迷花 6
この前憂葉に見せたカラーラフが、今完成近くなっているのだけれど、行き詰まってしまった。
私は筆が早いほうではないということは、タイムラプス動画を見てもらえばわかると思う。ラフの時点で何度もエスキースを描いては消し、決まったと思えば腕や足を何度も書き直すのが見られる。
イラスト用語におけるタイムラプスとは、いわゆるメイキング動画のこと。イラスト作成ソフトが制作過程をストローク単位で記録したものを、軽量の動画ファイルとして出力してくれるようになってから、絵師たちはタイムラプスと呼ばれるそれを保存するようになった。
詰まったときにこれを見直すと、〝この段階のほうが良かった〟という時点が見つかって、それを採用することがある。あるいは、余計に迷って、時間がかかることになる。
このタイムラプスも今では偽造されようとしているけれど、そのときは私達がもっと証明にコストをかけるしかないだろう。
進捗が遅くなる原因は、私の場合は大抵、レイヤーが多くなりすぎて自分でも前後の順序がわからなくなっていることにある。私の尊敬していた、夭折した韓国の絵師はレイヤーを1000枚使っていたらしいけれど、私もフォルダーに折りたたんだレイヤーを展開すると100枚近くになることがある。線画フォルダには色トレスレイヤー、陰影や色彩フォルダにはグラデーションをつけるためのレイヤーがクリッピングレイヤーとして付属している。
「修飾語みたいに?」
憂葉は言った。ここを訪れたときと同様、帰りのバスの隣の席で。
このレイヤー構造を見た憂葉は、言語の取る階層構造に似ているとか、樹形図にしたいとか言っていた。なんだか偉い言語学者の名前を出しながら。絵と文章の類似について私達は考えてきたけれど、作品として提示される最終段階の画像ではなく、作成途中のPSDファイルの構造と言語の文法を比べるなんて、思いもよらなかった。
「このレイヤーの順序を変えると非文になるんだよね?線画が主語で、陰影が述語なのかな?」
憂葉が考え込んだ。私はじれったくなって言った。
「じゃあ、もし私がレイヤーを統合して、線と陰影と色彩を同時に描き始めたら?」
レイヤーが多くなりすぎてよくわからなくなったら、統合してしまうのが一番だ。私は〝表示レイヤーを結合〟をクリックした。
「ああ、樹状構造が消えてしまった。やっぱり対応しないのかな?」
憂葉は大げさにがっかりしてみせて、私は笑った。憂葉は何かを理解することにかけるコストを全く惜しまない。それは私に対しても昔から同じだった。
駅で私達は、また何かを一緒に作ることを約束して別れた。
言語化はときには暴力的になりうるけれど、憂葉のそれは私にとって心地よいし、驚きに満ちている。理解したいという目的で行われているからだ。それは、無断転載サイト由来のアノテーションや、マスピ顔を記号のような共有物に貶めたプロンプトとは違う。数万のいいねや、海外勢が押していくスタンプよりも、私にとって価値のあるものだ。
憂葉は遠い二つの樹形図の間の翻訳者で、私をすでに言葉と数値に支配された世界につなぎとめてくれる。
絵が完成に近くなっても、細部の調整や色調補正フィルタで全体の色味を変える工程が終わらないこともある。無限に思える段階と組み合わせがあるのに、そこから一つを選んで完成品としてしまうことが奇跡に思える。
彼らはアートは選択だと言い、自分たちは無数の出力結果から良いアートを選別していると言う。たしかにアートは選択だ。でもその選択は、あらゆる段階においてなされなければならない。そうでなければ、情報の発生源になれないからだ。pixel一つに至る細部、線の角度、強弱、すべてをコントロールしなければならない。なぜならそれが出来るからだ。自由であることの証明ができるから。
選択の痕跡。
私は描くことをやめることが出来ない。絵以外に何もないからだ。
あの洞窟でシノエさんは、私たちが描き続けることは抵抗の一種だと言った。絵と文字の起源にまつわる神話を捏造しながら。それは絵と言葉が分かたれたそのときから続いてきた、終わることのない抵抗なのだと。
私が描き続けることを抵抗と呼ぶのなら、きっとそうなのかもしれない。ただ生きることが。選択して、その痕跡を刻みつけることが。
今回の絵はこれで完成、私はSNSに投稿した。ハート型をした、数万の静かな拍手を期待しながら。
了
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