第三章 窪手衆➀
「副皇と諍いを起こしたそうだな」
耳許で囁かれて、臥床のなかでファノイの抱擁を受けていたムレイは、忽然と夢から覚めて閉じていた瞼を薄く開いた。
いつもの弟という言い方ではなく、副皇と彼は言った。祝人殿でのもめ事を知ったファノイは祝皇として祝皇妃に訓戒を垂れようとしているのだと察して、妻女の様相を呈して我意を通した。
「祝皇を軽んじる発言をなされたからです」
ムレイが小さく囁き返すと、苦笑と共に抱きしめる力が強くなった。ムレイはそのかたい胸板に額を擦りつける。
「副皇の領域に、憎き兄の妻が立ち入ってくるのに抵抗があるのだろう。余も本来であれば勢力の天秤を維持するために、咎める立場にあるのは承知しているのだが、陰に籠もる憐れさゆえに肩入れしたくなってしまう」
性格が正反対ゆえ、とファノイは自嘲気味に笑った。
祝皇と副皇は共通の母から生まれたとは思えぬほど性格に相違がある。先代祝皇は、異同があれば後の世の天秤をとれるだろうとあまりの違いを肯定していたが、この決定的な差は致命的にもなる。現に、善神派と悪神派が頭角を現しはじめたのは、先皇が崩御してファノイが即位してからのことだった。
「それがよいところなのでございます」
ムレイは己に言い聞かせるように、言葉を紡ぐ。
自身の言葉はファノイには届かない。自覚すればするほど、祝皇の愛した彼女の姿が思い出される。結ばれ心に弄ばれているようで、胸がざわめく。
ムレイは高位高官を父に持つ貴族の姫として神璽国の祝皇の后妃となるよう言い聞かされて育ってきた。だが、母は妾妻で没落した家柄ゆえに首都ソーリックからは離れた田舎に居住していたため、妃になるための充分な教育を施されているとは言い難かった。母は宮廷政治に巻き込まれるのを嫌い、父からの愛も薄いと自覚していたため、自ら望んで離れた土地で娘のラムラと慎ましく暮らす決意をしたのだそうだ。ムレイも別に権力に興味はなかったし、脚が遠い父のことなど特段回顧するつもりもなかった。むしろ宮廷政治に巻き込まれる女に哀憐の情を感じてしまう。
そもそも、ムレイが后妃の候補として名が上がったのは、内戚の姫たちが勢揃いで妃となるのを拒否したからだった。内戚の姫たちは皇族の血族と婚姻を結び、宮廷内への権力を強固とさせる目的があったにも関わらず、皇子との婚姻を拒んだのには理由がある。
先皇は次代の祝皇にファーアンよりもファノイを擁立する旨をかためているのだと宮中では噂になっていたからだ。
つまり、非人であるイルㇽ人に魂を抜かれた皇子が祝皇になる。
神璽国の不祥の象徴、その末裔に。
よりによってアマラスハル神璽国の皇子が傾倒するなどあってはならない。そんな皇子の妻となったら、いずれ海の向こうの小さな島々に坐す古代神の義憤を引き起こし、地変を招く。皇子ファノイを懐疑的な見方をする高位高官たちも数多く存在し、またムレイの父の内戚たちもそのなかに含まれていて、結果どの高官も手塩に掛けて育てた娘の登殿するのを渋った。神の不興をもらうことになってしまうのは避けたいと主張する姫の指摘はもっともだったのだ。
だが父は強かな人物で、そんなときに限って足が遠のいていた妾妻に、娘がいたことを思い出す。不祥事があったとしても、後顧の憂いなくして縁を切れる身内をファノイに宛がおうと策を講じる計画を立てた。
ムレイは宮廷内で皇女と高官の姫たちの間で行われる、学識会への参加を仰せつけた。
こうしてムレイは未来の祝皇の妻となるべく学識会に参加する他の姫たちに劣らぬよう用意された、奢侈に流れるような輿で幣巓城へと向かった。
だが、道中で山賊に襲われるとは誰が考えよう。少なくとも旅の経験のないムレイの浮き足だった感情は潰えた。
山賊集団に包囲された輿は迅速に制圧され、ムレイも輿から引きずり出された。武器を手にした大柄な男たちを前にして、声を発する力さえ奪われる。
しかし。
ムレイの窮地を救った人がいた。
あっという間に山賊たちを葬り、怯えた少女に手を差し伸べた人は、ムレイとおなじ年頃の少女だった。
思わず見上げたその少女の顔には、刺青のようなものが彫られており、ムレイは瞬時に目の前の少女が何者であるかを悟った。
「イルㇽ人……」
国で蔑まれているという一族たちの神紋。ムレイはその一族の名を口にしてしまった。
少女は、はっとして顔を背けた。
「ごめんなさい。あなたたちには醜かったしょう?」
その少女は気分を害したようすもなく、逆に謝罪を述べて足早にその場を去ろうとした。
「お待ちください!」
ムレイはたまらず少女の背中に声を掛けた。
「私を幣巓城まで送り届けてはいただけませんか? 礼はいくらでもいたします。どうか引き受けてはいただけないでしょうか」
この上なく図々しい願いだとは思うが、世間知らずのムレイがこの場に取り残されたところで城までたどり着ける気がしなかった。
「私たちは首都へは行けない。そういう規律がある」
「ならば家まで送り届けてはくれませんか?」
皆の顔が一気に曇る。だが、ムレイも助かるためには、手段を選べない。道行く他の者に声を掛けたところで、無事に済ませて貰えるかどうか不信感がある。だったら、この者たちに助けを乞うのが、ちっぽけなムレイにとっての最善だった。
「だから助けるべきじゃないって言ったんだ」
少女の取り巻きの一人が面倒そうにこちらを見る。その瞳には暗い影が落とされていて、すくみ上がりそうになった。
「弱い人を篩にかけるべきじゃないわ」
「こいつは明らか身分の高い奴だろ」
剣で指し示されて、父とその親類に等閑視されるよりも圧倒的な嫌悪に、ラムラは今度こそ縮み上がった。
「身分が高くても、困っている人でしょう。私たちは神璽国に屈しないためにも、私情を脇に寄せた判断をしましょう」
少女に諭された他のイルㇽ人は顔をゆがめたが、反論するのをやめた。
「でも、本来私たちが領域外を出ることはゆるされていないわ。義士団がこうして外に出ていると知られたら、今後さらに警備を強化されて行動に制限がかかる。これ以上はごめんだ」
どうするの? と仲間が少女に問いかけた。
「わたしがこの人を幣巓城まで案内する。お父様が首長を務めていた頃に何度か首都までの道のりを教えられていたし、記憶を辿って送る。それでいい?」
少女の返答に、仲間一同が浅く首肯する。
「カリルがそれで良いと言うのなら。でも、必ず戻って来いよ。義士団の団長が敵のお膝元に飛び込んで殺されるなんて洒落にもならないからね」
仲間の小言に少女は笑って頷いてから、ラムラを振り返る。
「それじゃあしばらくの間よろしくね」
にっと笑ってみせる少女に、ムレイは胸をなで下ろしてぎこちなく笑い返した。
それが、ムレイとカリルゼッナの出会い。
生まれと出自も、性格も何もかもが違う二人だったが、道中で親しい間柄となった。ムレイにとってカリルゼッナは最初に出来た友人だった。短い交友関係であったとしても、彼女との関係を大切にしていようと密かに心に仕舞っておいた。快活な振る舞いをするカリルゼッナは憧れでもあったから。
しかし、ムレイとカリルゼッナは後に皇子ファノイと婚姻を結ぶことになる。
カリルゼッナを正妃、ムレイを側妃とするかたちで。
ムレイは軋轢が生じるとわかった上で、この婚姻を承諾した。彼女は気立ての良い娘であることを、誰よりも知っていたからだ。
この徒恋はずっと秘めたままでいようと決めている。今も昔も、ムレイはカリルゼッナに敵うとは思っていない。
ファノイの心はずっとカリルゼッナに向いている。それでもいい、それでいい。
(ねえカリル……あなたはそれがわかっていたかしら……)
たとえ彼が慈愛の心をもつ君主であったとしても、可哀想な人だから、祝皇はあなたを欲したのではないのよ。
ムレイは遠き夢主人に会うために、再び瞼を閉じるのだった。
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