脳漿漬けの彼女と、無力な僕

ざらら

本編

 壁に掛けられた鹿の毛皮を撫でながら、彼が言う。

「鹿のハラコ、と言って判るかな」

――わからない

「ハラコとは胎児のことだ。これは、エゾシカの胎子ハラコの毛皮なんだ」

 床に転がる僕は、斑点模様の毛皮を見上げた。ログ・キャビンのささくれだった丸太壁に似合わぬ、柔らかそうな毛並み。あれを僕に掛けてくれないか。パチパチと燃える薪ストーブは部屋の反対側にあり、ここまで熱が届かない。僕の身は、芯まで冷え切っていた。

を出すことが肝要だ。胎子ハラコの毛皮は繊細だから、とにかく優しく扱う。解体して皮を剥いだら、まずは裏打ち。慎重に毛皮の裏の肉や油をこそぎ落としていく。皮を傷付けないよう、先の丸い皮剝ぎナイフを使う。このようなナイフだ」

 彼は壁に掛けられたナイフを取り、僕の前にかざした。湾曲した幅広の刃が、威圧感を放つ。僕は息を呑んだ。が、彼はすっとナイフを引き、鉈や猟銃など、狩猟用具が並ぶ壁に戻した。どれで僕に止めを刺すのだろう。窓の外は青黒い吹雪で、悲鳴は外に届かない。

「裏打ちが終わったら、皮が破けたり毛が抜けたりしないよう、丁寧に洗う。それからなめし剤に漬けるが、鹿の子模様を綺麗に出すには、なめし剤の選び方も重要だ。クロームなめしやタンニンなめしは聞いたことがあるかな」

――ああ

「クロームだと青く染まるし、タンニンでは茶色くなってしまう。淡い色合いを残すため、明礬ミョウバンなめした。これなら色が付かない。しかし……」

 彼は机上の金盥かなだらいに手を伸ばした。そこには、ごわごわした肌色の紙のようなものがあった。彼がそれを摘み上げて広げると、パリパリと割れて破片が散った。

「人の胎児は、皮膚が薄くて難しいね。もう少し育っていれば良かったかもしれないが」

 そうだ、本当はもっと育って、産まれてくるはずだったんだ。ああ、なんて可哀想な――涙が僕の頬に伝った。

「だから、次はやり方を変えることにしたんだ」

 彼が手を離し、胎児の皮はパサリと金盥かなだらいへ落ちた。それから彼は、壁に飾られた頭蓋骨をコツンと叩いた。巨大な角は、頭蓋骨の何倍もある。エゾシカのオスのようだ。鹿の見分けに自信はないが、彼がこの辺りで獲ったのなら、そうだろう。

脳漿のうしょうなめし、を知っているかな」

――しらない

「動物の脳を用いて皮をなめす、古来からの技法だ。磨り潰した脳味噌を水で伸ばし、生皮を漬け込むと、独特の柔らかさが出せるんだ。日本では廃れてしまったが、北米ネイティブ・アメリカンの間では細々と継承されている」

 机上の金盥の横には、畳まれた乳白色の皮もあった。彼はそれを広げ、ばさりと僕の頭に被せた。視界がホワイト・アウトした。吹雪と違うのは、暖かさ。それに、革は絹のように滑らかな肌触りだった。

「すでにエゾシカで実験して、いい結果を得られた」

 鹿革が僕の頭から取り除かれ、視界が戻った。暖かさが名残惜しい。しかし、僕はこの目で見なければならない。これから、見せられるであろうものを。

 彼は革を畳んで仕舞うと、棚の奥から今度は人の頭蓋骨を出し、机に置いた。僕にはそれが、誰の頭蓋骨だか分かっていた。ぽろぽろと涙がこぼれ、僕は嗚咽おえつした。

「医学的には、脳漿のうしょうとは頭蓋骨トウガイコツの中を満たす液を指し、脳味噌とは異なる。しかし慣用的に、今説明したような技法を脳漿のうしょうなめしと呼ぶ……」

 ぼそぼそと呟きながら、彼は部屋の隅の一斗缶に歩み寄ると、両手にゴム手袋を着けて鍋に突っ込んだ。びちゃ、どぷん、重たい水音が室内に反響する。ログ・キャビンは内壁のないワンルームで、コンサート・ホールのように音が増幅される。

「色の着かないなめしは、明礬ミョウバンの他に、菜種油などの油脂で鞣す方法がある。脳漿のうしょうなめしも、脳に多く含まれる脂質により、油脂なめしに近い効果があるのではないかと言われている」

 ざぱ。一斗缶から、ぬめぬめと濡れた生皮が引き上げられた。胸元の黒子には見覚えがある。間違いなく、彼女だった。涙が止まらない。鼻を啜ると、酸化した油と、青草の香りの入り混じる匂いが鼻についた。まったく嗅いだことのない匂いに、僕は困惑した。

「伝統的には発酵させた脳を使うが、衛生面の懸念がある。そのため、新鮮な脳にエゾマツの精油を加えた。皮鞣しや皮革の手入れには松脂まつやにを使うことがあり、そこから着想を得た」

 彼女の中央を、彼の指がなぞる。

「皮の剥ぎ方も工夫した。獣は通常、胸の正中に切れ目を入れ、背中の皮が綺麗に取れるようにする。しかし、今回は人間らしさを出すため、背中から切った。女性らしい膨らみもよく分かる。うん。やはり、お腹が大きくなる前にやって良かった」

――ぼくも そうなるのかな

いや。彼女を堕落させた君は、けして許せないが……」

 だぷん。彼が手を離し、彼女は缶の中へ落下した。

 彼は壁から肉切り包丁を取って僕へ近付き、切っ先を僕の眼前に突き付けた。僕は肩を強張らせた。彼は包丁の向きを変え、柄の先で僕の肩を小突いた。まだ癒えない傷から血が染み出し、包帯が赤く染まっていく。

「今の無力な君は、なんだかペットのようだ。もう少し飼っていても、いいかもしれない」

 床に転がってうめく僕は服を着ておらず、虚しい肩と鼠径部に、包帯が巻かれているのみだった。僕に、四肢はなかった。

――や め

 僕の口から鉛筆がもぎ取られ、文字は途絶えた。僕は「返せ」と言った――つもりだった。しかし潰れた喉からは、ゼェゼェと風音が鳴るだけだった。絞り出したその音も、外で荒れ狂う雪嵐の轟音に、ガタガタと窓枠が揺れる音に、掻き消された気がした。

「ペットは、喋らないから可愛いんだ」

 彼は床に置かれた紙を靴で踏みにじった。蚯蚓ミミズがのたくったような文字たちが、必死に綴った言葉たちが、引き裂かれていく。僕は声にならない悲鳴を上げた。彼はそんな僕の様子もお構いなしに、乱暴に僕を起こすと壁にもたれて座らせた。

「それから……お行儀の悪いペットは、去勢した方が大人しくなるかもしれないな」

 ひゅっ。肉切り包丁が、僕に向けて振り降ろされた。

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