第一章 イルㇽの集落“シマ”⑫
夜風がさらさらと短めの髪をなでつける。温まった身体に冷たい風が心地よく通り過ぎるが、ラムラの顔は身体を清めさっぱりしても浮かない。どうしたって、不和し合う集落の人たちを思い出してしまい、陰鬱な気持ちになる。
ホクの葬儀はその日のうちに慇懃と行われた。イルㇽの民たちの神威による火葬が集落にとっての弔いなのだそうだ。
神威を宿した者たち総出で紅の炎に巻かれたホクの遺体は、骨すら残らず瞬く間に火花となって散ってしまった。
ホクの家族は彼を思って噎び泣いていたが、家族のように接していたはずの他の人たちは静かに彼の家族を見守っているだけで、一人として涙を流すことはしなかった。
ラムラもトラーシィから葬儀は泣いてはならないと言付けされて、弔い中涙を堪えていた。ホクは元気な子どもで、ともすれば新入りのラムラによくついて回って、わからないことを先回りして教えてくれる、背伸びした男の子だった。きっと周りからも愛されて育ってきたに違いない。
それでも涙を流さないのは、感傷に耽るのさえ贅沢だからなのだとラムラは知ってしまった。せめて家族だけは見栄を崩して、失ったものを想い続けられるようにと、家族以外の者たちは、虚しさを胸の内に秘めてそっとその場から退く。立ち上がれるまで辛抱強く待つのがイルㇽの姿勢だった。
葬送を終えた今もトラーシィたちは会合の最中であり、いつもなら彼女たちと湯治場に行くのだが、このときばかりはまだ終わらないからと一人で湯浴みをして来てはどうかと提案され、素直に従った。だが、ラムラにはわかっていた。あの光景に慣れぬラムラを気遣ってのことなのだと。
湯に浸かったラムラは、ほっとしたのもつかの間、声を押し殺して涙を流した。
こんな国を古代神の子どもである〝ニキーサ〟は望んだのだろうか。己の末裔が虐げられる国であれと願うものだろうか。そんなのは神ですらない。
ラムラは自分に宿った悪神の魂を強く嫌悪した。大勢の命を葬ったラムラに、誰かの死を悼む資格があったらと思わずにはいられない。
ひとしきり泣いて落ち着きを取り戻したラムラは一人で夜の道を歩いていた。湯場から出て集落までの踏み分け道を一人で戻るのは、はじめてのことだった。集落で暮らすようになってから、山特有の樹の根が這う傾斜の土壌を歩くのに慣れ初めてはいるが、夜道を歩くにはまだ覚束ない。上り月が多少地面を照らしてくれているものの、夜目が利くほうではない。せっかく湯で汗を流したところで、転びでもして泥だらけになるのだけは避けたかった。
足早に草地を踏みしめながらも慎重に歩いていたラムラは、不意に脚を止めた。木立の間に湾刀を抱えて座っている人がいたのだ。一木に寄りかかっている人物は、寝ているのかと思ったのだが、こちらの気配に気付き顔を上げた。
目が合う。
木陰にひっそりと座していたのはジュネクだった。彼は会合に参加していない。
ジュネクはこちらを視認するなり立ち上がって誘導するようにして歩き出した。ラムラは慌ててその背中を追う。
沈黙が満ちる。さくさくと土を踏む音と、草木をかき分ける音、風の音、梟の鳴き声、虫の恋歌が静謐な色を滲ませている。
妙なことに、互いに無言なのは気にならなかった。
しかし、ラムラはその沈黙を最初に破る。
「トラーシィから聞きました。わたしたちを海から助けてくれたのは、あなただって。————ありがとう」
諦念を込めたままでいたら、対等に接する人たちと関わりを持つ機会なんて訪れなかっただろう。もし、襲撃されたあの場にジュネクがいなかったら、ラムラはこの場にいない。せめてお礼だけでも伝えたかった。
「……トラーシィのやつ、勝手にべらべらとしゃべったのか」
一拍遅れて微苦笑を含めた、素っ気なさそうな声が返ってきた。
ラムラは返答があるとは思っていなかったので、虚を衝かれて転びかける。その身体をジュネクが支えた。顔を上げると、苦笑いを浮かべた顔が間近にあった。
「だけど、あんな役人のいる神璽国のために死んでやらなくて正解だっただろ。知らないまま死んでいたら、化けてでも報復したくなるってものさ」
ラムラも目をぱちくりとさせてから、つられて微苦笑を浮かべた。
「たしかにそうかも。本当に、ありがとうございます」
「……やることが特になかったからね。サウエに与えられた命令くらいまっとうするさ」
少しの間のあと他人事みたいに呟いたジュネクはラムラの手を引いて立たせると、さっと手を離して再び歩き出した。
「命令?」
「君の護衛。神威を宿した人の子が、一族にやって来たのだと皆に知られたら、何が起きるかわからない。サウエは必要とあれば君の正体を明かすつもりでいるみたいだけど、ぼくはそれが良策だとは思わない。君も、さっきのあれを目撃したらいやになるだろう」
「いえ……」
否定をした一方で、ジュネクの言葉に薄ら寒いものをおぼえる。ラムラが感じた恐怖は、きっと彼の言うことをおなじく危惧したからだ。
暴力としての力になる、神威。
その神威が身を守る武器となるのがもどかしい。
「だいいち神威なんて力は人の身に余るものだろう。だから————」
言いさして、ジュネクの歩みがとまる。
怪訝そうにこちらをうかがうラムラをジュネクは背後に押しやって、深更の暗闇を凝視した。
肌がピリピリと粟立ち、不快な歪さが迸る。
木の葉が互いをかすめる音。風の音。梟の鳴き声。
否。
虫の呼び声が不自然に止んでいる。
ジュネクは鞘から湾刀の刀身を抜き放つのと、黒い塊が跳びかかってくるのは、ほぼ同時だった。
犬のような悲鳴をあげた塊は、ジュネクから距離を取る。月光に反射した双眸がこちらを見据えてうなり声を発している。
「
獅子のような体躯をした猫。愛らしそうだが、人一人背に乗せられそうな野生の猫獅子は、ときに血肉を喰らうために人間を襲うこともある。俊敏さに加え樹登りを得意とし、樹から樹へ飛び移るという優れた身体能力をもっている。
イルㇽの集落で獣に襲われることは珍しくはない。だが、この獣は明確に操られてジュネクのみを狙っている。その獣が猫獅子ともなるとなおのこと。
「やれやれ、この力はなるべく使いたくはなかったんだけどな!」
ジュネクは吐き出すように叫んでから、己の意識を集中させた。ジュネクの瞳が引火する。
赫赫と光り出すその瞳には、生きとし生けるものすべての魂の炎が、投影されている。
その瞳に視えるすべての炎が、たった一人の志向に従った。
巨大な炎柱の竜巻が黒煙を上げる隙を与えずに周囲一体を焼き尽くす。火の息吹に怯えをみせた猫獅子は、うなり声をあらわに人影まで飛退る。
「やっとお姿をあらわしたか、土蛍」
ジュネクは確信をもって人影に声を掛ける。この手口を使う集団には心当たりがあった。
沈黙が降りる。人影は声を発さない。互いににらみ合いの硬直状体が続く。
ラムラはそっと視ることに意識を向けようと、短く息を吸った。だが、ラムラの意志を感じ取ったジュネクが瞼を覆うようにして大きな手で視界を遮る。
「そうやって、己の身を削ろうとしなくていい」
「でも!」
それはあなただって同じだ、と言いかける。だが、淡々とした、しかし包み込むような強かな声音が頭上から降りてきた。
「駄目だ。その力は、使うべきじゃない」
ジュネクはラムラの手を引いて走り出す。踏み分け道から逸れた、傾斜のある岨道をあえて選んで滑り降りる。
背後で紅炎が燃え盛る。ラムラが振り返ると、トラーシィを筆頭とした義士団の面々が猫獅と人影と対峙しているのが見える。
「トラーシィ‼」
ジュネクは腰に提げていた竹筒を外すと、トラーシィに向かって放り投げる。
投げて寄越された竹筒を受け取ったトラーシィは手中にあるものを、目を細めて一瞥してからジュネクに「行け‼」と一喝した。
ラムラは後ろ髪を引かれながらもジュネクに従って走り続ける。トラーシィたちは無事なのか、土蛍とは一体何者なのか、そんなことを考える隙も与えられず、息を切らしながら走った。
枝葉を掻い潜り、湯治場で身綺麗にしたのさえ無駄になるくらい身体は泥や草にまみれる。ラムラは額に浮いた脂汗を服の袖で乱暴に拭う。
「……トラーシィたちは簡単に斃されるようなタマじゃない。それに一刻もはやく君を追いたいのに、度胸のある義士団連中を相手にしていたら、それこそ夜が明けるよ。斃す前に向こうのほうから身を引いて、君の捜索に力点を置くはずだ」
ラムラの胸中を察したジュネクは、よくある日常のひとつのように話す。
「あの人たちの狙いがわたしなら、トラーシィたちを巻き込みたくないよ……」
せめて加勢くらいはしたい。
ラムラの悪神の力は、こんな時にこそ活用するべきではないだろうか。
「〝緑の炎〟が顕現したら、君がイルㇽの者と一緒にいると丸わかりになるな」
当てつけの言葉に、ラムラはつかの間黙り込む。ジュネクの言うとおりで、心の隅に泥がたまりこむ。
「わたしを狙うのは、わたしを殺したいから。殺したいのなら、暗闇から弩で狙うなりすれば効率的な方法なはずなのに、わざわざ脅しをかけるなんて卑怯だわ」
「それが連中のやり方さ」
ラムラは頬の内側を噛んで、やるせなさに耐える。
「あなたは、何かしら事情を知ってそう」
「知っていたとしても、今は口にする気分じゃないね」
平然と言い放たれ、消化不良に顔を歪める少女に、ジュネクは着ていた長羽織を乱暴に掛けた。
「わ……!」
驚いて顔を上げるラムラに柔らかく笑う。
「せっかく顔色が良くなってきたのに、湯冷めして風邪を引かれたらたまったものじゃない。出会ったころと比べて、やっと唇に朱がさしはじめたのに、烏有に帰させるのは忍びないからね」
ジュネクは宥めるように手を差し伸べた。
「まずは追っ手を完全に撒こう」
ラムラはその手を握り返す。
「……どこに行くの?」
純粋な問いに、ジュネクは不適に笑ってみせた。
「サウエと合流するために、人のいる街へ降りる」
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