【5】

女性とは、F駅前で待ち合わせた。女性の息子と、女性と同年輩の男性もいっしょに現れ、女性の息子は、まだ私を警戒していた。

「母さん、気をつけろよ」

「大丈夫よ、西村さんも一緒だし」

西村と紹介された男性が、深く頭を下げた。

「暑いし、面会時間は午後三時らしいので、一休みしてから、行きましょうか」

駅直結のビルの中にある喫茶店で、改めて自己紹介をした。

「あの頃の人たち、偉くなっちゃったり、死んじゃったり。でも、西ちゃんはお元気ね。あのころは、まだ工場も建物が一つで、みんな顔見知りだったわ」

「林さんとは、あまり親しくなかったのですが、でも事故の日のことは、はっきり覚えています」

向かい合って座った西村が言った。

「お昼前だったんですが、工場の機械がみんな止まった。みんなショックを受けてしまって、仕事どころではない状態だったけれど、

でも、午後に再開しました」

「出荷を止めるわけには、いかなかったわね」

「小さい事故は数え切れないほど。とにかく、人が増えて、仕事が増えて、忙しい時期だったな」

西村が吐き出すように言った。

「林さんでなくとも、誰が事故に遭ってもおかしくなかったな。あれから少ししてからかな、安全衛生活動を本格的やって、働き方はずいぶん変わりました」

「林さん、身寄りはない、って聞いていたの。だから、お兄さんという人が駆けつけて、職長がびっくりしていたわよね。ネクタイを締めて、学校の先生だって言うじゃない」

「そろそろ、行きましょうか。タクシーにしましょう」

西村が言った。

「チエちゃん、ボケてきているから、何もわからないかもしれないわ。お母さんとふたり暮らしで。今では何てことないけれど、当時はいき遅れもいいところだったわね。お母さんが亡くなってからも、ずっとひとり暮らしだったのよ」

女性はタクシーの中でも話し続けた。

「工場で経理だったから、その後は、商店街のお店の帳簿のお手伝いとかしていた。事故のときは、他の女の子たちが泣き出して、何もできずにいるときに、警察の案内とか、電話連絡とか、きびきびこなしていた。商業学校を出て、簿記もできる人はやっぱり違うんだな、と思ったわ」

老人施設は山の上などの辺鄙な場所にあるのだと思い込んでいたが、車は市街地の一角の、少し大きめだが、周囲とさほど違和感のない建物の前で止まった。

「このグループホームよ」

女性が先に立ち、入口へ向かう。ガラス扉から入ると、受付に面会時間の表示がある。名前と入所時刻の記入。「友人」でいいわ、と女性。

「最初は、私の息子の友達ということにしましょう。混乱させるのもいやだし、チエちゃん、私のことも、時々分からないの」

個室なんですね、と案内の職員に声をかけると、ユニット型と言って、これからは、これが主流です、と答えが返ってきた。

生活感のない、明るい室内。車椅子に座った細身の女性。黒縁のメガネをかけている。案内の職員が、椅子を持ってきて、部屋に四人だけにしてくれた。窓には、薄いカーテンが引かれている。

「チエちゃん、こんにちは」と女性が明るく声をかけた。

チエちゃんは微笑んで頷いたが、自分からは言葉を発しなかった。訪問者が三人もいることに緊張しているのだろうか。

「お友達よ、気にしないでね」

チエちゃんは再び微笑んで、静か私たちを見つめた。部屋の中の家具は、介護ベッドと整理ダンスだけ。タンスの上に、写真立てがいくつか並んでいる。白黒の、若者たちの集合写真があった。

「チエちゃん、写真みせてね。ほら、みんな若いわね」

女性が言う。

「これがチエちゃんよね」

十人ほどのグループの左端に、控えめに微笑んでいる彼女。

「それで、これが林さんよ」

グループの反対側、やや離れて立った痩せた男がこちらにらんでいる。

「ハイキングに行ったのよ。工場に青年部があって、行事をいろいろ企画していて。林さん、おしゃれしているわね。普段はこんな感じではなかった。チエちゃんがいっしょだったからかな」

女性は当時のことを楽しそうに話し続ける。当時の思い出に酔っているようにも見えた。

「バレーボール、覚えてる?お昼休みにみんなでやったわね。工場の空き地で。まだまわりに、何もなくって」

チエちゃんは微笑みながらうなずくばかりだった。女性にうながされて、私は叔父の姓名を口にした。でも、チエちゃんは黙って微笑むだけだった。エアコンが時々静かに動き、薄いカーテンが揺れた。叔父が片思いしていたというこの女性の中には、叔父の記憶は存在しないようだった。


ドアが少し開き、職員の声。

「そろそろ三十分です、時間厳守でお願いします」

はい、わかりました、と女性。私も、何気なく腕時計を見た。チエちゃんが、シャツの袖口から現れた腕時計に目を止めた。チエちゃんの表情が、さっきまでとは変わっている。

「やっと、つけてくれたのね」

張りのある、けれど少し甘えたような声。チエちゃんはが、私の腕をみつめている。その様子に驚きながら、どう返事しようかと迷った。叔父ならばどう答えただろうか。

「これは高すぎるよ」

チエちゃんが答える。

「いいの、もうすぐお誕生日でしょう」

「でも」

「会社では私のほうが先輩なんだし。ひとり暮らしで大変でしょう」

チエちゃんがうなずく。

「それで、映画は何にするの?映画のあとで、ヨットハーバーに行ってみたいわ。オリンピックの会場になるのよ」

黙ってやりとりを聞いていた女性が、あきれたように言った。

「なんだ、あなたたち、お付き合いをしていたの?」

その声に、チエちゃんがきびしい表情で振り返る。

「まだよ、まだ秘密」

「なんだ、そうだったのか」

女性は繰り返しつぶやいた。

「でもね、映画は明日でしょう?今日は早く寝ないとね」

「そうね、そうだったね、待ちどおしいわ」

チエちゃんが素直に応じた。

「じゃあ、明日ね」

チエちゃんが私に向かって、素早く片手を差し出した。指先が軽く触れ合った。一瞬迷ったが、私は手を伸ばして、桃色のしわだらけの手を握った。はっとしたように彼女が見上げた。彼女の目には驚きがあった。彼女の手に力がこもった。頬が赤く染まった。

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