迷花 3

 Xでイラストを上げるとき、タイトルすらつけないことがある。PVを稼ぐのに効率が良い二次創作のときは、ファンアートタグやキャラ名をつける。でもそれはタイトルじゃない。何も文字を打たずに、絵だけアップロードして投稿することがある。ちょっと立ち止まって考えてみると、これは異様なことだ。私は授業の講評でも展覧会でも、タイトルをつけずに絵をギャラリーに飾ったことなんてない。pixivでさえ、タイトルを入力する欄はあって、空白にしてもそのスペースは意識され、無題を含意する。

 なのに、Xではタイトルがあったはずの空白すら無い、最初からタイトルを持つ気がなかった存在として産み落とされる。

 これは見方によっては、作品扱いされていないとも取れる。でも私は、好意的に捉えたい。

 いつから絵にはタイトルが必要になった?分類されて、美術館に収蔵されるため?18世紀の美術サロン?ダヴィンチはモナ・リザにモナ・リザというタイトルをつけたわけではなく、後世の人がそう名付けた。サロンでは出品する際に何が書かれているか画題を申告するために、いわば事務的な理由でタイトルが必要とされた。タイトルはその後、書かれた対象そのものから乖離して、抽象的なテーマや仄めかしを表現するようにさえなった。

 でも、Xでの二次創作キャラクターイラストにはそれがほとんど必要ない。キャラクターイラストに「無題」とか、「これはパイプではない」とか暗示的なタイトルをつける必要はない。描かれたキャラ名と作品名をタグにすればいいだけだ。これは画題への退行に見えるが、言い換えれば絵描きは自主的にタイトルをつけようとしないということ。評論の場がそれを必要とする。絵描きの外部がそれを必要としたのだ。

 生成AIの学習素材となる、無断転載サイトでつけられた詳細なタグ、それをもとにした訓練時のアノテーションや、生成時のプロンプト。これらも、絵描きが必要としなかった言語化の例だ。

 人間の鑑賞者による、評論や感想の形をした言語化は、新しい発見につながる貴重な反応だ。憂葉がくれる感想がその最大の例だ。

 でも無断転載サイトのタグ、鑑賞者のためのラベルは、絵をむしろ文脈から切り離し、評価を固定化し、まるで記号のように共有するためにある。


 SNSのイラスト界隈は、そういう意味では絵という言語だけで会話が交わされ、数字で勝敗が決まる、歴史上類を見ないほど直接的で純粋でナイーヴな、闘技場のようなもの。参加するのに何の資格もいらない、国籍や言語さえ関係のない、サブカルチャーと大衆芸術のコロセウムが、SNSの普及とともに意図せず出現したのだった。

 でも私は承認欲求と企業の広告にまみれたその闘技場を、肯定的に見ている。その参加者として、舞台の上から。品評者を狙い撃ちしなければならない品評会をビリヤードとするなら、SNSでの評価はたくさんの分子を振動させて起こす熱だ。私はどちらかというと熱を起こすほうが得意で、だから〝絵師〟のほうが性に合っている。ある意味において公正で平等な、絵師たちの闘技場にいるほうが居心地が良い。

 でもそれはあまりにも脆弱で、運営する企業や、億万長者の気まぐれ、生成AIのようなチートツールによって、いとも簡単に混乱に陥ってしまう。そのとき私はその競技場を守ろうとするけれど、人々はそもそも存在するべきでなかったと見捨てるだろう。

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