第二章 土螢⑤

 ロロウが食事の支度を済ませて、三人分の食事を家まで届けようとした最中に、事件は起こった。

 

 勝手口から外に出ようとしたロロウは、やけに旅籠屋前の通りが騒がしいことに気付いた。役人が見回りに街道をうろつくのは日常茶飯事だが、この一期屋の玄関口を囲むようにして密集しているのはおかしい。程なくして、数十人の武装した集団が一期屋に乗り込んできた。


 宿内に悲鳴とどよめきがあがる。


「全員そこを動くな‼」


 鋭い命令が発せられて、その場のほとんどが自然と動きを止めた。宿泊客、仲居、番頭、それぞれが困惑の色を浮かべて役人を見る。


 一期屋の主人だけが眉間にいつも以上に深いしわを寄せて、土足で乗り込んできた集団を凝視している。


「なんの御用でしょうか。商売の邪魔をするようでしたら、いくら国の役人であろうともお引き取り願いますぞ」


 大旦那は人だかりをかき分けて前に出る直前に、ロロウに目配せをすると、毅然とした態度で役人の前に進み出て言い放つ。それを戦闘に立っていた武人が鼻で笑った。


「副皇の銘のもと、この店を改めさせてもらう。貴様には下賤なイルㇽ人を庇護している嫌疑が掛けられている。それが真であれば無事で済むと思うなよ」


 ロロウはそこまで聞き届けてから、勝手口の扉に手を掛ける。幸い、物陰に隠れていたおかげで兵士たちからロロウのいる場所は死角になっていた。


 一期屋の大旦那は、この旅籠屋でロロウがイルㇽ人であると知っている人物のひとりだった。


 彼はこの神璽国の善神信仰に疑念を抱いていた。祝皇一族は善神の末裔であり、イルㇽ人は悪神の末裔。ゆえにイルㇽ人はその罪を一族全員が背負い、国のために尽くすため徴兵の義務がある。与えられた集落の外から出ることは大罪になり、ただ神威を持つ兵を育て上げるために飼育される。


 ロロウが生まれる前は、もっと酷かったそうだ。まさに飼育が正しい、そんな世界だった。


 集落で生まれ育ったロロウも例外ではなかった。だが、抑圧された世界から抜け出して世界を識りたいと願ったとき、危険と紙一重の生活を決意した。外の生活にいつか終わりが見えたとしても、懲罰を受けるのはロロウだけ。外に出ても中にいても大して変わらない。


 そうして放浪の末に見つけた居場所が一期屋だった。身分を偽って追い回しからはじめ、己の力でのし上がるのは気分がいい。旅籠屋で得た知識や情報を当時の首長をつたって故郷へと流せるのだって、孝行の一環のつもりだ。


 だが、そんな生活は長くは続かなかった。ある日、化粧の剥がれた顔を大旦那に見られてしまったのだ。浴場の掃除を終え、湯煙で不自然になってしまった顔の化粧を一度すべて落とし、繕おうとした矢先だった。


 今まで培ってきた関係性が崩れる、とロロウはごくりと喉を上下させて身構えた。しかし予想に反して、大旦那はロロウを配慮する姿勢をみせたのだ。


 お前がどこから来て、何者かなんてどうでもいい。追い回しから実力でのし上がってきた今までのお前が、どんな人間なのかを知っている。それがロロウという人間を、何よりも雄弁に語っているだろう、と強く言った。


 その時、荒んだロロウの紗幕がひらけたのだ。誰もが皆、同じ考えのもと息をしているわけではない、途方に暮れる必要なんてない。


 未だ深更の闇のなかではあるけれど、透明な箱の檻から抜け出せると思った。


 位階を持つ貴族であれ、イルㇽであれ、異国の民であれ、今そのときの人間を見てくれる人はいる。


 大旦那は言った。これは一個人の意見だから、お前を匿っているのは己の信念に則ってのことだ。お前もその時が訪れたとしたら、迷わずお前の信念を貫けばいい。


 ロロウは大旦那の言を胸に深く刻み、裏路地を縫うようにしてジュネクたちのいる、家へと向かう。


 後を付けている怪しい者がいないかどうか慎重に前後左右を確認し、再び前を向く。ちょうど向かいの狭路から、外套に身を包んだ落人がこちらに歩いてきたので、道を譲る。


 すれ違い、街の公人としてのいつもらしい顔つきを意識したそのときだった。外套の落人の重心がこちらに傾く。落人から、幽かな敵意が向けられて悪寒が走った。


 ロロウは本能的に懐剣を抜き放ち、刃を受け止め弾く。数歩後退して間合いをとり直した。


 ゆらりと落人は前のめりの姿勢から、体勢を整える。一連の流れは緩慢なようで洗練されていて隙一つない。


「おいてめえ、なんの由あって不意打ちで俺を狙う!」


 怒気のまま叫んだ反面、正直狙われる理由に心当たりがありすぎて顔が引きつる。

 だが、副皇の私兵にしては彼らから滲み出る傲慢な態度がない。私兵が傭兵でも雇って不審人物の捜索でも依頼しているのだろうか、と憶測が浮かんだ。


 落人は言葉を発さない。それどころか、物陰から複数の仲間があらわれる。ロロウの身体中の毛がざわめいた。


 はっとして後方の退路を見遣ると、そこにもいつの間にか外套の落人が立っており、ロロウは気を引き締めるため唇を強く噛む。


 やられた。


 虚を衝いた一撃目は確実に急所を狙っていた。となると、相手側に情けの心は持ち合わせていない。言葉を発さないところからして対話を試みても無駄だろう。まるで主の命に忠実な忠犬だ、とせめて胸の内で悪罵してやった。


 ロロウは頼みの綱の懐剣を中段に構えて迎え撃つ体勢をとる。その覚悟を合図に、前方の討手が距離を詰めて刃を振り下ろすのを受け流し、勢いそのまま地に手をついて横から隙間を縫うように突進してくる落人の脚をなぎ払う。


 万が一にも打ち合いにもつれ込みでもしたら、がら空きになった脇やら背後から残りの仲間が仕留めに来る。そうさせないためにも、ロロウは動き続ける。


 伊達にイルㇽで過ごしてはいない。ロロウでさえあの集落で武術を培ってきているのだ。義士団連中ほど磨き上げられた技術かどうかは怪しいが、放浪中にかいつまんで得てきた武術がある。


 足掻けるだけ足掻いてやる。


 そんな意地だけでロロウは敵と対峙する。


 最期の最期に、イルㇽの奥義を用いようとも。


 防戦一方のロロウだったが、多勢に無勢で着々と身体が切り刻まれていく。肩口を、脇腹を鋭い刃先が肉を断ち、血飛沫が地を濡らしていく。


 だが、ロロウの動きは止まらない。相手の腕が己の肩口を斬り、伸びきった腕の下へと身を低くして飛び込み、首を狙う。


 逆袈裟で一閃するも、直後に横から回し蹴りを喰らい、首を狙った懐剣の刃が空を斬り吹っ飛ばされる。相手の外套の端が切れ、顔が露わになった。


 鳩尾に綺麗に蹴りが入ってしまい、強制執行のごとく呼吸を止められたロロウの口から妙な呻き声が出る。しかし、いつまでも斃れ伏しているわけにはいかない。揺さぶられて目眩のする視界に鞭を打って立ち上がり、相手を睨み付ける。


 だが、ロロウは一瞬呼吸を忘れた。

 愕然としてしまった。


「お前、その顔……⁉」


 露わになった外套の落人の顔に刻まれた印は、ロロウがよく知るものと似ていた。いや、そのものだった。


「お前らイルㇽの者か……!」


 それはロロウの目許にも刻まれている神紋だ。同士討ちをさせられていたと悟り、柄を握る手に力が入る。


 理解したと共にこの街に入り込んでいる副皇の手の者の存在に辿り着いてしまう。


 まさか土螢を送り込んでいるとは思わず、舌打ちをする。これは単純に副皇が威厳を振いに躍起になっているという推測の域を逸脱する。戦力を投入してまで成し得たい事柄があるのだと理解させられる。


 そこまで考えて、お尋ね者の二人の存在に行き着くが、すぐさまその思考を払い去る。


「おいあんたら、」


 ロロウは言葉を区切り、袖から手拭を取り出して乱暴に顔を拭い、懐剣を放り投げる。カランと虚しい音をたてて土螢の足許へと転がった。


「好きにしろ」


 ロロウは無抵抗の意思を示す。当然、土螢ですらない者がイルㇽの集落という狭い世界から出奔を図るのは重罪にあたいする。捕縛されれば、未来には苦痛の舞台が待っているだろう。


 だが、ロロウは直感を信じて己が身を捧げた。


 此度の検挙は単純にイルㇽをあぶり出すのが目的ではない。そういった意味合いも含まれているだろうが、それにしては折りが重なっているように見受けられるのだ。


 副皇の尖った神経を体現するかのごとく敷かれる我意たる方針の数々に紛れ込む、波紋のようなざわめき。


 時を同じくして、込み入った事情を持つジュネクが類似品みたいな少女を連れてサウエと会うために訊ねてきた。


 皇族と唯一繋がりのあるイルㇽの姉弟は、ロロウなんかより遙か先を探求しているのだと思う。


 ロロウは自嘲的な笑みを浮かべて、両手を挙げて敵意がないと相手に伝える。この場においては、事を荒立てないよう配慮することが、ジュネクとラムラの捜索を遅らせる手段だった。


 強引な抵抗をすれば、何かしらの裏があるのだと判断され、迅速に処理される。そうならないためにも、ただのイルㇽを演じる。


 土螢は互いに頷き合い、足許に放り投げられた懐剣を蹴ってさらに遠くへととばす。ロロウが無抵抗だとわかると、神威を畏れてか「目を閉じろ」と男が指示を出してきた。視界を塞がれたらイルㇽは聴覚を頼りに、神威を振わざるを得なくなる。ロロウは大人しく従った。


 ほっとしたその刹那だった。

 シャと短く金属の音が背後からして、背中の毛がぞわりと逆立つ。そして気付いた一瞬後には、ロロウの右脚に深く短剣が穿たれており、妙な呻き声が口を押し通った。


 ロロウの呻きを背後に立った人物は口を塞いで途中で遮り、傾いだ体躯を抱きかかえられるようにして拘束した。


「案内ご苦労」


 男とも女とも取れる声が耳許に吹き込まれた。


 外套の討手は身軽に壁を蹴り、ロロウの背後を捉える。乱暴に髪を掴みがっちりと首を固定したその喉許に刃が突きつけられた。


「さようなら」


 あまりにも穏やかな刺突だった。


 ロロウは一瞬何が起こったのかわからなかったが、己から噴き出る血液と、焼け切れるような酷痛で刃が胸を貫通しているのだと理解する。


 直刀が抉った肉に逆らって強引に引き抜かれた。支えるものを失って、ロロウの身体は地面へと直撃する。


「お前か、殺しを躊躇したのは」


 赤く染まった視界の端に、討手がうつる。


 すでに討手にロロウのことなどうつっていない。同胞だからと殺しを躊躇した土螢に意識は向いている。


 血が飛び散った。


 土螢の一人が討手によって情けを掛けた制裁を受けているのだとわかるのに時は要しない。この討手が、土螢の首魁なのだろう。


 頭巾で隠された討手の月夜に反射して照らされた。


 その表情が苦しげに歪んでいるように見えたのは、きっと薄れ行く意識の間際の幻影だろう。


 ロロウはせめてもの抵抗として、朱に染まる視界に貢ぎ物を捧げた。

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