第3羽
雨が少し弱くなったのを伺って僕は外に飛び出した。と言ってもそこまで全力疾走かのように『飛び出した』表現に近しくない、いつも通りのスピードで駅まで歩く。彼女もついてきた。天使は微笑んでいる。
視界が駅を捉える頃、再び雨は強くなった。生憎全身水浸しであり、タバコの箱も濡れている。仲間が無事であることを祈ることしかできない。しかし、駅に到着した以上は僕は最寄りの駅まで移動できると言うことだ。
僕の後を邪魔臭く付いてくる女は優雅に傘を刺し、まるで野良猫のような僕に声をかけてくる。何の嫌味なのだか。
「大丈夫?びしょ濡れじゃん」
ほんの数百メートルの間で僕に降りかかった雨は、水遊びをしたかのように僕を濡らしている。惨めだ。
「はは、してやられた感じがするな...」
笑った。僕でと自覚するくらいに、僕は笑った。受動的に笑ったのかそれとも僕が僕を笑わせたのかわからないが、とにかく僕の言葉は笑っていた。
涙で雨がわからないように、表情ですらも雨が誤魔化してくれるような気がした。
せっかく僕が笑ったと言うのに、この女は黙ったままだ。ふと天使の方にも視線をやるが、天使も微笑んだままだった。もう少し喜色満面に近づいてもいいだろうに、この世界は雨よりも僕に冷たいらしい。
彼女は黙っていた。と言うよりは、何かを喋ろうとしているように見える。この女は僕の予想外の発言ばかり、僕を落胆させてくれることばかりを言う。もう期待などはしていないのだ落胆することもないだろうが、雨でテンションのイかれた僕にとってはいまならどんな罵詈雑言も身分不相応な誉にさえも笑って返せるような気がしていた。
「あのさ、お前高校の時から引っ越してないんだよね」
「うん、片道1時間くらいかな」
彼女の言わんとしていることは理解できた。もう全てがどうでも良くなったと言うか、だから笑ってるのか知らないが僕は全ての状況において予想外などと言うことはない気がしている。どんな状況にも発言にも対応できる。今の場で雷に打たれたとても僕は後悔すら顔に出さず笑って死ねる。
「1時間も濡れたままだったら、風邪引くでしょ?」
僕は彼女の家に行くことになった。
⬛︎⬛︎
彼女の家は電車で10分程度揺られた駅の近くにあった。僕と同じアパートであっても、僕のような貧相なアパートとは同一に括ることなどできない建物だった。見るからに新しい。
道中、僕は花壇見つけた。あの公園にもあったようであり、素朴さで言えば僕の家の前にあったあの植木鉢程度の...。
——植木鉢。
僕の数ある強迫観念のうち、最新のものに違いない。折り畳み傘で相合傘とは言え、僕は彼女の少し後ろを歩くような形だった。彼女は最初の方こそ気にしていたが、突っ込むことも面倒くさくなったのか僕に声はかけてこない。
好都合だった。
なるべくバレないように花壇に踏み込む。そして、植え込まれている綺麗な花を雑に、それでも細胞一つ一つを破壊して行くように踏み荒らして行く。天使は笑っている。
途端に足取りの遅くなった僕に気づいた彼女は僕の方を振り向く。それを察して僕は素早く花壇から降りる。生憎、彼女が僕の方を向く頃には花壇の花は全て潰れていた頃合いだった。
「どうしたの?」
「なんでもないよ」
僕は再び笑った。
この時、僕にとって最新の強迫観念である笑顔というものの便利さに気づいた。
なんて便利なものなのだろう。
なんて勝手なものなのだろう。
なんて自由なものなのだろう。
なんて狡猾なものなのだろう。
愛想笑いという言葉がどうして処世術として広まっているのか僕はようやく気づくことができた瞬間だった。が、この女はかつてと同じように僕を詰問するのだった。
「なんだよ」
僕をじっと見つめる彼女。使い慣れていない笑顔を多用したことで、流石に彼女としても違和感を感じたのだろうか。
「愛想笑いって、わかる人にはわかるからね」
なんて嫌な女なんだろう。それと同時に僕はなんて嫌な人間なんだろう、と思った。この女を嫌だと思うのは僕が嫌な性格をしているからに違いない。
それでも僕は笑顔を取り繕って、その利便性に甘えて笑うのだった。
彼女は何も言わない。
天使は何も言わずに笑っている。
僕は彼女の家に上がる。外装同様、部屋の中も綺麗で新しく、そんな清潔さが僕にとっては何よりも不快で仕方なかった。綺麗事のように僕の体にまとわりついたから不快感の正体を漫然とさせたまま、それでも僕は黙って部屋に上がる。こういうことを敷居が高いとでもいうのだろう、僕は何だか居た堪れない気持ちになった。
こういう時に限って彼女は僕に言葉を投げかけてこないのだった。触れてほしくないところには触れ、そして触れて欲しいところには触れない。原因解明して欲しいところには一切の談判すらもしないこの女は、部分的にではあるが天使に似ていた。天使は部屋の真ん中で笑っている。
「上がってよ!」
自信ありげに部屋へと僕を迎え入れる彼女はどこか僕との違いを醸し出していた。その違いがやはり僕にとっては不快で仕方なかったが、ここで帰るというのも彼女の気を悪くしてしまうような気もしたので僕は黙って上がる。この時笑っていたかは知らない。
幸い、この部屋には花瓶や植木鉢のようなものはない。僕のトラウマになるようなものがない以上は、きっと彼女の気を損ねてしまうような言動は取らないだろうと思う。好きでやっている異常行動ではないので、僕はこの状況を『幸い』と受け取るのだった。
「あ、違うか」
違う?何が違うというのだろうか。この状況で何かが違うというというのであれば、それは多分僕が君の部屋にいるということに違いないのだろう。
「やっぱ、そうだよね」
「?」
そう言って僕は踵を返す。部屋の入り口前にいた僕は、そうして玄関の方を正面に歩き出す。
玄関の前まで行き、そして靴を履こうとした時に彼女は話し出す。やはり、僕が快く行動しようとしている時に限って彼女はそれを制限しようとするのだった。僕にとっては、それがまた不快だった。
「お風呂場通り過ぎちゃったよ!?」
違う、だろ...。
ああ、そういうことか。彼女が違うと言っていたのはずぶ濡れの僕を部屋にあげるということが違うということで、この際正しいこととは僕をお風呂場へとぶち込むことの他になかった。
言われるがまま僕は浴室へと向かう。
「下着に関しては洗っちゃうから、ゆっくり入ってね。服はちょっと大きめなジャージあるから、多分大丈夫」
彼女の声がドアを隔ててくぐもった声として鼓膜に到達する。
ジャージ?今ジャージと言ったのか?僕の衣服も洗濯して、傘の一つでも貸してくれれば僕は帰れるというのに彼女にその気はないのか?まさか、もしかしたら、僕はこの女の家で一泊することになるかもしれない。
尤も、僕をサボり魔であると認識している彼女にとっては僕に一つたりとも貸しているものというのを作りたくないのかもしれない。サボり魔を差し置いても僕に何かを貸すということに抵抗があるのかもしれない。
いや、そしたら僕にジャージなど貸すのか?とも思ったが、多分自分の目につくところで貸す分には問題がないとでも認識しているのだろう。
僕はギリギリまで張った浴槽に体を投げる。このまま水になり、下水となってどこか遠くへ、とにかく自分と外界を隔てる壁が亡くなって仕舞えばいいと思った。僕はずっとそうだ。他人と自分、他人でなくとも自分とそれ以外のものとの間に分厚い壁を設ける。それは精神的なものであり物理的な効力は持ち合わせていないにしても、大抵の人はその精神的な壁を見ては僕から離れて行くのだった。
それでいい。他人とのコミュニケーションを求めていない僕にとっては、誰と関わるわけでもない日常が平穏そのものである。誰かと関わると何かしらの問題が発生する。僕は一人で生きていきたいのだ。あの天使のように、誰か自分以外に依存してしまうという状況は最悪であり、僕としては今数枚の物理的障壁の先にいる彼女に依存してしまう可能性を潰しておきたかった。
彼女が僕に傘を貸してくれないように、僕は他人を信用できない。その他人とは自分以外の全てであり、例えば身内だろうと友達だろうと顔も知らない誰かだろうと、共通して言えることである。誰か一人が僕のように絶望的にものをみて、夢現に生活しているのであれば僕はそいつのことを信用できないだろう。そうともなれば、恐らく僕は自分のことも信用しきれていない。
思えばずっとそうだった。そうだったし、今もそうだ。僕は自分の見ている世界が正しいのか間違っているのか見分けがつかないし、判別方法がわからない。水槽の脳のように、僕の見ている世界は果たして現実だと断言できるだろうか?僕の見ている全てのものは僕がそう捉えているだけで、他人が僕と同じように認識しているかなどということは絶対的に証明できないのだ。
最たる証拠はあの天使だ。僕にはあの天使が見えている。しかし、現に彼女の行動を見るに一度とて天使について触れたことはない。外で触れなくとも家の中にいる彼女について一切触れないというのは、おそらく天使は僕の作り出している幻影だからだ。あの瀟洒で羽のような重さをしていた天使は、存在ですらも羽のようでそこに存在しているのかしていないのかなどは明確に判断できない。全てが曖昧だ。
この浴槽の表面に所々付着している泡沫のように、全てはそういうものなのかもしれない。確かにそこに存在はしているが一瞬で消えてしまう。消えてしまったらそこにその泡がいたことなどはどう足掻いても、どのように説得しても、それを見ていない人にとっては存在しないと同義なのだ。僕が見ているのはその泡が存在している瞬間だけであり、全てのものはその泡を通して見えている。誰かが僕の視点で世界を覗く時、その濁った泡はどこかに消えてしまっているので、誰も僕の見えてる世界を認識できない。
悲しいことではない気がする。僕はいつだって他人と同一視されるということを嫌ってきた。だから、僕一人の視点というのは心地のいいものだ、ろう?そのはずなのに、僕は今不安で仕方ない。今僕の見えている世界を他人に見せてやることができたらどれだけ楽だろうかと思う。この視点を共有することさえできれば、僕の観測しているものは全てが現実だと証明できるだろう。
全ては憶測だ。僕はどんなことでも『だろう』と、断言することは叶わない。どれだけ僕にとって正しいことでも他人にとっては違うかもしれない。例え他人に見えている世界を綴らせてそれが僕と同じ世界観だとしても、その文章が湾曲して歪な形をしてしまっている可能性は否定できないだろう。つまりは、僕の目がその文章を幻覚を通さずに見せてくれるという保証は、やはりどこにもないということだ。僕は自分一人ですら信じることができない。
自分一人を思いやることのできない人間が他人に優しくすることができないように、僕は僕自身の見ている世界ですらも信用できないのだから、他人の言うことを信用できるはずがない。全て憶測で物語り、そしてそれを信用しようとする姿勢、現実的にはそれを幻覚だと信じることしか僕のできることはない。
僕が見る世界は、全て幻覚のような気がしてきた....。
⬛︎⬛︎
僕が風呂から上がると、そこには彼女と天使がいた。無論、天使は部屋の隅っこで僕を見つめながら笑っているだけなのだが。
「適当に作ったものだけどサ...、食べっていってよ」
彼女は笑う。
あぁ、こういう表情が本当の笑顔なのか。僕のように、笑顔に合理的理由だとか自身にとっての利益とか、そういうものを考えて取り繕うものではないのだろうな。彼女が笑っているのは本心からだという証明などどこにもないが、これが幻覚だとしたらそう疑う必要もなくなる。
全ては僕の思い通りだ。
予想通りだ。
「ありがとう」
僕も笑った。
彼女のように自然な笑みができていただろうか。人を不快にさせないための笑顔、そう考えての笑顔なのでそこまで綺麗にはできていないにしても、僕の思惑通りに相手を不快にさせない笑顔だっただろうか。いくら幻覚だとはいえ、やはり自分の内面に関しては誤魔化しが効かない。変わらず疑わざるを得ない。
タイミングは完璧、彼女は何も指摘しない。綺麗にできてたということでいいだろう。僕はそれだけでお腹がいっぱいだった。
食事をしている僕に飛び込んできたのは、胸が痛むようなニュースでも天使の微笑みでもなく
「酒...?」
確かに彼女の奮った料理は肴に近しいものだった。そこに違和感を感じることもなく、まぁ大学生の自炊ともなればこれくらいのものだろうと思っていたが、それが酒のつまみともなれば僕の見る目は変わってくる。
「お酒嫌いだった?あ、飲んだことないなんて言わないでしょうね」
「飲んだことはあるけど....、僕は未成年だろ」
この女、タバコは抑止するのに酒は勧めてくるのか。ことタバコに関しては、彼女が吸う名目で未成年と言ってるのだろうが。
「大学生なんだから、別にいいでしょー?」
彼女は酔っているのか。女の人でもザルの人はいるし、酔いに弱くとも顔に出ない人もいる。彼女の普段のテンションよりも少し高いということを鑑みれば酔っているのだろうが、正直そこまで普段との差は存在しない。
「硬いこと言うなよ」
そう言って僕の向かいに座っていた彼女は天使の正面を通過して僕の横へと座る。卓上の缶チューハイをこじ開け、そうして僕の口元へと運ぶ。僕は嫌な顔をしたが、そう言う時のための笑顔だと言うことでやろうとした。
しかし、こういうところでの笑顔は相手に気を遣わせてしまうのではないか。そんな疑念は一瞬にして消し去り、全ては幻だと言う現実に僕は身を委ねることにした。
唇の端から数滴酒をこぼしながらも僕は勧められるがまま飲む。彼女は無理に飲ませようとはせず、適度な量のまま缶を机に戻した。
「意外と飲めるんだねえ」
「...」
適度な量というのは僕からの視点であり、彼女は、彼女にとっては過剰な量を飲ませていたのだろうか。
酒は嗜む程度、そもそもあまり飲まない僕にしてみれば久しぶりな酒の苦味は僕の気分を害してしまうような、夢から覚めてしまうような気さえした。
夢。
全ては幻。
途端に僕の中にささやかに芽生えていた筈の嗜虐心が花を咲かせた。常時笑っているこの女の笑顔を破壊してやるにはどうしたらいいか。あの少女の時のように首でも締めてやればいいのか。
「...」
僕は黙ったまま彼女の肩を掴む。そうしてあの時同様、強引に彼女を倒し込む。せめてもの気遣いとして、床にではなく側にあったベットの上に彼女を押し倒した。とは言っても、半身はベットの外に垂れているわけだ。
強引に倒している時点で僕のただでさえ足りない『気遣い』というものが有効なのか分からなかったが、ここは夢だ。好き勝手やればいい。
天使は笑っている。
「...!」
彼女の赤面は変わらない。ただ、いとも簡単に笑顔を崩せることができた。簡単な女だ。
僕は、天使にしたことをやろうとした。体を支えていた両手を彼女の首元に運んだ。が、あの時といえば僕は彼女の顔を歪めることを目的としてやっていたことであり、今の状況ではそんな笑顔は天使以外のどこにも転がっていない。首を絞めるような形をしていたものの、僕は力を込められず現状に困惑していた。
彼女の赤面なのか、至近距離に女性の顔があってなのか、理由は不明だが僕は官能的になっていた。その理由のない劣情の発生により、僕は無理に彼女の唇に僕の唇を重ねる。
舌と舌が絡み、次第に舌同士になっていく。この時、僕は自分と外界を隔てる壁を感じずにいた。幻覚の中にいるからなのか、そういう現実特有の鬱陶しい存在は脳内から除外され、ただ他人との関わりによって分泌された脳汁だけが僕の体を駆け巡っていた。
彼女が僕の服を、正確には彼女のジャージを強く握っていたのに気づいた。
はっとして唇を離す。彼女の崩れた、一種歪んだ表情に僕の官能的な感情は大きく揺れた。
「...はぁ。はぁ........ぁ...」
苦しそうに呼吸をする彼女。舌が触れ合っていた時間はそこまで長くなかった筈だ。
「キスの時に首締めんな!」
そう言って彼女は一層赤面した。
なるほど、僕はキスをした時知らず知らずに体重を預けてしまっていたのか。指先にまで力を入れずとも彼女の首には僕の体重分の圧力がかかる。だから、彼女は僕とは違い苦しそうに息をしているのか。
その先は、僕の色欲と幻想の中にいる精神に身を任せた。彼女の下腹部に圧力をかけ、僕は一層、より一層、夢現気分を味わっていた。
天使は笑っていた。
⬛︎⬛︎
後朝。
彼女の寝顔がその日の第一情報になった。
僕は彼女を起こさぬようにベットから起き上がり、天使の微笑みのある玄関へと足を運ぶ。
用があるのは玄関ではない。その手前になるキッチンへと向かい。あの日同じ、陽が斜めになっている時間帯。僕は包丁を取り出す。
幻覚が包丁に対する恐怖を感じさせないのかもしれない。何の抵抗もなく僕は包丁の柄を持つ。そうして刃先を、ほんの少しだけ指に押し当てる。当然、血が出る。
痛みが僕の幻覚を目覚めさせる。起きても覚めなかった夢は、僕のトラウマと共に目覚めた。
途端に怖くなって、天使も押しのけ、僕は家の外へと飛び出した。服装はジャージ、その先のことは何も考えてない。現実における憂鬱というのは僕にとって、どれだけ指折り数えても枚挙に暇がないものだった。服装など、その憂鬱の山に比べたら些事に他ならない。どうでもいいことだ。
包丁を落とした音、そして扉を開けた時の鉛音で目覚めたのか、背中が彼女の声を聞いていたがそんなものは無視した。
僕の解消された憂鬱があるのだとしたら、玄関の戸締りはしっかり成されたということだけだろう。
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