脳漿漬けの彼女と、無力な僕
ざらら
本編
壁に掛けられた鹿の毛皮を撫でながら、彼が言う。
「鹿のハラコ、と言って判るかな」
――わからない
「ハラコとは胎児のことだ。これは、エゾシカの
床に転がる僕は、斑点模様の毛皮を見上げた。ログ・キャビンのささくれだった丸太壁に似合わぬ、柔らかそうな毛並み。あれを僕に掛けてくれないか。パチパチと燃える薪ストーブは部屋の反対側にあり、ここまで熱が届かない。僕の身は、芯まで冷え切っていた。
「らしさを出すことが肝要だ。
彼は壁に掛けられたナイフを取り、僕の前に
「裏打ちが終わったら、皮が破けたり毛が抜けたりしないよう、丁寧に洗う。それから
――ああ
「クロームだと青く染まるし、タンニンでは茶色くなってしまう。淡い色合いを残すため、
彼は机上の
「人の胎児は、皮膚が薄くて難しいね。もう少し育っていれば良かったかもしれないが」
そうだ、本当はもっと育って、産まれてくるはずだったんだ。ああ、なんて可哀想な――涙が僕の頬に伝った。
「だから、次はやり方を変えることにしたんだ」
彼が手を離し、胎児の皮はパサリと
「
――しらない
「動物の脳を用いて皮を
机上の金盥の横には、畳まれた乳白色の皮もあった。彼はそれを広げ、ばさりと僕の頭に被せた。視界がホワイト・アウトした。吹雪と違うのは、暖かさ。それに、革は絹のように滑らかな肌触りだった。
「すでにエゾシカで実験して、いい結果を得られた」
鹿革が僕の頭から取り除かれ、視界が戻った。暖かさが名残惜しい。しかし、僕はこの目で見なければならない。これから、見せられるであろうものを。
彼は革を畳んで仕舞うと、棚の奥から今度は人の頭蓋骨を出し、机に置いた。僕にはそれが、誰の頭蓋骨だか分かっていた。ぽろぽろと涙が
「医学的には、
ぼそぼそと呟きながら、彼は部屋の隅の一斗缶に歩み寄ると、両手にゴム手袋を着けて鍋に突っ込んだ。びちゃ、どぷん、重たい水音が室内に反響する。ログ・キャビンは内壁のないワンルームで、コンサート・ホールのように音が増幅される。
「色の着かない
ざぱ。一斗缶から、ぬめぬめと濡れた生皮が引き上げられた。胸元の黒子には見覚えがある。間違いなく、彼女だった。涙が止まらない。鼻を啜ると、酸化した油と、青草の香りの入り混じる匂いが鼻についた。まったく嗅いだことのない匂いに、僕は困惑した。
「伝統的には発酵させた脳を使うが、衛生面の懸念がある。そのため、新鮮な脳にエゾマツの精油を加えた。皮鞣しや皮革の手入れには
彼女の中央を、彼の指がなぞる。
「皮の剥ぎ方も工夫した。獣は通常、胸の正中に切れ目を入れ、背中の皮が綺麗に取れるようにする。しかし、今回は人間らしさを出すため、背中から切った。女性らしい膨らみもよく分かる。うん。やはり、お腹が大きくなる前にやって良かった」
――ぼくも そうなるのかな
「
だぷん。彼が手を離し、彼女は缶の中へ落下した。
彼は壁から肉切り包丁を取って僕へ近付き、切っ先を僕の眼前に突き付けた。僕は肩を強張らせた。彼は包丁の向きを変え、柄の先で僕の肩を小突いた。まだ癒えない傷から血が染み出し、包帯が赤く染まっていく。
「今の無力な君は、なんだかペットのようだ。もう少し飼っていても、いいかもしれない」
床に転がって
――や め
僕の口から鉛筆がもぎ取られ、文字は途絶えた。僕は「返せ」と言った――つもりだった。しかし潰れた喉からは、ゼェゼェと風音が鳴るだけだった。絞り出したその音も、外で荒れ狂う雪嵐の轟音に、ガタガタと窓枠が揺れる音に、掻き消された気がした。
「ペットは、喋らないから可愛いんだ」
彼は床に置かれた紙を靴で踏みにじった。
「それから……お行儀の悪いペットは、去勢した方が大人しくなるかもしれないな」
ひゅっ。肉切り包丁が、僕に向けて振り降ろされた。
脳漿漬けの彼女と、無力な僕 ざらら @ZALALA
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