【3】

バス停から少し歩くと、古いアパートはすぐに見つかった。庭木が大きく育った、庭の広い家が点在している。海岸近くの、商業地区とはちがった雰囲気だ。バス停の路線図によると、この先にはゴルフ場、そして工業団地に続く。叔父も、毎日このバスに乗って工場に通ったのだろうか。

「道路はまだ舗装でなかったらしいわ」

妻が言っていた。

「最初はみんな川崎とかから何時間もかけて通ったんだって。でも、すぐに、寮ができたり、家を建てたりして人口がどんどん増えたらしい」

アパートはインターネット地図で見た通りの姿をしていた。古いブロック塀と、関係者以外立入禁止の看板。建物の裏に回り、携帯電話で建物を撮った。

「なにか御用ですか?誰も住んではいませんよ」

背後から声をかけられた。振り向くと、作業着姿の男が立っている。知らないふりはできない。

「工場で、事故があって」

「はあ?」

「昔のことです、昭和三十九年」

男は少し考えて、

「母が詳しいと思う」

大きい窓で明るい色の、アパートの裏の家へ入っていった。しばらくたって、普段着らしいワンピース姿の女性を奥から連れて来た。女性は、年齢に似合わず、きびきびと歩いてきた。

「林さんのこと?」

女性が叔父の名字を言い当てたのを聞き、胡麻化さないことにする。

「僕の叔父なんです」

少し間をおいて、女性が言った。

「大騒ぎだったのよ。警官が来て、その後で新聞記者が来て。うちのアパートが寮だったし」

そう言って、後ろの建物を指す。

「工場が来たときに、畑を売ってアパートを建てたの。私も、事務員で雇ってもらったの。覚えているわ、後始末に、林さんのお兄さんという人が来ていたわ」

「ナカタさんって、ご存知ですか」

妻のメモを見ながら聞く。父の大学ノートにあった名前だった。

「経理の?」

「さあ?色々お手伝いしてくれた、と聞いています」

「チエちゃんのことね」

女がうなずく。

父のノートによると、F市の寺で葬儀が行われた。父が上京したときの、M市との往復の列車の時刻も几帳面に記入されていた。F市の葬儀のあと、父たちの郷里の、北陸のT市でもう一度葬儀、その1月後に納骨があった様だった。

「チエちゃん、ずいぶん困っていたわ。片思いだったのよ。林さん、アカかもしれないって、みんな噂していた。休み時間には、本ばかり読んでいた。大学を出ていたらしいのに、工員で入ったから、まわりは年下で、中卒や高卒ばかりで。言葉の訛りも、気にしていたんじゃないかな」

女性は私の目を見て続けた。

「あなた、叔父さんのことはまったく何も知らないの」

「叔父がいることさえも、知らなかったんです」

正確には違うのだが、本心だった。その言葉が、女性の興味をひいたのだろうか。

「チエちゃんに会ってみる?彼女も、何か話してくれるかもしれないわ」

女性は言った。


「国会図書館で、T大学の卒業生名簿を確認できたわ、それに入学もね」

JRから地下鉄に乗り継いで永田町まで。学生時代の資料集めを思い出した、と言った。T大学の入学は、地方新聞の紙面で確認。マイクロフィルムで、当時の紙面の合格者名簿を探したのだと言う。昭和二十四年に入学。まだ日本は占領下、新制大学が発足して二年目。でも、卒業はそれから十年後の昭和三十四年。

「やっぱり、学生運動で何かあったのかしら。十年かかっての卒業よ」

当時の新聞には「赤い学生」という言葉もあったという。

「工場での事故も、何かのトラブルかしら」

「トラブルって」

「そうね、組合活動で争いがあったとか」

「それで事故?推理小説みたいだな」

「さすがに、考えすぎよね」

自嘲気味に妻はつぶやいた。

「さて、生徒たちの宿題も見なくちゃ」

妻はデスクの大きなディスプレイ画面を振り返った。宿題の提出は、今ではオンラインになっているらしい。

「生徒たちには悪いけれど、こちらは全く楽しくない作業ね」

「この1ヶ月くらい、図書館に行くようになってから、生き生きしてるな」

「そうかしら?でも、たしかに修論を書いていた時にちょっと似ている。何週間も図書館に通って、資料を集めて、研究室にこもって、何度も書き直しをして。ずっとこんな仕事をしていたい、と思ったわ。その後、私には狭き門、と思い知らされたのだけれど」

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