はじめに挨拶に来たのは湖畔に暮らす一族の長だった。

「ごきげんよう、湖畔のリレク。あなたも変わりないようでなによりだわ」

「ありがたく存じます。此度は姫様がお戻りになられましたこと、まことにお喜び申し上げます」

「本日は来てくれてありがとう。どうぞゆっくりして行って」

「はい。ありがたく存じます」

「そういえば、あなたの孫娘も帰ってくるころよね。ぜひお祝いに行かせてね」

「はい。心よりお待ちしております」

 と、こんな感じで挨拶が続く。

 四人ほどが終えたころ、扉の辺りが俄かに騒がしくなった。入ってきた者に気が付いた者から道を譲るようにわたくしの前から去っていった。

「おお、姫様だ......」

「......とても凛々しくおなりになられた」

「相変わらずお可愛らしい」

 華やかに纏った衣をひらりひらりと揺らし、数々の綺羅びやかな装身具はしゃらりしゃらりと音を奏でる。壇の前まで来ると止まり、ふわりと膝をつく。この動作一つが地上に舞い降りる女神の如く見え、とても神聖なものにすら感じられた。

 この瞬間、誰もが動きを止め、口を閉ざし見入っていた。それはわたくしも例外ではなく、声を聴いて意識を取り戻した。

「ご機嫌麗しく、族長サメレク。この度はわたくしのためにこのような宴を催してくださり、まことにありがとう存じます」

「ええ。わたくしも皆も、あなたの帰りを心待ちにしていたわ。......改めて。おめでとう、そしてお帰りなさい、ネヴュラ・グレース」

「はい。ただいま帰りました、族長サメレク

 優雅に頭を下げる。                          

「さあ、こちらに来て杯を」

「はい」

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