第3話 「冷凍庫の静寂と時間の哲学」
村田は深夜、冷蔵庫の前に立っていた。
最近、冷蔵庫の中で哲学談義を交わすのが日課になっている。しかし今夜の村田には、ひとつの疑問があった。
「なあ、トーフ・デカルト。」
「何かね、村田よ?」
「冷蔵庫の中の食材って、賞味期限があるだろ? でも、冷凍庫に入れると、それがほぼ無期限になるのはどういう理屈なんだ?」
「良き問いだ。時間の流れは、環境によって変わるということだな。」
「……つまり?」
「冷凍とは、時間を止める行為だ。我々の世界で言えば、ある種の不老不死に等しい。」
「不老不死……。」
村田は冷凍庫を開けた。そこには1年前に買った冷凍餃子、半年前の冷凍うどん、そしていつ買ったかも分からないカチコチのアイスが眠っていた。
「こいつらは時間が止まってるってことか。」
「そういうことだ。しかし、考えてみたまえ。彼らは果たして生きていると言えるのか?」
「……どういう意味だ?」
「生命とは、時間と共に変化し続けるもの。しかし、冷凍庫の中の食材は、何も変わらぬままそこにある。つまり、彼らは存在しているが、生きているとは言えない。」
「なるほどな……。でも、じゃあ解凍されたら?」
「その瞬間、彼らは再び時間の流れに戻る。しかし、それは元通りの姿か? 冷凍焼けした肉、しんなりした野菜——彼らは冷凍前と同じ存在なのか?」
村田は言葉に詰まった。
「……確かに、一度冷凍した豆腐は、もう元の豆腐には戻らないな。」
「そうだ。我々の記憶も同じだ。」
「記憶?」
「人は大切な思い出を心の冷凍庫にしまう。忘れたくない出来事、消えてほしくない感情。だが、それを長く凍らせたままにしていると、いざ解凍したとき、元の形ではなくなっていることもある。」
村田はしばらく沈黙した。
「……昔、俺も一つの夢を冷凍したことがある。」
「ほう?」
「子供の頃、漫画家になりたかったんだ。でも、大人になるにつれて現実を見て、諦めた。結局、会社員になって、それなりの人生を歩んだけど……。今思うと、あの頃の夢って、俺の心の冷凍庫にしまったままだったのかもしれない。」
「そして、今、それを解凍する時が来たのかもしれんな。」
村田は鼻で笑った。
「でもさ、解凍しても、もう新鮮な状態じゃないだろ?」
「それは違う。」
トーフ・デカルトは微笑んだように見えた。
「冷凍されていたものには、冷凍されていたからこその価値がある。経験という霜がつき、時の流れが味を深めることもあるのだ。」
村田はもう一度、冷凍庫の中を見つめた。
「……だったら、もう一度描いてみようかな。漫画。」
「それが良い。おぬしの記憶の冷凍食品を、再び温めるがよい。」
冷蔵庫の中の哲学者は、静かに微笑んでいた。
——こうして、村田の時間もまた、再び動き出したのだった。
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