6. 地図
王の葬儀に伴う祭日は続いていた。広場の市はだんだんに人が少なくなり、荷車の数も減ってきた。
エンキサルは、行列での出来事については、家族とは何も話さなかった。しかし、父と母は少し嬉しそうな顔をしているようだ。ナジミットが、これは自分の婿だと兵士に言った言葉を、噂で聞いたからではないか、とエンキサルは思った。
そして、祭日の七日目、最後の日の昼過ぎ。パン焼きの手伝いに手を動かしながら、エンキサルは考えつづける。
ニンガルはどこから連れてこられたのだろうか。東の方だろうか。家族で連れられてきて、別々に売られるものもいる。ニンガルの家族はどうしたのだろうか、殺されたのだろうか。
ニンガルの言葉を思い出した。この町に来て、来世があることを知った。
奴隷は、異国の者たち、借金で身分を落とした者たち、様々だ。逃げ出して死罪になる奴隷もいる。王宮の奴隷は、奴隷の中でも身分は高い。しかし、彼女の顔の、殴られたあざも思い出す。彼女が逃げおおせていれば、今はなにをしていただろう。
連休が終われば、また学校が始まる。先の課題に進んでゆく学校の同級生たち。女で書記になるものもいる。書記になれなかったら、どうなるのだろうか。エンキサルは、兵士になる自分は想像できなかった。父は失望するだろうか。ナジミットになんと説明したらいいだろうか。
いつかまた、学校の帰りに、西の町でニンガルに会いたいと思った。もうそんなことは起こらないだろうことは、エンキサルには分かっていた。彼はそれ以上のことは考えられなかった、
旅人の言葉を思い出した。学校の図書館に、地図はないかな。古いものでもいい、この土地について書いたものがいい。お礼はするよ。旅人は冗談めかして言ったが、どこかに探るような声の響きがあった。
パンの作業が休憩になると、エンキサルは肩掛けの袋を手に取った。学校に行くときに使っている袋だ。家を出て、学校の方角に向かう。
学校は東の町の、新しい区画にある。午後の、通りから人通りが少なくなった時刻だった。袋を肩からさげたエンキサルは学校に入り、図書館の建物に向かった。学校には、今日はほとんど人影はなかった。
図書館は、町の書記ならば知っている。字を読み書きできる、書記しか立ち入らないし、その価値は書記にしかわからない。エンキサルが図書館に入ってゆくと、入り口近で書板を読んでいた、白髪の書記が顔をあげた。エンキサルがさげた袋で学校の生徒だと認識したのか、軽く頷く。誇らしくも、また恥ずかしい気持ちにもなる。
今日も、同級生のグループはいない。エンキサルを仲間はずれにして、彼らだけの話をしている同級生たち。しばしば、エンキサルは図書館の暗がりで一人になって彼らを避けた。
図書館は広く、いくつかの区画に分かれている。書板が積まれた棚が、薄暗い建物の奥まで続いている。
静かだ。エンキサルは、普段は使われていない棚のある区画に入っていった。奥の方の棚、普段はめったに使われない棚に、何代も前の書板やパピルスが詰め込まれている。乱雑に積み重ねられた書板。巻かれたパピルスの束。これらは、日々の計算には使われていない。他の区画の書物は、きちんと整理されている。特に、測量の実務や、学校の課題に使われる書板は頻繁に持ち出され、書き写されている。でも、この棚の書板は、何年もだれの手にも触れないまま、ただそこにある。
エンキサルは、書板を一枚取り上げた。どうやら東の町ができるより前に、そのときの王が作らせたものらしい。東の町と西の町。西の町の方が古く、最初にできたのだということは、以前どこかで聞いて知っていた。今では東の町のほうが華やかで、活気がある。
書板には、町の名前が並んでいるようだが、そのいくつかしかエンキサルは知らない。昔の町の名前、神の名前、昔の数字、昔の方角、すべて昔の事柄。なんの役も立たなそうに見えるが、異国人の目にはどうだろうか。彼らには古典語など分かるはずもないのに、とエンキサルは思った。しかし、これでは重すぎる。脇に積まれていたパピルスの束から、巻物を三本抜き取った。持ち運びのために、書板と同じ内容か、内容をまとめたパピルスがいくつも作られている。
誰か来て、見とがめるかもしれない。我に返って、エンキサルはあわてて、もう中身を改めることもせずに、パピルスを袋に押し込んだ。袋を肩にかけて、奥の区画から何事もないように歩みだす。図書館の入り口には、もうだれも居なくなっていた。
動悸がはげしい。エンキサルは周囲をうかがいながら学校の敷地を出た。東の町を急いで横切り、西の町の方角へ向かった。二つの町の堺の、橋を渡る。東の町より小さい西の町の中を、どこへ行くのでもなくしばらく歩き回り、最後に広場に入った。
いつもの宿屋の前。やはり、ニンガルはいない。ビールを飲みながら黒い書板になにか書いていた、あの旅人の前に立った。旅人は顔を上げた。エンキサルの様子に、旅人はエンキサルを促して、彼が借りているらしい二階の一部屋に導いた。
床に置かれた荷物。几帳面に整理されている。日陰に置かれている鳩の籠。
カバンからパピルス出して見せると、旅人の目が丸くなる。扱い方は良く知っている様子で、パピルスの中身を手早く確認する。旅人がため息をつく。期待外れなのか?エンキサルは、ほっとした気分になった。
「これでどうかな?」
旅人が、荷物からだした、小さいがずっしりと重い革袋をエンキサルの手に握らせた。袋の口を開けて覗き込むと、銀の鈍い光。エンキサルが手にしたこともない銀の大粒が何枚も入っている。渡された袋を片手では持ちきれず、両手で持ち直す。エンキサルは黙って、肩に下げたカバンの口に革袋を押し込んだ。銀の重さで、袋の下げひもが、ふたたび肩に食い込んだ。
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