スイッチヒーロー

槙野 光

スイッチヒーロー

 後一分。洗濯機の蓋を開けようとし、はたと手を止めた。


 ――チャイルドロック。


 昔は無かった機能が、今は誇った顔をしてそこにいる。


 母の腕に抱かれていた赤児が自分の足で立ち大人になっていくように、人も物も変わっていくのだと最近ちょっとしたことで感慨に耽るようになった。


「俺も、歳を取ったってことか……?」


 首を捻りながら口を突いて出た呟きに、「ほら、また独り言」とくすくすと笑う美歩みほの顔が脳裡を過ぎる。


 洗濯機は止まらない。ぐいんぐいんと最後の力を振り絞るように大きく回ると力強い声を上げ、ぴたっと動きを止める。その潔さが羨ましくも少し格好良く見え、その思考回路に美歩の気配を感じて思わず笑みが溢れた。


 美歩は元々、会社の同僚だった。


 部署も階も違う。顔と名前も一致しない中で交わすたまの業務連絡。受話器越しに鼓膜を揺らす声は密かに咲く野花のようで、大輪の薔薇のような華やかさは決してなかった。それでも確かな力強さを湛えたその声は胸の奥にするりと入り込み、彼女の声を浴びる度、静かに育っていった。


 蕾が付いたのは、会社の忘年会だ。


 赤らんだ顔が蔓延る中、酒に弱い俺は隅に避難し平皿に散らばった枝豆をちまちまと摘んでいた。

 

 入り口付近に座っていた同期の金田かなだは赤べこのように頭を上げ下げしながら、説教を通り越した部長の英雄伝に耳を傾けていた。


 部長の話、長いんだよな……。


 犠牲になった金田に憐憫を向け、よそ見をしながら枝豆に手を伸ばす。すると突然、暖かくて柔い感触が指先に伝った。


「あっすみません」


 咄嗟に手を引っ込め顔を上げると、卓の向こう岸に黒縁眼鏡を掛けた素朴な風貌の女性がいて、


「いえ、こちらこそ」


 一拍置いて鼓膜を揺らした確かな声に、息を呑んだ。


 肩口で切り揃えた艶やかな黒髪。

 透明レンズを通して見える濃褐色の澄んだ瞳。


 耳を奪われて目を奪われて。そして次に鼻と口を奪われ脳を奪われて、最後にはきっと心臓を奪われる。


 そうか……。心って、全身で出来ているんだ。

 

 俺は多分、間抜け面をしていた。けれど彼女は俺を馬鹿にすることはなかった。それどころか、ただ惚けただけの俺を体調が悪いんじゃないかと心配し、無礼講なんて生まれやしない会社の歯車から俺の腕を引っ張り上げてくれた。


「すみません、この人気分が悪いみたいなんで」


 よく通る声に、堂々とした佇まい。立ち上がった彼女のレンズの縁が眩く光り、気が付けば目を細めていた。


 連絡先を訊いたのはそれから四か月後のお花見シーズンで、美歩は小さく笑って、「良いよ」と滑らかな手つきでスマホを差し出した。


 付き合ってみると、彼女は野花でも薔薇でもなかった。きっぱりとした物言いをする大木のような女性で、ちょっとしたことで悄気る俺をからからと笑い飛ばし、「気にしない気にしない。明日頑張れば良いじゃない」と洗濯機のスイッチを入れる。多分美歩に慰めるなんて意識はない。それが彼女の当たり前で、そんな彼女の声を浴びる度、俺の小さな心は少しずつ大きくなっていった。

 

 一緒に暮らし始めてしばらくしてから籍を入れ、その一年後、美歩の妊娠が発覚した。出産ぎりぎりまで仕事をする彼女を心配しすぎて、当の本人よりも俺の方が食えなくなった。そんな俺を見て美歩は「ばかだねえ、優次ゆうじくんは」と楽しげに笑いながら、堂々とした手つきで洗濯機の投入口に液体洗剤を流し入れていた。


 母親になってからも、美歩は変わらなかった。時折眠りこけることもあるけれど、常にきっぱりさっぱりとしていて朗らかな笑顔が絶えることはない。

 

「そういえば洗濯機ってさ、昔はチャイルドロックなかったよね」


 三歳になる優太ゆうたを胸の前で抱きながら、美歩が言う。


「子どもが中に入って怪我をしないように、だったっけ?」


 俺がうろ覚えの知識を披露すると美歩は「それって、ヒーローみたいだね」と言って、穏やかな眼差しを優太に向けた。


「誰かを守ることを覚えた洗濯機はさ、いつの間にかヒーローになったんだね。変身する洗濯機ってなんか格好良いよね」


 彼女の声はやっぱり堂々としていて、どこにでもあるただの洗濯機すらヒーローに変身させてしまう。


「なあ……。俺も、ヒーローになれるかな?」


 そう溢したら、美歩はからからと笑った。


「大丈夫でしょ」


 俺は、洗濯機やスーパーマンみたいに皆を守ることはできない。でも、美歩の言葉が俺をヒーローにしてくれる。


 大切な人を守るヒーローになら、俺にだってなれるんだ。


 洗濯機の蓋を開けると肯定するように軽やかな音が立ち、続いて玄関の扉が開く音がした。

 近づいてくるふたり分の足音に洗濯機の蓋を開け放したまま、俺は確かな足取りで玄関の方へと向かう。


「優次くん、ただいまー!」

「ぱぱ、ただいまー!」


 太陽のような美歩と優太の声に、俺の心にスイッチが入る。


「――おかえり。美歩、優太」


 俺には、誰かに誇れるような機能は付いていない。それでもその一歩はきっと、ヒーローの始まりだ。

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スイッチヒーロー 槙野 光 @makino_hikari

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