第4羽
世の中、現実社会を生きているとどうしても訝る時というものが存在する。これまで当たり前だったものが疑わしく見えてしまってどうしようもないというタイミングというものが、生きていれば誰でもあるものだ。
その訝る対象の大きさやタイミングの頻度、問うた結果答えを出すか出さぬかは人によって違うものだ。
こと僕に関して言えば、その訝るタイミングというのがあまりにも多すぎる。至極当然、当たり前ことに対しても僕は疑念の眼差しを向け、そして答えを出さぬまま信用せずに終わってしまうことがしばしばあるのだった。小さいものから大きいものまで、今では目に映る全ての景色を疑わずに見ることなど不可能になってしまった。
僕の見ている世界は現実か?それとも嘘か?人が人に向ける表情の裏側は一貫しているだろうか?与えられた優しさは憐れみではないだろうか?説教というのは全て叱責される側に責任があるだろうか?その叱責には個人的な怨みが含まれていないだろうか?
見えていないところで人は人として生きているだろうか?そもそも息をしているだろうか?僕以外の人間は存在しているか?犯罪は本当に悪いことなのだろうか?模範的とは何か?性悪とは何か?僕は僕だろうか?見るもの全てをそのまま受け入れられているだろうか?無意識下で理想が混ざっていないか?
何が現実で何が嘘か僕には、とにかく、わからない。いっそ全てが現実ではなく夢の世界の中で、各々が夢を見ているだけならどれだけ幸せだろうか。きっとそうなら僕の信用するものは全て二元論的に正しいだろうし、僕は僕を疑う必要はなくなる。
天使の微笑みは慈愛の表情として受け入れられるだろうし、彼女の言葉は全て僕を勇気付けてくれるだろう。
段階的だろうと突発的だろうと、僕は歪んだ性格をしてしまっている。周りの人はどうだろう。僕はどの憂鬱を抱え込んで他人の前で笑えるものだろうか。そんなことは不可能だ。僕にはできない、神の御業としか言えないもの。僕にできるだろうか?
きっとできる。そう信じている。僕が何かを信じることができるというのは、全ては幻想の世界の事象だ。僕が現実世界で信じているものなど、その幻想が存在しているということ以外にない。
きっと僕の嫌なものは全て幻想なのだ。そうでなければ、僕はこれほどまでに苦しむことに道理がない。一貫性がない。因果関係がない。
これから先、僕は現実世界に存在する何を信じて生きていけばいいのか分からないまま....。
⬛︎⬛︎
漫然とした気持ちがのべつ幕無しに僕の脳内を駆け巡る。頭蓋骨に穴を開けようとドライバーなりハンマーなりを持ってきたが、部屋が散乱するだけで終わる。僕には自分を殺せるほどの勇気はない。あるのはただ、この憂鬱から解き放たれる方法を模索する姿勢と幻覚に対する絶対的な理想だった。
そんな自虐行為とも、自殺行為未満のことをしていたら一日が終わる。当たり前のことだけど、僕にはそれが不思議でたまらなかった。頭の中、この世に存在しないところで行われている筈の事により現実世界の時間は過ぎていく。
何故?
全く分からない。
自問自答したとてまともな答が僕に返ってくるはずもなく、それは問題が難しいからなのか回答者が僕だからなのか、とにかく、僕にとっては納得のいかないことだった。
凶器を取り出し、目の前に置く。そこから先は何もない。嫌になって凶器を放り出す。鈍い音と共に落下する。気にしない。しばらく経って凶器を手にする。そしてまた、嫌になって放り出す。それを捨てる。外のゴミ捨て場に凶器を投げては取り返しに戻り、時には僕がゴミ捨て場に蹲るなんてこともあった。そんな日が続いた。
休学申請をしていない僕にとって、大学は行かなくてはいけないものだった。世の中やりたいこととやりたくないこと、その中間にやりたくないけどやらなくてはいけないことが存在している。嫌なことを嫌だと言って逃げられたらどれだけ楽だろうか。嫌なことを嫌だと言って逃げることの何が悪いのだろうか。僕にはやっぱり見当もつかない問いだ。
大学に行き、単位取得のために授業に出席する。喫煙所には行かない。誰の顔も見ないように、なるべく少女以外を視界に入れないようにそそくさと立ち去る。そういう生活が続いていた。
何かを避けているというのは明白だった。他人を避けていること、今はそれだけじゃない。僕にはある女が怖くて仕方がなかった。彼女とばったり会ってしまったのなら、まず会話は避けられない。この夢現で意識が朦朧としている、視界は陽炎か蜃気楼か、存在している筈の幻想が見えない恐怖が僕を襲うだろう。そうともなれば、僕は彼女に何をしでかすかわからない。怖くて仕方がない。僕な内面性が、怖いのだ。逃げられない。逃げられない。逃げられない...。
⬛︎⬛︎
僕の足掻きは糠に釘、暖簾に腕押し、馬の耳に念仏に近しい。どう足掻いてもどう這いつくばっても、どれだけ距離を取ろうとしても意味などない。あの天使みたいに、僕の足掻きは意味などなさない。ただの時間稼ぎだ。
そういうわけで、僕はばったり彼女に会ってしまった。あってしまったと言いつつ、自分は喫煙所に向かってしまったわけなのだけれど、そうともなれば彼女と鉢合わせてしまう可能性も高くなるだろう。
しかし、自分が先日まで憂慮していた事は最早どうでもいい事になっていた。残念ながら僕は僕だ。そう踏ん切りがついた。現実と幻覚、その間で揺蕩っていた精神は定着した。
なので、以前僕が悩んでいたものは杞憂として終わり、今では普通に話せるようになっている。今なら普通の笑顔もできそうだ。私はそう確信している。
「お前なぁ、最近喫煙所来なかっただろ」
やはり、そう言われる。これは現実だ。そうだろ?
「私のこと避けてたんじゃないだろうなぁ?」
まぁ、そう言われても仕方がない。実際に避けて通っていたわけだし、少し前の僕はおかしかった。今はもう大丈夫だが。少女も私を見て笑っている。
「そんなわけないでしょうよ」
僕は軽く答える。そしてさりげない笑顔。
完璧じゃないか。僕はあの時、君に口付けをした時のように、完全に他人と自分との間にある障壁を拭い去ることができている。最早憂うことなど何もない。
何を指摘されても痛いとは思わない、『昔の俺はちょっとおかしかったんだよ!』と笑い流せる。いいことだ。
僕は惰性で煙草を吸う。ストレス改善だとか落ち着くだとか、色々言ってる奴もいるけど、自分はそんな事は気にしていない。ただこの時に限っては、なんだか落ち着く気がした。
「ふぅん、まあいっか!」
この女はそう言って、いつも通りに煙草を奪ってゆく。まぁいいことだ。別に気にすることでもない。彼女が変わらなくとも僕は変わったのだ。天使も笑っている。
彼女は随分な笑顔で煙草を吸う。彼女の顔を見るのは、笑顔を見るのは初めてではない気がするけども、なんだかすごく新鮮に思えた。それはきっと、僕の精神状態が安定してきたからだろう。絶望的なフィルターなくして見る世界がこんなにも美しいとは、私は思ったことなどなかった。
「あのさ、これ」
と言って彼女は手に持っていた紙袋を僕に渡す。
なんだろうと思って中身を覗くと、僕の服がそこにはあった。
あぁ、確かに自分はあの日ジャージのまま飛び出したのだった。だから当然、彼女の家には僕の衣服が残される。届けてくれたのか、出来た女だなぁ。
「ありがとう」
そう言ってまた微笑む。ごく自然に、そこら辺にいるような男がやる当たり前の笑顔を向ける...。
違和感。
僕の中に微量の違和感が発生したのを自覚した。
「...あんたさぁ」
彼女の口調が変わったような気がした。何を言われるのだろうか、何かを指摘させる事は確かだ。
彼女も僕同様、僕の中に発生した違和感を感じ取ったのかもしれない。何を指摘されるのか怖いわけではないが、僕には予測がつかない。何故なら自分自身でもその違和感の正体がわからないままだったからだ。
「何?」
「ちょっと変わったよね」
変わった、か?そうか。変わっている。何もかもが変わっている。見えてる景色もタバコの味も、現実に存在する全てのものが鮮明に見える。それは私の精神が変わったからだと言っていいだろう。劇的な変化だ。なるほど、彼女はそれを違和感として受け取っていたのか。
僕の違和感というのもそれかもしれない。僕の中には変わった自覚こそあれど、やはり意識していない所においては僕が変わった結果を認識できずにいたのだろう。それを感じ取った僕は曇っていない世界に違和感を感じたのだった。そうに決まっている。そうじゃないと、何かがおかしい。
「そうかな?」
僕は絶望的に遜るというものではなく、自身の性格からではなく、意図的に、意識的に謙遜した。こういうことも精神的に変わったから、不安定な要素を忘却し安定したからこそのものだろう。明るい精神の賜物だ。
「うんうん、変わったよ。なんか色々ある気がするけど、例えばなんだろうなぁ...。明るくなったと思うよ」
「そりゃあ結構だ!」
自身の努力、変わったと思うもの。女性が髪を切られた事に対して気づいてもらえると嬉しいと言う気持ちが分かった気がした。
...またも違和感。
「嬉しいなぁ...。俺、変わったんだな」
——違和感。重大な欠点に気づいていないような違和感。何かある。それが何かはわからない。
「あ、そこも」
——再び違和感。何かがおかしい。僕は忘れてはいけないものを忘れている。というよりは、大きな勘違いをしている感覚に襲われた。
「どこ?」
——再度違和感。これを思い出してはいけないと思う。この感覚は少し前の僕だ。この感覚は思い出してはいけない、精神的におかしくなってしまう。今は、きっと今は、多分今は、あかしくないのだから。
気づいてはいけない。この先は言われてはいけない気がする。この先、彼女の一言で僕の取り繕った筈の安定は崩壊する。...取り繕った?何を取り繕ったと言うのだ。根本から...。やめよう。これは取り繕っているのだ。自分でも分かっている。圧倒的におかしい。ここは違うのだ。僕が不安定である何よりも証拠だ。誰もが気づいてる。内面では露呈している。だが外見にだけは出さないようにしている事なのだ。暴くのはやめてくれ。晒すのはやめてくれ。僕を安定のまま、この安定のまま、空虚な幸せでも虚偽の幸せでもいいから浸らせておいてくれ。半ば崩壊し始めた僕の精神的な安定は、彼女の一言で崩れ去ると言うだけだ。だが、やめてくれないか。
「 」
聞きたくなかった。しかし、自分でも理解している事だ。絶対的で決定的、不動的かつ明瞭的な違和感の発生。発散。爆発。爆散。崩壊。破壊。消滅。
違和感。その正体。
崩れ落ちた。タバコは灰に変わる。季節も変わる。巡って行く。全て変わった。おかしい。僕は変わっていない。天使の微笑みも変わっていない。今すぐそのツラをやめろ。お前は天使なんかじゃない。
⬛︎⬛︎
僕の感じて違和感の正体はまさしくそれだった。それに違いない。不安定な要素は文字通り忘れたはいたが棄却できずにいたのだった。
目を見開き。タバコの灰を落とすこともしない。震える手つきで、煙草を口に運ぶ。それは惰性でやっている事だ。安定している。僕は惰性で笑えない。安定しない。
「...どうしたの?」
途端に急変したであろう僕の表情に彼女は心配の眼差しを向ける。ああ、そんな目を向けないでくれ。僕の安定を妨げた君が、どうして憐れみの瞳に僕を映せるのだ?
「いや、なんでも...、ない。はず...」
精一杯取り繕う。これは、取り繕っているのか?取り繕えているのか?取り繕う意思があってやっている事なのか?結果的に取り繕っているのか?
わからない。
「はず...って」
「...いいから、それで?」
いい?何がいい?何にとっていい?本当にこれでいい?僕にとってからでいい?彼女にとっていい?なにが?何をもっていい?
わからない。
「それで、って...。あぁ、 持ってたりする?」
何だって...?
...わからない。
「...って、あの...? だよ、な...。うん、そうだ。きっとあの ...」
「...?うん、一ヶ月くらい前に貸したあの 」
借りた?あれは夢だったんじゃないのか?確か、あの日は雨...、晴れてたか?確か晴れていた。あの日は僕は自分の家に....、でも、その時は確かびしょ濡れだった。だから、あの時はすぐに風呂に入って...。
わからない。
「うん、持って...。持ってる、のか...?」
持ってる?何を?僕は を最近購入した覚えがない。誰の話をしてるんだ...?
わからない。
「ま、まぁ急だったからな!持ってないよな。いいよ、取りに行くよ」
「...あ、え?」
取りに来る?何故?何を?
わからない。
「...嫌だった?」
「いや、別に、そんなことは...ない...」
僕は話についていけない。何故彼女が僕の夢の内容を知っているんだ?あれは僕の夢だった筈、確かにそうだ。何故この女が僕の内面にまつわる話を知っているのか、僕はわからない。
...そうか。これがまさしく なのだ。僕が だと思っていたものは だ。間違いない。僕が間違えるはずがない。そう信じている...。何故?何故そう信じる?僕はそう信じていたから?僕には、そう信じるだけの人間性を持ち合わせていただろうか。自分の を信じられるほど、そこまで に満ち溢れていた...のか?
わからない。
⬛︎⬛︎
最寄りの駅に着いた。僕の家までは徒歩で20分、人によって近いも遠いも解釈の変わるくらいの距離ある。僕はそれを近いと思っていたか、遠いと思っていたのか、わからない。ただ、きっとこれは夢だ。そうに決まっている。
そうじゃなければ、いけない。
「うひゃ〜、あんま変わんないなぁ」
「前、来たことあるの?」
「何言ってんの?お前ん家で勉強会しただろ」
言われてみればそんな気もするけど、言われたところで夢だったような気もする。古い記憶ということもあり、なんだか記憶にはあるもののそれが本当にあったことなのかどうかと疑ってしまう。
確かに彼女を家に招き入れたこともあったが、本当にそうだったか。彼女が嘘八百を並べていると言うこともあり得る。
「あぁ、確かにそうだった」
取り敢えずそう言う事にしておく。今は彼女に対してそれの真偽を確かめるべく尋問するなどと言う事はしている余裕がなかった。
脳の余裕。
僕は今、自分でも思うほどに、自覚する程度に混乱しているのだ。だからというわけではないが、なるべく新しい情報とか、そう言う類のものは少なくしておきたい。
足りない頭で少しでも整理し易いように僕はなるべく彼女の話を聞き流す。思い出したくないこともあるし、 思い出せないこともある。
それで良いじゃないか。
なるべく新しい情報を入れないように、それでいて彼女の気を損ねてしまわないように、当たり障りない回答をして彼女の話を聞き流す。少し危ないと感じたら、本当に少しだけ耳を貸してやる。 それで、いい。
多分。
着々と進んでいく。家へと近づいていく。その道中、公園を見つけた。僕の初めて来る公園だった。家と駅との道中にこんな公園があるのに、僕は何故気づかなかったのだろう。
「ちょっと、ベンチ座ろう」
そう言って公園の中へと入っていく。座りたい理由なんてなかった。そんなもの無かったけど、ただ少しだけ懐かしい感覚になり、僕はこの公園へと足を運んだ。
「ここ、来たことあるの?って、来たことあるか。近所だもんね」
「いや、実はここに来るのは初めてなんだ...」
そう言って煙草を咥え火をつける。彼女は例の如く僕のタバコをとり、そして僕は流れ作業でタバコをもう一本取り出し、同じことをする。
こうしてタバコを吸いながら、逢魔時に遊ぶ子供たちを見つめるのはなんだが懐かしい気もした。天使は、いなかった。
いない。
いつもいる筈の天使がいない。
どこを見ても、いない。
いつも視界のどこかにいる筈の彼女は、僕がいくら目を回したとしても見つからなかった。
それもそのはず、あの少女は例の如く、僕の隣に忽然と現れていたのだった。例の如く...?
「そろそろだね」
久しぶりに僕の前に姿を現したかと思えば、この少女は相変わらず意味不明なことを宣う。いつもいる視界から姿を消した彼女は、一体なんの意味があってそんなことをしたのだろう。
僕はかつてのようにタバコを吸いながら少女と話す。何か忘れていた感覚を思い出したかの、そんな爽快感があった。僕の漠然とした不安は消し去ってはいない。
「何が?」
少女は笑っている。これもいつかの日と同じように、彼女との会話はそこまで深くはならない。
久しぶりの安定剤との邂逅により、僕は普段より幾分饒舌になっていた。
「君はいつもそうだったね。僕の前に現れては都合の悪いことばかり言う。目を背けたい筈の現実に絶対的に目を向けさせようとする。僕の言いたいことわかるだろ」
「うん」
少女は屈託のない笑顔を向ける。
「それで、きっと会うのは最後になるけど、君はどうするの」
「どうするもないよ。お兄さんがまた、私と会いたいって思ったら会えると思うよ」
「そりゃあまぁ、そうか」
僕は煙を吐き出す。天使との会話に高揚を覚えたとて、僕はそれを表に出すことはない。ただ静かに、彼女と言葉を交わしている。
「お兄さんは、それでいいの」
「君がここに来たと言うことは、きっとそういうことなんだろうと思ってるよ。君が僕の前に現れる時は大抵、逃げるなという啓示の他にない」
そういって煙を吐き出す。日頃の鬱憤や彼女に対する罵詈雑言は、この煙と共に、どこに向かうわけでもないが吐き出す。きっと最期、最後の会話になるのだ。僕の言いたいことはいわない。
今はただ、彼女と少しでも長くいたい...。いや、終わらせるべきなのだ。
「お兄さんは、それでいいの?」
彼女の常套手段だ。同じ質問を二度繰り返す。これは僕の回答に僕自身が満足していないと言う証拠だ。でも、僕はそれで良い。何がおかしい?
「いつまでも逃げていては駄目だ。時間の問題だろう?だったら、もう終わらせてしまったほうがいいさ」
「そう、かな」
「そうだよ。いつも不安に怯えていたのは原因がある。もう、嫌なんだよ」
天使は黙る。僕の前に突如として現れた幻影。しかし、始まりはあった。いつのまにかというのは、僕がきっかけであった出来事を忘れたいからと言う逃げでしかない。
僕は天使に感謝を言いたい。僕の罪は贖罪され、ここからまた新たな人生を歩んでいくのだ。それでいい。それが現実であり、他の全ては幻想だ。
「本当に、そうかな...」
「え」
彼女は消えた。跡形もなく消えていった。天に飛び立ったのか、成仏したのかわからないが、消えた。もう僕の前に現れることもないだろう。
「どうしたの?」
「別に、なんでもないよ」
気づけばタバコはフィルターのところまで灰になっていた。勿体無いとは思わなかった。僕は元気よく立ち上がった。
「行こうか...」
どこに?
家というわけではない。どこに向かうわけでもない。僕はただ、迎えにいくだけだ。
⬛︎⬛︎
道中、会話はなかった。二人静かに夕暮れの街を歩き、そして静かにあのアパート前まで来た。
僕らが一番上がるごとに、鉛音は建物に響いてゆく。まるで一人で上がっているかのように僕らの足取りは同じだった。リズム的で一見軽快ではあるものの、僕にとっての一歩はかつてないほどの重さがあった。
この階段を登った先に、果たして僕の求めている正解はあるだろうか。僕のやっていることは正しいか?僕の行動に間違いはなかったか?今、僕の見ているものは現実だろうか?それとも虚偽の世界なのか?僕は現実を現実のまま、なんの理想も織り交ぜずに見られているだろうか。この世界をそのまま、なんの感情も含まず解釈できているだろうか。後ろに彼女がいることですらも本当かどうかわからない僕だったが、それの答え合わせをするために僕は自室へ向かっている。
階段を登り終え、ほんの少しだけ歩く。自室の前に立ち、かつて彼女がやったかのように植木鉢から鍵を回収する。鍵に付着した微量な土をはたき落とし、鍵穴に挿入してゆく。
これで終わる。
全てが終わる。
...何が終わる?
訳のわからないまま鍵を回すと、鈍い金属音が解錠を知らせる。僕は階段側にいる彼女の方を見つめる。
「どうしたの?」
また違和感。
僕の感じる違和感というものは、僕が捉えている世界が嘘だという通告に他ならない。つまり、今僕は、なにか大きな間違いを犯しているのだろう。天使がいないことが違和感の正体か?わからない。
わからない、が、僕はもう扉を開けるしか無かった。そうしないと、僕は二度と目覚めることのない不快感の纏わりついた夢の中で溺れ続けることになる。そんなことは嫌だった。
例え現実が辛かろうと、僕に身に覚えのない応酬が降り掛かろうと、現実で生きていくしかない。
天使はもういない。僕も前に進む時なのだろう。笑いが便利な時は、短かったが過ぎ去った。
ドアノブを回して玄関への足を進める。会談の時以上に鉛音を響かせてドアは閉まる。
僕は靴を脱ぎ、足元に転がる少女の死体を跨いでジャージを取りに行く。何も考えずに奥の部屋へと入ってきたが、ジャージはどこにあるのだろうか。
洗濯したのならばおそらく洗面所にあるだろう。そうして僕は部屋を出て洗面所に移動する。洗濯機の中を漁ってみたが、ジャージらしい衣服はない。僕は基本的にジャージのような運動しやすい服は着ていないので、おそらく『らしい』ものがあったらすぐにわかる筈だ。
おかしいなぁ、と思いつつ洗面所を出る。彼女は玄関に立ったままだ。散らかった部屋に上げるのは僕としては嫌だったので何も言わずに取り繕った笑顔をする。なんの意味もないとわかっているのに。
彼女はいつも通りに笑ったままこちらを向いている。何も言わずに、何も言えずに立っているようだった。
僕はまたも違和感を感じたが、今はその違和感の正体を手探りで模索するよりも先にジャージを彼女に返すことのほうが先だと思った。僕は部屋の中に戻り、そして散乱した部屋の中からジャージを探し当てるべく、さらに部屋を散乱し始めたのだった。
しばらくして、僕は立ち上がり、そうしてクローゼットの前に行く。
ジャージがクローゼットの中にあると思うか?つい最近の出来事であり、つい最近借りたものだ。態々自分のもののようにクローゼットにしまうだろうか。いや、違う。僕はジャージをクローゼットに取りに来たのではない。もう、ジャージは持っている。
クローゼットの前に立っているのは、ジャージを返すため。そして答え合わせをするためだ。
違和感の正体はこれだった。
僕には何が現実で、何が嘘で、何が正夢で、何が逆夢かわからない。全てが嘘のような気がしてならないし、全てが夢のような気がしてならない。しかし、僕の五感が確実に機能しているだろうと考えれば、それはきっと現実なのだろう。
僕は勢いよくクローゼットの扉を開ける。そうして異臭を放つ彼女に言うのだった。
「ジャージ、遅くなってごめんね」
玄関には空っぽの紙袋が一つ、横には天使が笑っている。
こうして僕の罪が精算されることは先のことになった。
これも幻なのだろう。
思わず笑った。
天使 愛愁 @HiiragiMayoi
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