第二章 土螢➅
サウエが早馬を手配している寸暇に、ラムラとジュネクは調達しておいた平服に手早く身をやつした。長旅用の深靴は履き慣れておらずまだ硬いが、集落で履いていた草履よりは幾分かましだ。そのうち馴染んでくるはずだろう。
「イオたち、心配してるよね……」
「トラーシィが治めているから問題ない。というか君はイオから離れるべきだ。あの女といたら都合良く扱われるだけだぞ」
「イオのこと悪く言わないで」
「悪く? いいか、これは善意で言ってるんだ」
ジュネクはラムラがむっとしているのも構わず、身支度を整え終えると、さっと二階から外を眺める。ロロウの棲んでいる木造の家が建ち並ぶ宅地は、一歩間違えると廃屋ばかりが列する地との狭間にあった。旅籠屋付近とは打って変わって家屋があるのに閑散とたこの家は、実に自分向きだ。しかし一人で住むには、自分には無理な広さだなとジュネクは肩を竦める。
ふと、ジュネクの視界に光る鳥が空を舞った。特段驚くこともなく、その鳥を視線で追う。
久しぶりに見た。目をすがめて光の緒を見送るが、直後に刹那的な予覚が発作のように貫く。
次の瞬間にはジュネクの薄っぺらい笑みを含む顔が、色合いを変える。暴力とも取れる断想が危険を告げていると悟り、そっと湾刀に手を添えてラムラの側へ寄る。
「襖からはなれろ」
ラムラは肩を押しのけられて、突然の行動に首を傾げるが、ジュネクの真剣な剣幕に気圧されて彼の背後へとまわる。
しばらくの間の沈黙に耳が痛くなる。ラムラは呼吸を忘れて、ジュネクの見詰める先を追いかける。手が自然と湾刀へと伸びた。
ジュネクが襖に手を掛けて開き、堅縁がぶつかる音に混じって剣戟音が交叉する。
相手の顔を確認しようと数度打ち合ったジュネクは、仮面をつけて判別が不可能と認めると、大きく斬り込む討手の刀身に仕込み靴で側蹴りを放ち、吹っ飛ばした。だが、感触からして絶妙な受け身をとられているのだとわかった。
壁に背中を強打して怯む討手を相手にはせず、ラムラに向かって叫ぶ。
「外へ出るぞ!」
ジュネクの叱咤にラムラも貸し与えられた湾刀を構えて彼についていく。玄関から飛び出したところで、近くから紅炎が上がっているのが見えて、二人は脚を止めた。独特な色の炎を、ラムラはつい最近目にしたばかりだ。だが、この規模の神威をラムラは知らない。自分以外で。
だが、瞬時に理解した。神威がラムラを呼んでいる。
恋慕のような、郷愁のような、切望のような、異様なまでの胸の高鳴りに、釘付けになる。
ラムラの瞳が爛と熱を含んだ。
「あれは、神威……⁉」
だが、考えるより先に屋根から猫獅子が飛び降りてラムラへ襲い来る。
犬や猫よりも遙かに巨大な図体を誇り、人をも背に乗せ樹登りも得意とする獣の動きは俊敏だ。抜き身直後に刃と牙が重なり合う金音がするが、難無く湾刀を噛み砕かんとする顎の力強さに、ラムラは舌を巻いて腕を引いた。
さっと刀身を目視して、刃が無事であると確認をしてから構え直す。こうして足止めを喰らっている間にも、怯んだ討手はこちらを追ってくるだろう。心の臓の鼓動が直接耳に響いて来て、うるさいくらいだった。
一呼吸、深く深呼吸をして気を整える。獣のにらみ合いに受けて立つ。
お前を理解してみせよう。
ラムラの瞳が燦然と輝く。深緑の調べのように。
熱い、そう思ったその時、猫獅の中心に焼べられた炎を見た。生きるものの命の証を、両の眼で捕捉する。
ラムラは人、という感覚を刹那忘れた。
握る湾刀すらもラムラの一部。迷う心すら躰の外へ置いてきて、淡泊に獲物を仕留める獣へと変化する。
跳ねるように獲物へと踏み込み、一閃。人間によって使役された猫獅でさえ、圧倒的な力の差に猫獅は怯えによって衝かれた隙に、無力を悟る。
雨のごとく降る大量の血飛沫を、ラムラは全身で受け止めた。
一方ジュネクも横から武装した土螢が右脇腹めがけて放つ直刀の薙ぎを、間一髪で身体をねじって鞘で受け止める。猫獅に気が逸れて遅れた反応のせいで受け身が取れず、吹っ飛ばされる。斬られなかっただけましだろうが、肋骨が数本折れる音がした。
ジュネクは素早く立ち上がり反撃を開始する。負傷に身体が悲鳴を上げているのも構わず、相手の懐に飛び込む。立ち上がれると思っていなかった討手はジュネクの湾刀を弾こうと半拍遅れて直刀を振り下ろす。ジュネクは湾刀で刃を受け止めることはせず、こめかみに柄頭で打撃を打ち込んだ。
頭を揺すぶられた討手の昏倒を確認し、顔を上げるジュネクの顔が歪む。湾刀を右手で握っていたため、無防備だった左側の肩が深く剔れて血が流れている。
それでもジュネクはまるで自分の負う傷に構ってなどいられないとでも言うように、肩の傷を一瞥してからラムラのほうへ顔を向ける。だが、奇妙な光景に喉奥を詰まらせた。
血塗れのラムラが息絶えた獣を見下ろしていた。その瞳が輝いていて、虚ろだ。
茫然としていると、ぎょろりと向いた伽藍の瞳がジュネクを生け捕りにした。目が合った瞬間、心あくがれて鼓動が波打った。
惑わされては駄目だ。ジュネクは必死に言い聞かせる。
「————あなた、じゃない」
だが、ラムラは興味を失ったかのように視線を逸らし、ふらりと路地裏を歩いて行く。誰かに操られているみたいで不気味だった。
ひとりでにラムラが歩いて行こうとするのを、ジュネクははっとして追いかける。何かを捜す彼女は今、自分が見ている世界とは違う世界が見えているのだ。このまま放ってしまえば、異世に招かれてしまう気がした。
ラムラが求め行く先には、事切れたロロウがいた。
「ロロウ‼」
ジュネクはラムラを追い越して、ロロウへ駆け寄る。だが、息絶える直前まで長屋へ辿り着くのを諦めずのばした手からは温かさすら感じられず、彼は既に亡くなっているのだとわかる。
「胸をひと突きか……」
素早くロロウを検分したジュネクは、悔しさに口を引き結び怒りに耐える。ジュネクが幻視した炎の狼煙は彼のものだったのだ。いち早く異変を察知した彼が報せようとしたところで、魔の手に掛かったのだ。情けの微塵もない、無駄を省いた所業に憤りがふつふつと煮えたぎる。
そのとき、ふっと柔らかい気配が隣に落ちた。
ジュネクが顔を上げて隣を見遣ると、血に濡れた顔に柔らかく楚々とした面を貼り付けたラムラがしゃがみ込む。血なまぐさい状態でなければ麗しいとすら思える、慈愛に満ちた笑みをたたえていて、ジュネクの本能が警鐘を鳴らしていた。
ラムラが両の腕をロロウへと伸ばす。
ロロウの全身に緑火が炸裂する。だが、人の焼けるにおいはいくら待っても訪れない。
「ラムラ、戻ってくるんだ‼」
ジュネクがラムラの肩に手を置いて揺さぶると、彼女はたった今水を得て息を吹き返した魚のように、身体を震わせた。
「うつくしいと思って……わたし、」
ラムラが何かを言いかけたところで、頭上から殺気が振り下ろされ、ジュネクは反射的に跳び退って転がりながら刺突を回避する。
血は止まっているものの、折れた肋骨と剔れた左肩に鋭い痛みが走り、ジュネクは深く喘いだ。
立ち上がろうと力を入れようとすると、抑えつけるようにして痛みが身体を駆け回って脚から力が抜けてしまい、這うようにして相手をにらむ。長屋に侵入してきた討手が打撃から回復して追って来たのだ。
「さがっていて」
ラムラが湾刀を抜き、ジュネクを背後に庇い討手と対峙する。八双構えをとるその顔はいつもの彼女のものだった。
仮面の討手が体勢を立て直し、直刀を構える。
討手もラムラと同じ八双の構えをとった。
獲物はそれぞれ違うが、まるで転写した構えを双方がとっている。先に踏み出したのは討手だった。
疾風のごとく間合いを詰めた討手のなぎを、ラムラは湾刀で受け止める。空圧がラムラの毛先を払う。
その一刀は、ラムラの命を断つためのものではなかった。殺気は受け取れるが、殺すための刃であればもっと研ぎ澄まされた一刀を、この討手は繰り出せるのだと直感する。あくまで凌げると判断されて慈悲をかけられているようだった。
仮面をつけていて視界は狭まれてなお、ラムラの剣の腕を遙か凌駕している。それもそのはず、ラムラは実践として剣を人に向けるのは初めてだった。
稽古ならイオとしていたが、それは稽古としてだった。こうして、殺意や悪意のある剣など知らない。
ラムラは額に脂汗を浮かべて、荒い息をして討手を見据えた。
「————う」
そのとき、密かに息をもらす声が聞こえて、二人の動きが止まった。
討手のすぐ側で絶え果てていたはずのロロウが、僅かに肩を上下させている。
「ロロウさん⁉」
ラムラの瞳に涙が浮かぶ。
希望の光が差したのと、馬の蹄の音が近付いて来るのは、ほぼ同時だった。
「ラムラ、避けるんだ!」
サウエの怒声に、ラムラは反射で身を伏せる。真上を風切り音が通り過ぎた。
討手は己めがけた矢を叩き斬り、数歩後ろへ後退する。そのまま蹈鞴を踏み、瞬の迷いをみせたのち、手で合図を出した。すると、屋根から猫獅子が姿をあらわして、討手は獣の背に乗って家屋を跳び越えて屋根の上を駆けて闇夜に姿を消してしまった。
「退いたようだな」
サウエは弩を担ぎ直して、馬から下りる。
「馬を手配しに行った先で騒動に巻き込まれたものだから、戻るのに時間が掛かってしまった。すまないね」
サウエはうつ伏せのままのラムラに困り顔で手を差し伸べて、引っ張りながら謝罪の言葉を口にする。
ラムラは無言で首を振った。
「土螢を追わなくていいのかい?」
瞳に怒りを宿したジュネクが、痛みを堪えて立ち上がる。
「ここで決闘をしている暇はないし、その怪我でどうするつもり? 荒々しい感情は引っ込めなさい。それに、じきオノファト皇子が街道を蔓延る副皇の私兵を諫めにやって来る。その前にラムラとジュネクは窪手衆のもとへと行きなさい」
ジュネクはつかの間、ばつの悪い顔をした。
「サウエさんはどうするんですか」
「私は重傷のロロウを放ってはおけないから、皇子に手伝ってもらってこの騒動が落ち着くまで匿ってもらってから、集落へ戻る。私はそこらじゅうにあてがあるから安心をし」
「ロロウさん、生きているんですか?」
「なんとか余喘を保っている。だからきちんとした場所で処置を受けさせれば、必ず回復する。ラムラはラムラの務めを果たしなさい」
サウエは眉をひそめるラムラの頭を撫でてから、手綱をジュネクへ渡した。
「まだ動けるか」
「ぼくしか窪手衆の居場所はわからないんだから、動けるかどうかじゃなくて、動いてみせるよ。必ず彼女は送り届ける」
しっかりと手綱を握るジュネクに、サウエは神妙な顔をして頷いた。
「頼んだよ」
ジュネクとラムラは、遣り切れない思いを残して振頭の泊を出立した。
一連の騒動は、オノファト皇子によって一夜のうちに沈静化したという。
二人にそれを知る術はなかった。
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