第二章 土螢➀

 しと、しと、しと。


 潮騒とおなじ水のこすれる音は、アソカにとっては好ましい。


 ぱちん。ぱちん。


 ナキポノ(盤上遊戯のひとつ)の駒を打つ音が、奏でる水音に裏拍子のようにして混じり出す。


 ぱちん、と駒を置いたアソカは対戦相手のほうを見る。難しい顔をして、顎に手を当てて考え込む娘は妹のラムラより幼い年頃だ。それでもたまに、その娘にラムラの面影を重ねてしまう。こうして遊べたら、などと叶わない願いを抱いてしまう。


「勝負中に考え事をなさるなんて、アソカさまは余裕ですのね」


 そんなアソカの物思いにふけるようすを察知した娘は、頬を膨らませて抗議の意を示した。


「余所事という思慮に耽っていたほうが、手合割になってよろしいのではないでしょうか」


 第一皇女。祝皇妃ムレイの娘コト皇女は、これ以上膨らまなさそうな頬をさらに膨らませて、盤上を睨み付ける。


 ナキポノは皇貴族に親しまれている遊戯で、身分の高い男女がたしなみとして一通りの対局のやり方を教え込まれる。互いに皇の駒が捕獲されれば勝敗を決する遊戯なのだが、駒に彫られている鉾がそれを体現しているように、制約はあれど皇の駒は鉾で敵駒を捕獲できる。ゆえに、うつくしい勝敗の決め方は、次の手を封じられた詰みの場合だとされている。


 この盤上遊戯を登殿したばかりのアソカも、一通り宮廷榮卜官と名乗る男に手ほどきを受けた。アソカにとって憂いに沈む自分のことなど見えてないかのように、底冷えする立ち居振る舞いをしてきたあの宮廷榮卜官は、ある意味苦手な部類だったのだが、それはまた別の話である。ともかく、活力を失っていたときも善神がもたらした恩恵の数々を語って聞かせてみせたあの配慮に欠けたも微笑みが強く印象づけられ、未だ尾を引いている。


 祝人殿は未婚の女が神アマラスハルに奉仕するために設けられた、祝人専用の宮になる。


 訪れるのは皇族関係者と側仕えの女、例外として宮廷榮卜官に限られる。この遊戯を習ったところで、対戦相手など訪れるはずもなく、ましてや塞ぎ込んでいたアソカには、人に対する恐怖心が拭えずにいた。


 アソカの生活は実に簡素なものだった。祭祀を執り行うための潔斎、舞の稽古、早朝には神威を用いて脂燭を灯す。この神威は祖廟を祀り、榮卜官えいぼくかん咒術しゅじゅつを用いる際の儀式に捧げられる。そして、祝人殿に運ばれた亡骸から、神威を用いて魂の炎を吸い出す儀式がある。吸い出した魂の炎は、榮卜官が譲り受け、咒術で神のおわす島々へと送り出すのだそうだ。この国では、それが最も清らかな魂の送り方とされており、貴族たちはこぞって奉納金を献上し、親族が亡くなった際はその亡骸を宮へ持ち込む。顔や体の損傷を画すようにして布で覆われた亡骸を見る度に、胸が締め付けられて苦しくなる。目の前の亡骸は生前どのように生きたのか、丁重に扱われている人は身分の高い人なのかもしれない。そんな憶測が頭のなかを滑っていく。アソカは度々、この宮が一等穢れている場の気がしてやまなかった。


 人はアソカの行いを、魂を祓い清めているのだと形容するが、そういうふうにはとても思えない。むしろ、その行為が正しいのかさえわからない。


 恐怖をおぼえるが、やらなければ生きられない。やれと言われればやらなければならないし、疑問を持とうものなら質問するなと言われる。簡素で、苦痛だった。


 祝人は学を得てはならないとされている。そのため、部屋には外界の情報を知れるような書物は一切揃えられておらず、退屈な日々を送っている。政への介入はもってのほかであり、皇族の依頼を遂行することが求められる。無能を求められる。


 退屈な日々、といってもそう感じ始めたのはここ数年のことだった。登殿当初は、妹を見捨てたも同然の行いをした己を赦せず、人前に出ることも出来なかった。心を閉ざし、あるいは殺して。


 常に顔を布で覆る外套に身を包み、人々の視線から逃れるために縮こまって、宮に籠もりきりの日々だった。


 あの、傷ついた顔の、ラムラの顔がこびりついて離れない。自分で決めたことではあるものの、家族を守りたかったら仕えろとなかば強制的でもあったし、苦渋の決断と言わざるを得ないと弁明を口にしたくても、心のどこかで違うと思った。


 妹は悪神で、あなたは善神なのです。


 立場が違う、と周りに言い諭された。まるで呪いみたいに。


 突然そんなことを言われて納得できるわけがない。だが、言われる度に妹への目線に変化が伴ってきている自分がいた。


 妹は悪い神の魂が宿っていて、いずれ厄災をこの地にもたらす。


 私には善い神の魂が宿っていて、僥倖をもたらす。


 もしかしたら私とラムラは異なる生き物になってしまったのかもしれない。決して相容れない存在の。


 別の生き物になってしまったのが、気持ち悪くてたまらない。涙もとうの昔に枯れてしまった。


 そんな中、声を掛けてくれたのが祝皇妃ムレイだった。監視付きではあるが宮を出られないアソカに代わって祝人殿へと赴き、お茶をするようになった。初めのうちは拒否していが、ムレイは何も言わず、お茶や菓子を置いて帰った。


 来る日も来る日も、ムレイはやって来た。


 アソカは根負けして応接の間に彼女を通した。うれしそうに微笑む祝皇妃を見て、なくしたはずの笑みが、己にも戻ってきていた。


 会話もするようになった。そのうち祝皇妃の娘、コト皇女とも交流するようになり、今では良き遊び相手になった。


 皇族で、しかも祝皇妃ともなれば誰も口を挟めない。アソカは彼女たちの来訪をとても楽しみにしていた。


「娘のお相手を、いつもありがとう」


 芯の通った透き通る声に、アソカは反射的に立ち上がり頭を下げる。従者を連れた祝皇妃ムレイが微笑みながら、側へと歩み寄る。


「ナキポノをやっているのですか。どおりで娘が顔を真っ赤にしているわけですね」


「母上、それはどういう意味でしょうか」


 コトが口をとがらせて反論する。


「アソカさまは盤上遊戯が得意でおられますから。母も勝てたことがありませんのに、娘が勝てたらおかしいでしょう?」


「わたくしだって稽古の合間に戦法を研究していますのよ。いつかきっと、アソカお姉さまをいつか越えてみせますわ」


 コトの敬愛を込めた呼び方に、アソカの胸がちくりと痛んだ。


「たいへんよい心がけだと思いますが、あなたは仮にも皇女なのですよ。オノファト皇子を見習って、神璽国の公務にも心血を注ぐようになさい」


 コトの顔が曇る。アソカよりも年下の彼女は、遊びたい盛りだ。だが、そのうちそうは言っていられなくなるだろう。この国の姫である以上、用意された婚姻が待ち受けているだろうし、求められる人物像に応えていかなければならない。


 それは、己とておなじことだった。


 だからだろうか。アソカは無意識にコトに構ってしまう。遊んでと言われれば遊ぶし、話をしようと誘われたら誘いに乗る。


 もしかしたら、コトと自分を重ねているのかもしれない。あるいは、側にいたはずの妹の存在を求めているのかも。


「コトさまには、わたくしにないものをお持ちです。わたくしは、それが少しうらやましく思います」


「ほんとうでございますか! では、アソカ姉さまに恥じぬよう精進させていただきます」


 懊悩ゆえの、自嘲気味に漏れた言葉に、コトは素直な反応をみせる。このくらい真っ直ぐであったなら、悩まずに済んでいるのかもしれない。


「おやおや、祝人殿に花三輪。賑やかなことですな」


 基本女人のみの宮に異質な男の人の声。アソカはその声を受けて、人形を強引に動かすみたいなぎこちなさで、その声の主を仰ぎ見る。


 副皇、ファーアン。祝人殿の管理者であり、祭祀を取仕切る。アソカにとっては最も不得手な人物だった。自分の迂闊さひとつで家族の扱いが変動してしまうから、逆らえない。


「……なにか御用でしょうか?」


 ムレイの袖で口許を覆って、副皇に訊ねる姿をちらりとうかがう。副皇と祝皇妃も折り合いが悪いと聞く。


「相も変わらず祝皇妃と姫殿は善の君のもとへ通われていると聞いてしまえば、なにか裏があるのではと勘ぐってしまうものです。我々のあずかり知らぬところで、祝皇から密命でも受けているのでは、と」


 ムレイは片眉を上げて応じる。


「それはそなたのほうではなくて?」


 裏があるのはお前のほうだろう、という言葉にファーアンは一瞬かっとなり拳を握ったが、寸で留めた。そして、嘲るような笑みを浮かべた。


「————ああ、そういうことですか。ムレイ殿は善神に肩入れすることで、兄上殿に復讐をなさる気ですな」


 明らかな挑発だが、ムレイにとってその挑発は看過しかねた。


「無礼です、撤回なさい」


「撤回せずとも良いではありませんか。我々の仲なのですから、黙っていてさしあげますよ」


 ムレイの整った鼻筋にしわが寄る。我々の仲、というのは暗に皇ファノイを嫌悪している間柄だろう、という意味だ。弟からしたら、一番の愛を貰えていない妃が滑稽に映るようだ。


 アソカにはこの場を鎮める権限はないに等しい。沈黙が支配しようと舌なめずりをした。


「失礼、もしかしてその逆でしたか」


 ファーアンの口は堂々と走り出す。


「アソカ殿に清められた死者は、海の向こうの天界へと葬送される。国の祖たる天界へと誘われる。そのために祝人殿には弔いを求めた貴族の死者がやって来る。ムレイ殿は弔われる前の穢れをその身に受けることで、今は亡き寵姫に近付き、兄上に取り入ろうとする算段か」


 なんて人だ、とアソカは心の中でひとりごちた。


 いくら兄の妃だからとはいえ、祝皇妃を侮辱する言葉には一切の遠慮がない。成り行きでアソカさえも無遠慮に嘲る態度をとられるのは、耐えられる。だが、心優しき皇妃まで罵られる筋合いはどこにもないはずだ。


 アソカは言葉を発そうと、口内を湿らせる。しかし、緊張しているせいか口が渇いて呼吸だけが漏れた。


「……一方的な搾取をしておいて、よくそんな口が言えますね」


 先に冷徹なムレイの声が発せられた。副皇に蔑視されてもなお、祝皇妃の誇りを持った態度で接する姿は堂々たる振る舞いだった。


「————失礼します、ファーアンさま」


 衛士の男が切れ味鈍くファーアンへ歩み寄り、ひそひそと耳打ちする。ただでさえ醜い言い合いをして沸騰した思考が、急激に冷却された。


 ファーアンは別の方面に向ける矛先が生まれて、半眼になって盛大な舌打ちをする。ムレイの背後で跼蹐していたコトが大きく肩を揺らしてびくついた。


「急用が出来たので失礼する。くれぐれも、我の管理下にある姫に妙な入れ込みはしないことですな」


 捨て台詞を残して足早に立ち去る副皇の背中を見送ったムレイは、深く嘆息した。


「せっかくの遊戯の邪魔をしてしまってごめんなさい」


「……いえ」


 アソカは懸命に首を振る。正直、自分ではどうしようもできなかった。ようやくアソカという己を取り戻しつつあるが、まだ副皇のような支配で欲を満たす高慢な人物を相手にすると、沈黙を選択してしまう。人形になってしまえば、苦痛が短くて済むから。


 でも、そう思う自分が嫌だった。


 こんな姉では、ラムラになんて会いたくても会えない。


「善神も悪神も、祝皇も副皇も、等しく人間です。祖は神さまだとしても、今は人として生を受けている。私たちには神をモノとして扱う資格が、あってはならない、あってはいけないと思うのに、どうしてあの方はそう思えないのでしょうね」


 ムレイは泣き出しそうな瞳で、相性の悪い、最愛の人の弟が去って行ったほうを茫然と眺める。


 副皇とは考え方が根本的に違う。だからといって、それに甘えてはいけないはずなのだ。


「母上は、父上のことがきらいなの?」


 コトが顔をくしゃくしゃにしてムレイを見上げた。不安そうな子どもの瞳が揺れている。


「祖神に掛けて、祝皇さまはわたくしの最愛の人でございます。ファーアン殿の戯れ言を真に受けてはなりません」


 コトの顔が花のように笑顔になる。心底安心したような笑顔だった。


 張り詰めた糸がほぐれた気配を感じ取り、アソカは深い息を吐き出すのだった。


 やはり、どんなに心根のやさしい人がいたとしても、誰かのせいで宮廷がいやな場なのは変わらなかった。

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