第2羽

 少女のまるで体重を感じない羽根のような体を強引に家の中へと投げ入れる。僕の体感とは裏腹に、少女の華奢な肉体は床との衝突により鈍い音を発する。僕は気にしない。

 床に転がる植木鉢、そして土。僕は気にしない。静かに扉を閉め、それでも重い金属音が建物全体に響く。僕は気にしない。この空気感も、目の前に横たわる少女の存在自体も、夕陽が覗き込む部屋の明るさも、そんな薄気味悪さも、僕は気にしない。

 僕が気になって仕方がないのは、目の前の少女の、鷲掴み出来るほど小さな顔面に張り付いている一貫した笑みだけだった。彼女は自身がどれだけガサツに扱われようとも、その笑みを止めることはない。

 笑うなよ。どうして笑うんだ。僕がそんなに面白く見えるか。気味が良いのか。僕が困っている様子を見て、お前は気分が良くなっているのか。

 そう思うと、より一層、網膜に焼き付いてしまいそうなあの表情が腹立たしく感じられた。僕はすかさず仰向けになって倒れ、それでも笑顔を崩さずこちらを見つめている少女の上に飛び乗った。大人一人分の体重をやわらかいはずの腹部で感じているにも関わらず、彼女はやはり表情を歪めてくれない。

 憎い。

 僕の全てを見透かしてしまっているようなその瞳が、僕に存在する残滓のような自尊心を傷つけているように思える。

 憎い。

 どれだけ窮地に立たされていようと絶対に角度を下げることのないその唇が、子供一人相手に恐怖を感じ、大人気無くとも必死に自己防衛をしている僕を笑っているような気がする。

 憎い。

 理路整然としているその態度が、僕がいくら努力をしたとて曲げることの出来無いその感情が、僕のように生きづらさを感じずに平然と続けている呼吸が、そしてその呼吸により微妙に揺蕩っている腹部の動きが、この女の生物としての体温が、全てが憎い。

 僕はいつの日だったか、同じ様に彼女の首へと手を掛ける。彼女は抵抗せずに、僕の存在を否定しているはずの笑みはその時に限って僕の行動を黙認している様な気もした。おそらくそれは僕の都合の良い勘違いに他ならない。彼女の笑みはいつだって僕を否定している。僕の存在を否定し、それでも生きている僕を更に笑うのだ。

 憎いという感情はいつの間にか怒りとして行動に変換されていた。僕は彼女の首を万力を込めて締める。歪め。歪んでしまえ。お前が僕に歪んだ表情を見せることで、ようやく僕はこの世に誕生するのだ。

 誰に肯定されるわけでもない人生だが、とにかく僕を否定する奴がいるというのが良くない。いつから僕が生物的に生きているにしても精神的には死んでいる状態だったのか、随分前のことの様な気もするし意外と最近の気もしている。だが、とにかくナーバスな感情にトドメを刺すならば今この瞬間しかタイミングは存在しない。ここが人生の分水嶺、この機を逃してしまっては、この先一生僕は死に続けることになる。

 ——歪め。...歪め。歪め、歪め。

 苦痛を感じないはずがない。いくら非力な僕とて、少女から見た成人男性の力は想像を絶するもののはずなのだ。歪むはずなのだ。

 彼女は苦痛な表情を浮かべていた。瞳は潤み細くなり、目尻の方は垂れている。唇は張ってあるかのように歯を覗かせる素振りはないにしても、口角は心無しにか上がっているように見える。それは、微笑みの口。微笑みの瞳。微笑みの、表情。

 僕は手を離す。一切の抵抗を見せない彼女は、後何秒程度首を絞めていたら死んでいただろう。しかし、僕が彼女の首を絞め絶命させたとても、彼女の顔に歪みが生じる可能性などは微々たるものとしても存在しないのだ。僕がここで彼女を殺してしまっては、それは単なる自己満足でしか無く二度と是正のできぬ敗北感を植え付けられてしまう。僕はもうどうしようもないのだった。

 僕は彼女を精神的に歪ませることなどできないと悟ると、今度は物理的に歪ませて仕舞えば良いという、一種サディステックな、嗜虐心というものが心に芽生えていることを自覚した。

 僕は今度は首では無く拳を握り、そして彼女の顔に向けてそれを飛ばす。

 眼球の硬さを感じた。少女の頭蓋骨を感じた。生命的で神秘的だが、同時に不快的な温かさが拳に残った。ここにあるのはその寂しさと少女の微笑みだけ。彼女の瞼は蒼く腫れているが、決して微笑みはかき消すことなど出来ていない。しかして、彼女の拳を原型も留めず破壊することは精神的に無理だと悟った僕は、遂に彼女に何をするということも出来なくなってしまった。

 どうすればこの女は顔を歪ませてくれるだろうか。その、僕を虐げてしまう顔を、どうしたらやめてくれる?どうしたら僕を自由にしてくれるだろうか。

 いや、きっと無理なのだろう。

 例えこの場で何かの方法があったとして僕が彼女の顔を歪ませたとしても、今や日常の一ピース、必需品と化してしまった彼女を壊してしまうと、それはそれで僕は不安定になる。今の不安定さを安定させるためには、僕はもう何もすることはできない。この女に対して嫌がらせの類は一つも通用せず、僕は静かにこの女に耐えうるしかないのだ...。

 耐える?

 何故耐える必要があるのだ。不安定を安定にするのは、何かおかしい。何かを守りたいからこそ、僕はこの不安定に慣れようとしているのだ。この不幸ですらも当たり前にすることで、自分は不幸なんかではない、異常などではないと自身を肯定しようとしているのだろう。

 玄関からすぐそばの台所へと移動して包丁を一つ取り出す。僕が守ろうとしているのは何か。

 この不安定さを守ろうとしているのではない。僕はこの不安定に辟易しているし、流石に飽きが来る時期でもある。僕はこの不安定などは必要ない。

 この少女一人を守ろうとしているのではない。僕はこの少女に依存している反面、この女を何よりも憎んでいるのだ。僕はこいつを守るなどということはしない。コイツがいなければコイツに悩まされることもないし、依存することもなかった。

 歪んでしまっていたのは僕の根性、性格、それの他に何かあるだろうか?全てのものを変な見方をする僕にとっては、何か守りたいと自覚していると自分でもそれを壊そうとする。

 僕が守ろうとしていたのはきっとこの先の人間生活の営みだったのだろう。僕は鉄を腹部に通過させ、鉄の匂いを室内に充満させる。

 笑顔のままだった少女の微笑みが血飛沫に揉まれながらも、一瞬悲しそうな顔をしたをしたのは意識が朦朧としているからなのだろうか。


⬛︎⬛︎


 検査入院が終わった。物音を聞いた近隣住民が倒れてる僕を発見したが、僕の体からは傷一つ見当たらなかった。一体何が起こったのか分からないが、僕が確かに突き刺したはずの包丁は床に転がったまま放置されている。どうやら、僕は夢を見ていたらしい。夢というよりは幻覚。

 ならば今も目の前に、視界のどこかに映り込んでいる顔面が血塗れの少女も僕の幻覚ということになるのだろうか。

 病院から家に帰ってくる道中にも、玄関先が散乱していた家の中にも、そして今こうして大学の中にいる時にも、彼女はどこかしら僕の視界の中にいる。いつもの顔で突っ立っている。

 一少女にドギマギしているようではこの先、彼女が僕の世界から消えてくれる可能性がないということを考慮した時やって行けそうにないので、今は彼女にはかまわないようにしている。なるべく触れずに、見えていても見えないふり。そこにいるはずだが、僕は彼女を幻覚として切り捨てる。

 彼女と触れ合うことをやめてから大きく変わったことを挙げるとするならば、僕のタバコを吸う場所が公園から大学の喫煙所になったということくらいだろう。大学の喫煙所は屋上にあり、ある程度の広さがある。僕はそこで暇になるとタバコを吸いに行く。行く宛もなく、帰るにしてもやることのない僕にとっては喫煙が唯一の時間を潰す方法だった。

 ぼちぼちこの喫煙所の常連になりつつある僕、そしてこの場所には人がほとんど来ない。医療系の大学ということもあり、みんな健康志向が高いのだ。僕のようにタバコを吸う人間は変な奴として扱われる。だが、僕のささやかであり確実な安息を与えてくれる一人の時間を遮る存在は少女の他にもいる。残念ながら。

「おーい、またここにいたのか」

 女性にしては高身長、ポニーテールの女が階段を上がりこちらへ向かってくる。僕は関わってほしくないのでさりげなく背中を向けるが、彼女の方は僕とお話をしたいらしく少女のように僕の視界の中への入ってきた。全く話す気もなかったが、偶然彼女の立ったところは少女を隠すようなところだった為、少しくらい話す気も湧いてきた。

「お前、一年生なんだからタバコ吸うなよな」

 そう言って僕の加えていたタバコを没収する。少し寒かったので、僕はタバコを指では持たず加えたまま肺喫煙をしていた。没収するのは然程短くなっていないタバコであれば簡単だろう。

 僕は何の反応もせずに胸元からタバコを取り出す。乾いた音を響かせタバコの先には火が灯る。

「浪人したんだよ。知ってるだろ」

 僕はあからさまに邪険な態度をとって彼女を突き放す。黄昏ている時というのは大体心持ちが漫然としている時であり、そのタイミングで誰かと話さなくては行けないともなればすごくうんざりする。

 彼女と僕は高校の同級生であり、志望大学が同じということでちょっとは話していた。彼女が現役で合格したのは知っていたので、浪人した際に僕はこの大学を受けるかどうか迷ったが相手も無理に僕に話しかけてくることはないだろうと読んでいたのでそこまで気にせずに受験をした。結果、僕の予想は外れていたのだが。

「お前まだ19だろ」

「近いうちに二十歳になるよ」

 彼女は僕の横、そうして手摺りに凭れてタバコを吸う。彼女がタバコを吸っていたという記憶はないが、最近僕がここにいるときは一緒に来て、そして大抵の場合は僕の吸っているタバコを軽口と共に没収してからそれを吸い始める。

 思春期を通り過ぎた僕は間接キスなどは気にしないが、強いて気にすることを挙げるとするならばタバコを取り上げられることだろうか。

「また大学来てくれるようになって嬉しいよ。高校でもサボりがちだったもんな」

 僕のサボり癖は高校時代の時から染み付いているものだ。高校二年生くらいだろうか、始まりはともかく僕にはれっきとしたサボり癖がついていた。当然学校もサボったし塾もサボった。浪人した原因はそこにある。

「こっちにも事情があるんだよ」

「知ってるよ。だから深入りはしてないだろ?」

 深入りはせずとも触れては行けないところに軽くでも触れるのは、この女の嫌いと言っても良いだろう。しかし、僕は特段他人に自分を気遣って欲しいなどという期待はしていない。だから、この女が僕の期待を大きく下回る不出来な人間だとしても僕は否定もしないし指摘もしない。

 こうして他人を推し量り偉そうに評価する時、僕はそこまで自分が高尚な人間なのかと自問自答したりする。そんな人間ではないはずなのに、これは性格の問題だから仕方のないことだと言って開き直るのだった。

「サボり癖っていうか、なんにもやる気が起きないんだよ。人生そのものなのか目前のやるべきことに対してなのか、とにかくやる気が起きない」

「ふぅ〜ん...」

 興味がないというわけではないだろうが、深く聞くわけでもない彼女にとって心の中をあけっぴろに晒されるということは反応しづらいことだっただろう。これは意図的にやったことであり、会話を広げる気で言ったわけではなく彼女の困るようなことを言ってこれから先、彼女が僕に好んで近寄らないことを期待してのことだった。無論、僕の性格が治らないように人にやってくるというのは彼女の性格なのだ。

 僕の正反対の性格。何故にここまでこの女は僕に近づいてくるのか。

「お前さ」

 彼女は紫煙を吐き出してから答える。

「どうした〜?」

「僕のこと好きなのか?」

 彼女は大きく息を吐き出した。今度の吐息はタバコの煙ではなく単なるため息だろう。

「お前、まだ思春期なのかよ。そういうの、自意識過剰って言うんだぞ」

 建前として言っているので、そんなこと僕にも分かっている。一言強い言葉を言うならば、君の見えている世界が真実とは限らない、ということだろうか。君の知らない世界の中に相手の真意が隠れていると言うこともある、なんてことを言いたかったが、僕はこの女に説教する気はなかった。

「冗談だよ」

 幼稚な誤魔化しだ。ここで本音を言うわけにもいかなかった。いくら他人と関わることを嫌がる僕とて、真正面から『君のことが嫌いだ』なんて言える性格ではない。だから、ここは誤魔化すしかないのだ。

 こう言うところが僕の悪いところで人と関わらない最たる理由なのだろうが、それでも僕は良いと思っていた。これに関しては開き直ってるわけではなく、人と関わること、人との関わりが多いことというのは個人差があることだ。一人で生きて行けないことを知っていても、僕は友人なんてものは必要ないとまで思っていた。自分が鬱陶しく、疎く思っているものに無理して近づく必要なんて、きっとどこにもない。人を好くことに理由が入らないなら、嫌うことにも理由なんていらないだろう。

「それで?」

「...?」

 これでこの話は終わりだ。やはり、冗談だろうと嫌味だろうと皮肉だろうと、結果として会話を広げてしまうのであれば言わないほうがいいのかもしれない。

「私のどこを見て好きなんじゃないかって思ったわけ?」

 応酬というべきだろうか。疾しい感情を持って他人に接した分、自分にとって厄介なことが降りかかってくるような感覚。一度くらいは相手に嫌なことをしてやりたいという気持ちもあるが、僕は大抵の場合うまくいかない。

「言ってみただけだって」

「なにそれ?何かしらあるでしょ?」

 何かしらあるということはやっぱり僕のことが好きなんじゃないのか?僕にはこの女の言ってること、言いたいことが理解できずにいた。話すならもっとまともに、まともじゃなくともせめて僕が理解できる程度には話して欲しい。

「僕が喫煙所にいると、来るところとか」

「それはたまたまだよ」

 笑いながら言った。何か挙げろと言ったのは其方なのに、軽くあしらわれてしまった。照れるわけでもなく笑っている。

 笑い...。

 僕にとってはいいものではなかった。

 とにかく、これだけ軽くあしらわれてしまってはまだ物足りないとでも思っているのだろう。僕は再度熟考を始める。

「今の状況が、何よりじゃないかな」

 今の状況というと、つまり僕が『冗談』だと言って終わらせたはずの話題を引き伸ばしにしようとするところ。何よりもその話題が恋愛感情の話、ひいては彼女が僕を好きなのではないかという話題だ。好きでもないのにこの話を引き伸ばしにしているというのは、そういうことのような気もする反面、これはあまりにも思春期的、幼稚な発想だと思った。が、根拠を挙げろと言われたので僕はこじつけてでもそれをでっちあげたまでである。僕からみてもこの理論は突拍子もない。

 尤も、彼女が僕を揶揄っているだけの可能性も考えられなくとないわけだ。本気でそう思っているわけでもない。とにかく、僕は彼女のリクエストに答えた。今度は僕が彼女の反応を楽しむ番である。

 が、ここで予期せぬハプニングが起きてしまった。

「うわ、雨だ。中入ろう」

 それも小雨の通り雨というわけではなくゲリラ豪雨のようなものだった。雨が降っている上にここは屋上、僕らの傘は何もない。タバコをこのまま吸うことはおろか、屋上にいること自体難しくなってきた。

 彼女はこの機会を見逃さず、まるで、それこそ逃げるように話の腰を折ってしまった。僕の精一杯の誤魔化しはどこに行ってしまったのだろう。

 僕らは屋上からすぐ下の階へと避難した。


⬛︎⬛︎


 この空間には僕らの二人だけだった。無論、天使はカウントしていない。

「雨、強いなぁ」

 僕はポツリと呟いた。

 彼女が雨にかこつけて話を折った、一言の返事もせずに室内への避難を優先したのは照れからの好意なのか、それとも彼女にとって僕の意見など瑣末な問題だったからだろうか。僕にはわからない。ただ、僕にとってはあれ以上、彼女の我儘とも呼べる問答に付き合うことがなくて良かったと思っている。彼女が話をふらない限りは、例えどれだけ重い沈黙が僕らを取り巻いたとて口にはしない。そう決めた。

「しばらく止まないらしいよ」

「...」

 困ったものだ。僕は今日、家を出る時は快晴青一色の空と天使の微笑みしか見ていない。天気予報などは当てにしていないわけでもないが、今日の雨は予想外だった。

 女心と秋の空...。変わりやすいというのは本当なのか。前者に関しては僕は知らないけど。

「...」

 重い沈黙が流れる。僕の思った通りだった、が、僕は何も言わない。

 タバコを吸うようになってからの僕は、時間を潰さなければならない大抵の場合はニコチンを摂取することでどうにかしてきた。しかし、外は曇天、勿論大学構内では喫煙所以外でのタバコは禁止されており、喫煙所というのは先程まで僕らがいた屋上だけである。生憎、屋内の喫煙所はない。

 このまま雨に濡れて帰ってしまおうかと思ったが、そうするとまだ半分以上も残っているタバコが無駄になってしまう。最近ではタバコも高いし、それはいくら何でも嫌だった。

 天使は微笑んでいる。僕の事情も自然環境も関係ない、屈託のない、悪意のない笑みを浮かべてこちらを見つめている。やめてくれないか、その笑顔は。僕を無言で見つめるその表情は、確かに僕を責めている面が存在した。僕は耐えられない。いっそ、ここで死んでしまおうか。

 僕は急に立ち上がり、階段のほうへと向かう。

「どうしたの?」

「ちょっと屋上に...」

「忘れ物でもした?」

「いや、そういうわけでは...」

 彼女は、僕が何を言っているのかわからない顔をしている。そんな顔をしたいのは僕の方だ。彼女が何故そんなことを聞くのか理解できなかった。

「じゃあ、何?」

「そりゃまぁ、降りるためだけど」

 正確には『飛び降りる』為だけど、それ以外に何があるというのだろう。屋上に行く理由は飛び降りに決まっているだろうに、彼女はどこかおかしいのかもしれない。

「どういうこと?降りるなら尚更屋上に行く意味なんてないでしょ?」

「え...、何故....」

 ここでようやく僕は理解する。彼女が一体何を言っていたのか、ようやく理解する。降りるには下の階に向かう。当然のことだ、小学生でもわかる。

「でも、下の階に行って何するの?外は雨だよ?」

「ちょっと、食堂の方に...」

 彼女は曇りが晴れたような顔をした。何かわかったというのだろうか。僕の心境を。

「ああ、そういうことね。お腹空いたのか。私もついて行くよ」

 ああ、何て愚かな女なんだろう。そう思った。世の中の全てを楽観的に捉え、絶望という言葉すらも知らないこの女にとって、見える景色は同じでも感じる景色は違うのだろうと、すごく可哀想な気分になった。

 僕は返事もせずに、適当な愛想だけで言葉を受け流す。彼女を待たずに僕は下の階に降りて行き、そして食堂のある一階へと到着した。予定ならばもっと速いスピードで一階に到着していたのだが。

 事の顛末を、天使は笑ってみているだけだ。

「今日はやってない、らしいね」

 彼女はいう。無論天使ではなく、僕の後ろを這い回るように歩いている女の方だ。能天気で剣呑知らずな女。

 僕はまたしても彼女のことなど見えないかのような素振りで歩く。同時に視線を感じた。彼女が僕をみているのだろうが、何故僕のことを直視しているのか理解できなかった。やっぱり僕のことが好きなのかもしれない。

 僕はそんな視線も忘れて、食堂のカウンター、それも通り過ぎて厨房の中へと入り込む。ここで黙って僕を見つめていた彼女は声を出す。

「何やってんの!キッチンは生徒立ち入り禁止でしょ!」

「何やってるって、そりゃまぁ...」

 ここで再び僕は黙ってしまう。包丁を回収する予定だったが、僕の中で包丁とは、あの強迫観念と絶対的で決定的に結びついているものだった。それを思い出した今『包丁』と口にすることも尻込みせざるを得なかった。

 僕はもう、二度と心の底から他人に笑顔を振り撒くこともできないし、そして二度と包丁などは使えないのだろう。もとより自炊する事などない僕にとっては瑣末な問題なのだが。

 包丁を取り出すためにしゃがんでいた僕は静かに立ち上がり、そして厨房の外へと出る。何事もなかったかのように彼女の横を通り過ぎ、そうして何事もなかったかのように笑っている天使と目が合う。僕はお前が羨ましい。できる事ならば、僕も彼女のようにずっと笑顔でいたいものだ。ブルーな気持ちを少しも感じさせないその笑みができたなら、僕ももう少しまともに他人と関われただろうな。

「あの...、大丈夫?」

 彼女は言う。何をもって彼女は大丈夫としているのか僕はわからないが、とにかく僕ならずっと大丈夫だ。何も問題はない。

「大丈夫だよ」

 取り敢えずそう言っておく。彼女が納得しないにしても僕が納得するのだからそれでいいじゃないか。

 彼女は僕の顔をじっと見つめる。まだ何か問題があるというのだろうか。僕のお腹が裂けて、服に血が付着してたりするのだろうか。彼女にも天使が見えているのだろうか。いったい何を言われるのか、何かを言われるのかすらわからない。

 あまり自分の顔を見つめられるということは嫌だった、というか彼女に見られるということに嫌悪感を感じた為顔をそっぽに向けようとした矢先、僕は先ほどの皮肉が空回りになったことを思い出す。だからどうというわけでもないが、何か嫌なことを言ってやりたい気がした。

「僕の顔に何かついてるとしたら、それは生まれつきだよ」

 対して上手いことも言えない、豆鉄砲のような悪口だった。そもそも彼女が僕の悪口を悪口として捉えてくれるかどうかは微妙なところだった。

「いやぁ、大したことでもないんだけどさ」

「...?本当に僕の顔で気になるところがあったわけ?」

 こいつと関わるのはやめようかと思った。もし本当に僕の顔に醜悪な何かがついていると思って、顔面を直視していたとしたら、僕は本当にこいつのことを無視しようと、徹底的にスルーしてやろうと思った。

 再び僕の嫌味は空回りに終わる。

「違うよ。お前が笑ってるところ、初めて見た」


 ——笑い。僕のトラウマ。心理的瑕疵程度の恐怖。僕が、そんなことをしていたのか。普段は絶対にやらないこと。こいつといると、笑ってしまうのだろうか。

 やっぱり、この女と関わるのはやめようと思った。

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