第三章 2

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「ここの温室にはなにかの時のために苗が保存してある。すべての水田に行き渡るにはちと数が少ないが、七割くらいにはなるだろう。秋にはなんとか間に合うよ」

「それを聞いて安心しましたよ」

「問題は、作物だ。今から植えにゃならんからな」

「ルイーゼが行っていますよ」

 彼女は今、温室の職員と共に、苗や種の植えつけを手伝っている。

「オクラとルッコラが季節よ。それに、とうもろこし。小松菜もいいわね。いんげんと、苗があるなら大豆も。きゅうりがあるのね。じゃあそれも」

 それから、水菜やセロリ、みつばも植えた。

「キャベツとほうれんそうがあったらいいわね。ブロッコリーも。紫蘇とか、ちゃんと育てたら大木になるわよ。レタスは? にんじんと、大根菜とかどうかしら。あと、春菊とか。今から暑くなっていくから、どんどん育っていくわよ」

 幸い、夏はこれから盛りである。

 作物はいくらでも育つだろう。

 ルイーゼ。

 彼女の声が、ふと響く。

 私の花好きが、人助けになっているのね。嬉しいわ。

 苗を植える手が、止まる。

 そんなことないわ。有り難いって思ってる。あなたの存在は、私の切った張ったの生活に大いに彩りを与えてくれた。感謝してるの。

 ふふ、と彼女がしていたように笑ってみる。すると、不思議と力が湧いた。

 水田に苗が行き渡って、畑にも苗が植わった。

「やれやれ、とんだ災難だったわい」

 すべてが終わって温室の居室でお茶を飲むレイトン翁、それに付き合う三人、誰もが疲れ果てている。

「山も、草が絶えてしまいましたね」

 エルリックが言うと、

「おお、そうだったわい。儂は忘れてはおらんぞ。お嬢さん。例の毒草だがな」

 と翁が身体を起こしたので、ルイーゼは心臓が飛び出るかと思った。

 もう、とっくの昔に諦めていたことであった。

 もしかして。もしかして。

「あれだけ探してもないということは、もうあの種はなくなってしまったのかもしれん。 元々がそんなに強い品種ではないから、数が少なかったのが難点だ。申し訳ないが、ないと思ってほしい」

「……そうですか」

 ――わかっていた。わかってはいたけれど。

「あんなに苦労をかけてしまったのにすまなんだのう」

「いえ、いいんです」

 拳をぐっと握って、なんとかこらえた。

 宿屋に戻ると、一人になりたくて部屋に籠もった。しかし、殺風景な部屋にいると益々気分が滅入る。

 表に出て、新鮮な空気を吸いたかった。

 そっと廊下を行き、食堂を抜けて外に出る。

 街の外に出て歩くと、まだ瓶覗の月だから夜は涼しくて気持ちがいい。蛍があちこちを飛んでいて、風が心地よかった。

 小川の側に腰を下ろし、膝を抱えて座り込んだ。その流れに耳を澄ませていると、どうやら気分も落ち着いてきたようだ。

 ふう、とため息をついて、上を見上げる。

 満天の星空だ。

 ああ、きれいだ。

 私が生きてきた年月なんて、かけらほどでもないくらいの永遠の年月が、ちりばめられている。

 そんなことを考えていたら、たったの五百年で死にたいと思うだなんて馬鹿馬鹿しいとまで思うようになってきた。

 でも、とも思う。

 膝に顔を埋≪うず≫める。

 私は、愛するひとたちと共に歳をとって、一緒に死んでいく人生を送りたい。ふつうに生きて、ふつうに死んでいきたい。愛するひとたちが死んでいくのを、ただ見つめるだけの人生は、もういやだ。

 死にたい。

 そんなことを切に願っていた矢先、背後で気配がして、聞き慣れた声が聞こえてきた。「よう」

 エルリックだった。

「なにしてんだ」

 彼は側までやってくると、なにも言わずにいきなり隣に座った。そして驚いて自分を見るルイーゼにおかまいなしに手元の小石を小川に投げ、天を見上げて星を見、

「すげえ星だな」

 と呟き、そして黙ってしまった。

「なあ」

「……」

「なんでそんなに、死にたいんだ」

「……」

 ぽちゃん、彼が投げた小石が落ちる音だけが、闇夜に響いた。

「俺は、あんたが死んだら寂しいと思う」

「――」

 ルイーゼはその夜明け色の瞳を少しだけ憂えげに細めて、黙ったままでいる。

「俺があんたの側にいるよ」

 ぽちゃん、また小石が投げられた。

「――」

「一生側にいる。ずっと一緒にいるよ。だから、死ぬなよ」

 ぽちゃん、小石がまた落ちる。

「……」

 ルイーゼは黙っている。ぽちゃん、小石がまた、投げられた。しばらくして、ようやく彼女は口を開いた。

「今までの恋人たちも、みんなそう言ったわ」

 エルリックは横にいるルイーゼに目をやった。そして目を瞠った。

 悲しげな、透明な顔をしていた。

「俺が、私が、側にいるって。ずっと一緒にいるって。そして、死んでいったわ」

「――」

 ルイーゼは膝に顔を埋めて、その日々のことを思い出した。

 ルイーゼ、ルイーゼ。

 愛しているよ。俺はここだ。ルイーゼ。

「みんなみんな、逝っちゃった。私はいつも、見送る側。いつもいつも、ただ見てるだけ。 無力よ。なにもできないの。絶対的な力の前で、ただ、手を握ってあげるしかできないの」

 一生側にいるよ――。

 男たちの声がこだまする。

「ルイーゼ……」

「もう、そんなのいやなの。終わりにしたいの。私は人間よ。人間として死にたいの」

「……」

 小川のむこうで、ちらちらと蛍が飛んでいる。

 それに目を馳せながら、エルリックはなにかを考えていた。

 好きな女の願いを、かなえてやりたい。

 たとえそれが、自分の思わざることであっても。

 それが、女の悲願であるのなら。

「……よし」

 彼は顔を上げた。

「じゃあなんとかして、方法を探そう」

 ルイーゼはエルリックの横顔を見た。

「エルリック……」

「あんたが死ねる、その手段を探すんだ。図書館でも賢者でもなんでもいいから、とにかく探して聞き回って、どうにかしてあんたが死ねるようにしよう」

「でも」

「それがあんたの望むことなら、俺はあんたを応援するよ」

 置いていかれるつらさは、俺も知ってる。

 エルリックは立ち上がると、ルイーゼに手を差し伸べた。彼女はエルリックを見上げて、それからその手を見、もう一度彼の顔を見てから、手を取って立ち上がった。

 蛍がふわふわと小川の周りを飛んでいて、かすかに互いの顔が見えた。



「お嬢さん、行くのかね」

 レイトン翁は温室から出てきて、旅立ちの恰好をしたルイーゼに言った。

「はい。目当ての毒草がないとわかった以上は、ここにいる必要はありませんから」

「ここを出て、どこに行くのかね」

「わかりません。とりあえず、大図書館のあるリンゼイ王国へ行こうと思っています。もうあそこの文献は読みつくしたけど、もしかして私が知らない間に新しい本が追加されているかもしれないから」

「ふむ。儂に一つ、心当たりがあるのだがね」

「心当たり?」

「古い植物学の本に、『リーンの海近く 闇に光る苔には毒がある どんな呪いもたちどころに溶かす 闇の苔』という一文があるのだよ」

「……」

「リーンの海、とは、聞いたことがありませんな。どこです」

「古くからの言葉で、リーズル大陸の海を指す。リーズル大陸にあるヒカリゴケが生息する場所は、一つしかない」

「どこだい」

「北の峠だよ」

「では、そこへ行けばあるいは」

「行ってみる価値はあるかもしれん」

「……」

「ルイーゼ、行ってみよう」

 エルリックは彼女をそう励ました。

「でも、そんなの雲を掴むような話だわ」

「なに言ってるんだ」

「リーンの海だなんて、私だって聞いたことがない。そんな昔の言葉で呼ばれていた時代のものが、今もあるとは思えない。あったとしても、まだ毒が聞くかは疑問だわ。そんなことのために、あなたたちを連れ回せない」

「ルイーゼ、どうしたっていうんだ」

 エルリックはルイーゼの肩をつかんで、その夜明け色の瞳を覗き込んだ。

「もう終わりにするんだろ。おしまいにしたいんだろ。だったらそんな泣き言いってちゃだめだ。俺たちは今さら、リーズルくんだりまで行くことにはなんとも思っちゃいない。 それより、あんたが望みをかなえられるかどうかのほうがよっぽど大事なんだ」

「エルリック……」

「初志貫徹、と言うしな」

「おっさんもああ言ってる。だから行こう」

 エルリックは頼もしい笑顔で言うと、ルイーゼを促した。うむ、とヴィズルがうなづき、歩き出す。彼女は戸惑いがちにそれを見て、それからレイトン翁を顧みた。

「行きなさい。幸運を祈っておるよ」

 ルイーゼはそれにこくん、とうなづいて見せて、走って二人を追いかけた。

 ふふ、ルイーゼ。

 彼女の声が風に乗って聞こえてくる。

 花は確かにきれいよ。でも美しいだけじゃない、強さも秘めているの。あなたも同じよ。 あなたは花なの。ひとはみんな、花なのよ。

 それを覚えていて、ルイーゼ。

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