第三章 1

波に揺られながら、なつかしい気持ちにもなって、ヴィズルはふと甲板から海を見た。

 エーリヴァーガル、という彼の姓は、『嵐の海』という意味がある。その名の通り、嵐の海の夜に生まれたからだ。

 海とは、切っても切れない縁のようなものがある。

 海で生まれた。

 海で育った。

 左目を失ったのも、また海でのことだった。

 あの日はこんな風に海は凪いでいなくて、風が強く吹いて、波が高かった。

「……」

 海鳥が鳴くのを聞きながら、そのことを思い出す。

 それはちょっとした船員同士の言い争いから始まった。

「なんだとう。俺がやったって言うのかよう」

「そうだ。お前がやったんだ。そうにちげえねえ」

「そう言うお前はどうなんだ。お前こそあやしいじゃねえか。調べてやろうじゃねえか」

「なにをっ」

「なんだ」

 そこから掴み合いになり、掴み合いが取っ組み合いになり、それを止めに入ったのがヴィズルだったというわけだ。

「まあまあ二人とも。よせ。聞いていればちょっとした言葉のあやじゃないか」

「あんたは引っ込んでてくれ」

「そうだ。他人の出る幕じゃねえ」

「そういうあんたらも互いに他人だろう」

「黙ってな」

 と、とうとう剣が引き抜かれて、ヴィズルも顔色を変えた。

「よせったら」

「すっこんでろ」

 と、肩を強く押された拍子に、側にいた子供を踏みそうになった。

「!」

 同時に、目の前に刃がせまってきた。

 よけようと思えば、よけられた。

 しかしよければ、子供を蹴り上げてしまうことになる。

 それが、どうしてもできなかった。

 彼は刃を受けた。それは左目に直撃して、ヴィズルは片目となった。

 世間では、女出入りのために目を失ったという話になっている。

 ヴィズルは、それでいいと思っている。

 自分を『隻眼の死神』と呼ぶ者がいるらしい。それは誇張だとも思う。

 左目を失ったことを、特別後悔はしていない。人生、そんなものだと思っているからだ。

 海鳥が鳴いている。



                   1



 ルイーゼが出会ったのは、なにも男たちだけではない。

 同性の友というものも、彼女は持った。

 花の好きな女だった。

 大きな大きな温室を持っていて、一年の花すべてがそこに咲きくるっていた。おかげでルイーゼは、初めは興味もなかった花というものに大分詳しくなってしまった。

 樹木から草木から蔓草まで、彼女の庭園にない植物はなかった。

「春はなんといっても桜よ。桃やチューリップ、菜の花も咲くわ。あとはヒヤシンスね。 ムスカリにアネモネ、忘れな草もいいわ」

 ルイーゼが白い花をくんくんと嗅いで、

「いいにおいがするね」

 と言うと、

「ふふ。それはマトリカリアよ」

 と微笑んだ。

「むずかしい名前」

「スイートピーもいい香りがするわよ。まるで、上質の香水みたいに。あとは、春咲きの薔薇」

「薔薇なら知ってる」

「薔薇は一年中咲いているわ。桜もね」

「桜は春の花だと思ってた」

「そう思ってるひとが大多数よ。でもね、桜は実は一年を通して咲く花なの。たまたま、春にぱーっと咲くのが有名なだけよ」

 白い、玉のような花が咲いている。

「こでまりよ。ああ、あとはユキヤナギも咲くわね。どっちも目が覚めるような白さでしょ」

 少し歩くと、幾重にも花弁が重なった花が見られた。色も、緋色や白、黄色などがある。「今はちょうど若草の月ね。若草の月の花といったら、なんといっても芍薬よ。見て、この赤。私、芍薬は赤い花が一番好き。この赤と葉の緑の対比が素晴らしいと思うの。そう思わない」

 あまりにも彼女がうっとりとして言うので、思わずそうだね、とうなづいてしまった。 確かに、その赤は独特のものである。むこう側が透けてしまいそうなうすい花びらが何十にも重なって、重厚感が増している。

「藤も見ごろよ。藤はこの月にしか咲かないわ。ほら、いい香りでしょう」

「ほんとだ。まるで、お香みたい」

「満開の藤の樹の下にいると、うっとりしちゃうのよ」

 それから彼女はルイーゼをその先に案内すると、

「若草の月は、樹木の月ね。躑躅もきれいよ。ほら、花のにおいがここまで漂ってくる」 深呼吸すると、確かに蜜のような、そんなかすかな香りがしてきた。

「これが躑躅の香り?」

「そうよ。それに、たんぽぽも咲くわ」

「道端に咲いてるよね」

「どんな石畳に踏まれても、負けずに頭を出してくる強い草花よ。それに、ポピーと、あとはラベンダーね」

 強い、紫蘇のようなにおいがしてきた。

「なんの香り?」

「これがラベンダーよ。お茶にも使うわ」

 こっちよ、と手を引かれていけば、薄紫色の花が咲いている。

「――」

「ここにはちょっとしかないけど、畑なんかになると一面咲いているの。それはもう、圧巻よ」

「そうだろうね」

「こっちは、牡丹よ。百花の王と呼ばれているの。あっちはマリーゴールド。この鉢植えはアマリリスよ」

「これ、さっきの芍薬って花にちょっと似てる」

「でも葉っぱの形が違うのよ。それに、枯れ方がまったく別なの」

「ふうん……」

「こっちは、カーネーションね。茎を折って土に挿すと、そこから成長するのよ」

「変わってるね」

「不思議でしょ。こっちは、アイリスよ。あれは撫子」

「あれは?」

「石楠花。あっちは、キンギョソウ。隣のはカリプラコア」

 春の温室を見終わって、表に出た。

「お茶にしましょ」

「あのラベンダー?」

「ふふ、残念ながら違うわ。ふつうの香茶よ」

「よかった。ふつうが一番」

 永遠を生きるルイーゼの宿命を、彼女は知っている。知っていてなお、彼女はルイーゼと対等に接した。それが有り難かった。

「ふう。すごい数だったね」

「あれで、まだ春の温室の半分も見ていないわ」

「うえー」

「ふふふ」

 彼女が焼いた焼き菓子を食べながら、香茶を飲む。血なまぐさい生活ばかり送っていたルイーゼの長い人生で、数少ないほっとするひととき。

「このお菓子、おいしい」

「気に入った? 作り方、教えてあげる。作り方さえわかれば、誰にでも作れる簡単なお菓子よ」

 作り方は、確かに簡単だった。後年ルイーゼは何度もこの焼き菓子を作ってみたが、不思議なことに彼女が作ったものとはどこか味が違っていて、とうとう自分ではあの味は再現することができなかった。

 彼女とは、数年一緒に過ごした。

 ところがある年の流行り病で、彼女は寝ついた挙句に逝ってしまったのである。

「ねえルイーゼ、あの唄を歌って」

 死の床で、彼女はルイーゼにそう頼んだ。

「最期に、あなたの唄を聞きたいの」

 ルイーゼは泣かないように奥歯を噛みしめて、か細い声で唄を歌った。小さい小さい声で、彼女のためだけに歌った。

「嬉しい」

 彼女は弱々しく微笑んだ。

「大好きよ、ルイーゼ」

 その瞳が永遠に閉じられたとき、ルイーゼは初めて涙をこぼした。そしていつまでもいつまでも泣き続けた。

 彼女が好きだった花で遺体を包み、墓は花で満たした。

 まるで、そうすることで自分の悲しみを埋めるかのように。



 リクキ湖はレイナン大陸西部にある、歪んだ三日月の形をなす大きな湖である。海を渡り、さらに街から街へ移動していくうちに、季節は若草の月から六番目の月、青竹になっていた。

「リクキ湖のほとりと書いてあったな。湖のほとりの集落で一番近いのは、ここだ」

 とヴィズルが地図を指差したのは、どうやら大きな国のようである。

「どれどれ、ホワレ王国……ここに行けば、なんかわかるかな」

「さあな。行ってみないことには」

 ルイーゼは青竹の月の空を見上げて、なにかを決意したかのようにきりりと唇を結んだ。 必ず、見つけてみせる。

 これで、終わりにする。

 そのルイーゼの横顔を見て、エルリックは複雑な思いにとらわれていた。

 知れば知るほど、この女の奥深さがわかる。

 知れば知るほど、好きになる。

 でも、この女は死にたいと言う。

 死ぬための手段を探すために、血眼になってあちこちを旅している。

 自分は、それを手伝っている。

 果たして、それでいいのだろうか。

 違うことで、彼女を支えてやれないだろうか。

 例えば、一生涯をかけて側にいてやる。

 命を懸けて、守ってやる。

 そんなことでも、いいはずだ。

 なにも死ななくても、いいじゃないか。

 死に急ぐ必要が、あるのかよ。

 若いエルリックはそう考えていた。

 ヴィズルの考えは、少し違っていた。

 死線を何度もくぐってきた彼は、実際何度も死ぬ目に遭ってきた。自分のために死ぬ人間も見てきた。死にたい人間も、生きたい人間も、数多く目撃してきた。

 永遠の命を持つことの苦痛は、言葉に尽くしがたいものであると思う。

 だから、死にたい、もう終わらせたいというルイーゼの悲願は、痛いほどわかる。

 死にたいのなら、死なせてやれ。彼女は充分に生きた。潮時だ。

 彼はそう思っていた。

 三者三様の思いを抱えていざホワレ王国に到着し、宿を決めて食事をしながら、植物に詳しい人間が街にいるかを聞くことにした。

「植物に詳しいひと? そりゃあなんといってもレイトン翁だろうな」

 食堂の主は腕を組んでしたり顔でそうこたえた。ヴィズルとエルリックは顔を見合わせた。

「レイトン翁?」

「誰だいそれ」

「この国が誇る大温室を所有する、植物狂いのじいさんだよ。植物のことならなんでも知ってて、大学の教授が教えてもらいに来るほどなんだ」

「毒草のことも知ってるかな」

「毒草ぉ? まあ、草花だったら知ってるだろうね。図鑑みたいに正確で、豊富な知識だって太鼓判を押されたんだ」

「ふうん……」

「そのご仁にはどうやったら会える」

「温室に行きゃその辺を歩いてるよ」

「ありがてえ。行ってみようぜ」

 三人は食事を終えて、その温室へ行くことにした。

 大温室と銘打たれているだけあって、それは目立つ場所にあり、すぐにわかった。

 小高い丘の上にある一面がガラス張りの建物など、そうお目にかかれるものではない。 そこに入ると、途端に色々な香りが漂ってきた。

 ふわり。

 それと共に、ルイーゼに過去の記憶が蘇る。あの笑い声が聞こえてくる。

 ふふ、ルイーゼ。花の香りは苦手?

 首を振る。幻だ。

「すげえ。ほんとに一年中の花が咲いてら」

「温室だからな」

 人を探しながら、三人は温室のなかを歩いた。ルイーゼは見覚えのある光景に、居心地が悪くてずっと黙っている。

「あ、すみません。レイトンってひとを探してるんですけど」

「レイトンさんならほら、あそこを歩いてるひとがレイトンさんです」

「どうも」

 背の低い、白髪の男があちらを歩いている。口元に髭を生やし、むっつりと唇を引き結んですたすたと歩く様は健康そのものだ。

 エルリックは彼の側まで近づいて、話しかけた。

「あの」

「なんだね青年」

「ある植物のことで聞きたいことがあるんです」

「なに、植物のことで?」

 レイトン翁の目が、きらりと光った。

「君は、植物のことをどれだけわかっておって儂に質問をしておるのかな」

「はっ?」

「花のことなど、一つもわかっておらんのだろう」

「え、えと……」

「そんな輩がいきなりやってきて質問などとは嘆かわしい。喝!」

 唾を飛ばして怒鳴ってくるレイトン翁にたじたじとなりながら、エルリックはなおも食い下がろうとした。

「待ってください。俺たちは……」

「しつこーい」

「あ、蝋梅だわ。満作も咲いてる。それに、椿も。あっちは南天」

「ルイーゼ、そんなこと言ってる場合じゃないよ。援護してくれよ」

「ほほう、君は花の名前を知っておるのか」

 翁は眉を上げてルイーゼを見た。

「はい、少しなら」

「ではあれはなにかね」

「あれは黄梅です。その隣はなずな」

「ではあれは?」

「水仙です。その横は、山茶花。隣の鉢植えは、シクラメン。花壇のは、パンジーに、ポインセチアに、カランコエ」

「あっちのは」

「ああ、シンビジウムもあるんですね。それに、シャコバサボテンも」

「ふーむ」

 レイトン翁はもごもごと口元をしきりに動かし、なにかを考えていたようだったが、

「ここは冬の温室だ。夏の温室に行こう、ついてきなさい」

 と歩きだした。

 ヴィズルとエルリックは顔を見合わせて、

「……なんだ?」

「わからん。ついてこいというのなら、ついていこう。とにかく、追い出されずにすんだ」

 と、翁の後をついていった。

 夏の温室は、ひんやりとした先程の場所と違って、むっとして暑かった。

「お嬢さん、質問の続きだ。あれはなにかね」

「池に咲いているのは、蓮です。あっちは睡蓮。ほとりのはひまわり。百合もありますね」

「ふむ。ではあっちのは」

「大ぶりのは、ダリアですね。鉢植えには朝顔と、それからハイビスカス。地植えになっているのは、夏咲きの薔薇。コスモスと、桔梗です」

「ではあの樹はなにかね」

「タチアオイです」

「隣は」

「芙蓉ですね。その横のは、百日紅」

「その下にひっそりと咲く白いのはなにかな」

「トケイソウですね。珍しい」

「ではあのルドベキアの隣に咲くのはなにかな」

「アベリアです。あっちはゼラニウム、その隣はポーチュラカです」

「よろしい。ではこちらへ」

 これで合格かと思いきや、翁はすたすたと別の場所へやってきて、ある植物の前で止まった。ルイーゼはそれを見上げて、

「おっと、葛の花ですか。これは、花は赤と紫できれいですが、山の困り者です。一度生えたら太い茎と根で絡みついて容易には離れない。切っても払っても、次の年にはまた現われる化け物のような植物です。根は葛根湯という薬湯になりますけどね」

「ふむ。ここの下手な職員よりはものを知っているようだの。よろしい」

 翁は満足げに口髭をなでて、

「ついておいで」

 と歩きだした。

 ヴィズルとエルリックはまた顔を見合わせて、そして慌てて彼の後についていった。

 翁は温室を出ていくと、丘の上の小さな家のなかに入っていった。

「ここは儂の家だ。温室にすぐ行けるようにと、ここに建てた。まあ入んなさい」

 なかには、所狭しと鉢植えが置かれていた。ベッドと小さなテーブル、それに台所がある以外には、植物しかない。一同がぽかんと部屋のなかを見回していると、

「その辺に座っておくれ。ラベンダーのお茶を淹れてあげよう」

 翁は湯を沸かし始め、彼らを座らせると、さて、と手を組んだ。

「聞きたいこととは、なにかね」

「探している植物があるんです」

「ほう」

 翁は眉を上げて、目を光らせた。

「言ってみなさい」

「名前はわからないのですが、紫の花弁が五つあり、青い雌しべがある、と文献にはありました」

「……」

 しゅんしゅん、という音がして、やかんに湯が沸いた。翁は立ち上がってお茶を淹れ、三人に振る舞った。そして黙ってそれを啜ると、しばらくしてこう言った。

「それは、毒草ではないのかね」

「ご存知ですか」

「知っているとも。どんな呪われた生き物の息の根も絶つといわれる、恐ろしい毒を持つ植物だ。そんなものを手に入れて、どうするね」

「それは……」

 口ごもるエルリックを制して、ルイーゼが言った。

「私、呪われているんです」

「ルイーゼ」

「死ねない呪いに、かかっているんです」

「ほう」

「死ぬためには、その毒草がどうしても要る。だから、その毒草がほしいんです」

「ふーむ」

 レイトン翁は組んだ足をぶらぶらとさせながら、なにかを考えていた。しばらくして、彼は言った。

「お嬢さん」

「はい」

「あんた、何年生きてるね」

「……五百年と、少しです」

「ふむ。それが本当なら、百年に一度咲く花も何度か見たかね」

「……三度ほど」

「うーむ」

 翁は腕を組んで、上を向いた。そしてむむむむむと唸った。

「実に羨ましい。羨ましい限りだ。百年に一度咲く花など、よほどに運がよくないと見られないものだ。それをなんとかして、見てみたい。見てみたいものだ。それを三度も見たとは、なんと運がいいのだ」

 むむむむむ、と再び唸って、翁はうつむいてしまった。

 室内は沈黙に包まれた。

「おいおっさん」

 エルリックはヴィズルに囁いた。

「なんかこの爺さん、唸ったまま動かないぜ」

「衝撃を受けたのだろう。見たい見たいと思い願っていたものを、よりにもよって三回も見た者が目の前にいる。それは、うなだれるというものだ」

「そのうち泣き出すんじゃねえのか」

「まさか」

 と言い合っていたら、突然、

「ずるいっ」

 と翁が叫び出し、顔を上げて身を乗り出しかと思うと、

「ずるいずるいずるいずるいっ」

 と言ってルイーゼにせまった。

「儂も見たいっ。儂も百年に一度咲く花を見たいっ。持ってきて。探して持ってきてっ」

「ええっ」

「みたいみたいみたいみたいみたいっ」

「お、落ち着いて」

「ご老人、百年に一度咲く花を見たいのはわかりましたが、それと毒草となんの関係が」「くだんの毒草は、危険すぎてあの温室には保管しておらん。そもそもあれは野に自生するもので、人の手で育てることはできんのだ。だから、お前さんたちが帰ってくるまでに探しておいてやる」

「そんなあ」

「しかし、百年に一度咲く花がどこかに咲いているという保証はありませんぞ」

「それでもよい。儂は一縷の望みをお前さんたちに託す。一度でも見たことのある人間がこれこそがそれですと、持ってきてくれさえすればいいのだ。それで満足してやろう」

「うーん」

「……わかりました」

「ルイーゼ」

 今まで黙って聞いていたルイーゼが、顔を上げた。

「探してきます。百年に一度咲く花」

「おお」

「最後に見たのはいつだったか覚えていないけど、でも探してきます。探せるかどうか、咲いてるかどうかはわからないけど、やれるだけやってみます」

「よし。その言葉を聞きたかった」

 翁はすっと手を差し出した。ルイーゼはその手をがっちりと握って、笑い返した。



 ルイーゼは地図をテーブルの上に広げて、記憶を掘り起こした。

 最後にあの花を見たのは、どこだ。

 あれは、確か。確か。

 目をじっと瞑って、集中する。頭が痛い。こめかみがちくちくする。

 ヴィズルとエルリックは固唾を飲んで、その様子をじっと見守っている。

「――リーズルよ」

 しばらくして、ルイーゼは低く言った。

「リーズルの、山の奥。確か、ウィレン山脈」

 ああ、思い出してきた。そう、あれは確か。

「ウィレンの、この辺」

「それはいつだ」

「えと……百五十年くらい前」

「それじゃだめだ。その前は」

「その前……その前は」

 ルイーゼは目と目の間を押さえて、必死に考えた。あれは。あれはいつだ。あれは。

「……セフェム。二百年、ううん、二百三十年前」

「それもだめだな。最後は」

 頭を抱えて、ルイーゼは思い出した。いつだったろう。そんなの、忘却のかなただ。

 ふふ、ルイーゼ。

 ふと、彼女の声がする。

 そんなことないわ。よく思い出して。あんなに感動したのに、もう忘れちゃったの?

 ルイーゼは顔を上げた。

 そうだ。分厚い白い花びらが縦に何重も重なって、際が薄桃色に咲いて、それが見る見る開いて行って、うす黄色い雌しべが姿を現わしたと同時になんともいえないかぐわしい香りが辺りを漂って……

「――セントール」

 確信に満ちた声で、ルイーゼは言った。

「三百年前」

「確かか」

「確かよ」

「セントール大陸なら、ここから船で二週間だ。近いよ」

「セントールのどこか覚えているか」

「離れ小島の、草原の真ん中よ」

「じゃあそこに行こう」

 エルリックは夢中になって言って、そこではっとした。

 俺、好きな女が死ぬのを手伝ってる。

 こいつ、もうすぐ死ぬんだ。いなくなっちゃうんだ。

 寂寥とした思いが胸をよぎる。

 好きな女の願いをかなえてやるのは、それはどんな男でも聞いてやりたい。

 でも、それが自分の望まないことだったら?

 それは、かなえてやるべきことなのか?

 俺は、いったいどうすればいいんだ?

 そんな思いを抱えながら、エルリックは一人悶々としていた。

 船でセントール大陸に行くと、目的の離れ小島のある場所まで行った。

 青竹の月も、半ばである。雨季だ。雨がしとしとと降っている。

「百年に一度って言っても、さすがに月までは覚えてないよなあ。月が合ってなかったら、さすがに咲いてないだろうなあ」

「賭けるしかないだろうな」

 小舟を漕いでその離れ小島まで行くと、岩に囲まれた一面の草原である。

「私が覚えているのは、草原のほぼ中央に背のすごく高い太い茎があって、そこにある花が咲くのよ」

「じゃあそこに行こう」

 しかし野を行ってみても、それらしきものはいっこうに見えてこない。花らしきものも、ない。

「ないな」

「……」

 首を巡らせ、しきりに辺りを探してみたが、やはり見えない。

「どうやらここの辺が中央だな」

 やってきた場所を見てみても、花どころか茎も生えていないのである。

「もうちょっと探してみよう」

 三人は手分けして周辺を探し回った。

 一刻近くも探しただろうか。

「あっ」

 ルイーゼが声を上げた。

「どうした」

「これ……」

 震える指で彼女が差した先には、枯れた白い花が横たわっていた。

「……」

「遅かったか……」

 重苦しい沈黙を雨が叩いた。

「……でも、花びらは持って帰れる。せめて、レイトンさんに見せてあげたい。種もある。 これがあれば、あの温室で育てられるかもしれない」

「そうだな」

「じゃあ、帰ろう」

 そうして、なるべく枯れていない部分を切り取って大切に保管して、船で一路、あの温室のある場所まで戻っていった。

「レイトンさん、戻りました」

 翁はあの家で、相変わらずラベンダーのお茶を飲んでいた。

「ほほう、あったのかね」

「それが……あったにはあったんですが、枯れていました」

「ふむ」

「でも、なるべくいい状態の花びらを持って帰りました。種も、持って帰りました。見てもらおうと思って。これです」

 ルイーゼは包みから花びらと種をレイトン翁に見せた。

「ふーむ」

 翁はしげしげとそれを見ていたが、やがて、

「ついてきたまえ」

 と言って、家を出て温室のなかに入っていった。ヴィズルとエルリックは顔を見合わせて、慌てて彼の後について行った。

 そこは、春夏秋冬のどの温室とも違った、一種異様な、特別な雰囲気を持った場所だった。

「入りたまえ」

 案内されて入っていくと、そこには見上げんばかりの背の高い、太い茎の植物が鎮座していた。それは白い、縦に長い花の蕾を戴いており、際が薄桃色をしていた。

「……あれは……」

「あれは、百年に一度咲くという幻の花だ。儂がセントール大陸の離れ小島に行って採集してきた種で、ここまで育てたものだ」

「なっ……」

「――では」

「百年に一度咲く花を、見たことはない。見たことはないが、それがなんだというのかね。 ここで働く誰かが、いつか儂の意志を受け継いで見られればそれでいい。そう思っている。儂はただ、お前さんたちの誠意が見たかった」

「じゃ、じゃあ」

「ああ。探している毒草、ちゃんと見つけて進ぜよう」

 ああ……

 ルイーゼは安堵のため息とともに、瞳をそっと閉じた。

 よかった。やっと、やっと死ねる。長い長い不死の人生に、安寧を迎えられる。

 呪いが、終焉するのだ。

 微笑みを浮かべるその横顔を見て、エルリックの胸が不穏にざわめいた。

 嬉しそうだな。そうだよな。願いがかなうんだもんな。でも、俺は寂しいよ。なあ、いかないでくれよ。

 その一言が、どうしても言えない。

「どうした。行くぞ」

 ヴィズルに促されて、温室を出る。

 しかし、心はこの曇天の空のように晴れなかった。



「毒草は山に自生している。探すのには根気がいるから、お前さんたちはここで待っておれ」

 と言い置いて、レイトン翁は山に分け入って行ってしまった。

 その後ろ姿を、エルリックは複雑な思いで見送った。

 季節は七番目の月、瓶覗になっている。

 山が緑に溢れている。

 もやもやした思いを胸に秘めたエルリックとは違い、ルイーゼはさっぱりとした顔で毎日を過ごしている。身辺整理はすんでいる。いつでも死ねる準備はできている。

 翁は毎日緑深い山に入っていっては、

「どうもおかしい。自生しているはずの毒草の姿が、いっこうに見えない。昔はあの辺りにあったんだが」

 と首を傾げて帰ってくる。

 そうして毎日を過ごしていた、ある日のことである。

 北の空が、暗い。

「雨が降るのかしら」

「え?」

 エルリックが振り返る。確かに、空が真っ黒だ。

 しかし、なにか様子がおかしい。

 ぶうん、ぶうん、と羽音がするのである。

「――」

 ヴィズルの顔が青くなった。

「あれは雲じゃない」

 ぶうん、ぶうん。

いなごだ」

 飛蝗ひこう――。

 北の空から、空を真っ黒に染めて、何億という蝗の群れが飛来しているのである。

「なんだ?」

「虫だ」

「蝗だぞ」

 街の人々も、それに気づき始めたようである。

「早く家のなかに入れ」

「逃げろ」

 ぶうん、ぶうん。蝗の群れは物凄い速さで近づいてくる。

 蝗は、植物由来のすべてを食い尽くすと言われている。衣類、紙、草本類など、あらゆるものを文字通り食い荒らすのだ。

 それは、田畑の作物も例外ではない。

 蝗の大群は水田の稲から畑の作物まで荒らして回り、干していた洗濯物、山の草木を食べ尽くして飛び去って行った。

 街の人々は空のむこうに去っていく黒い塊を、茫然として見送った。

「大変だ」

 エルリックは小さく呟いた。

「飢饉になるぞ」

 夏の実りが、なくなってしまった。田畑は荒れるどころか、丸裸である。

「備蓄があるから、すぐには来ないだろう。しかし、早急に手を打たないと大変なことになるな」

 山からレイトン翁が下りてきて、

「何事だ」

 と血相を変えている。

「蝗です」

「なんとしたことだ。これは、温室の職員を総動員して国庫の備蓄の種を蒔かねばならんわい。あんたも知恵を貸しておくれ」

「は、はい」

 ルイーゼは丸裸になった山を見上げて、戸惑いがちにこたえた。樹々は無事だか、草のほとんどは食い尽くされている。

 こんなことでは、毒草も無事ではすまないだろう。

 じゃあ……

 暗澹とした気持ちになっていると、エルリックが、

「元気出せよ。まだそうと決まったわけじゃない」

 と肩に手を置いた。顔を上げて彼を見ると、

「ちゃんと探してないんだから、諦めんなって」

 と励ますように言った。

「お嬢さん、ちょっと国王陛下に謁見を願い出てくる。温室の職員と備蓄の種を見ていてくれんかな」

「あ、はい」

「行こうぜ」

「うん」

 今は、そんなことに気を取られている場合ではない。飢饉の危機だ。

 こうして、王国の夜が更けた。

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