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憂葉 3
海外ですでに活発な議論が起こっていることは、日本では実感しづらいと思う。先輩に対する反論を、私はその大きなうねりの中に発見した。
2024年10月23日に〝創作物の無断AI学習を許可すべきではない〟という趣旨の声明を発表し、カズオ・イシグロやトム・ヨーク、テッド・チャンなどの著名なクリエイターの署名を集めてfairly traindを立ち上げたエンジニア、Ed Newton-Rexはこう言った。
〝人間が他の創作物を見て行う学習は古くから結ばれてきた社会契約の一種であり、作家はそれを前提として創作物を世に発表し、他人に学習されることのコストは価格に織り込まれている。一方で、生成AIの学習にはそのような社会契約が存在したことはない。クリエイターは、AIシステムがそこから学び、競合するコンテンツを大規模に作成できるようになることを期待して作品を作成し、公開したわけではない〟
議論と係争は続いていて、分断は深まっている。でも私はその矢面に立ちたいわけではなく、原因が知りたい。社会契約という言葉は心強かったが、それでもAIを受け入れているクリエイター達と、受け入れないクリエイターがいることの説明としては物足りなかった。
生成AIに関する論争について調べるうちに、私は言語学の授業で見知った名前に出会った。ノーム・チョムスキー。生成文法理論によって言語学に革命を起こしたと言われる知の巨人は近年、LLMを批判していた。私の創作に関する問題意識が、思わぬところで大学での授業と交差したようだった。彼の批判に、何かヒントがないだろうか?
生成文法理論とはどういうものか。簡単に説明すると、人間がことばを使う能力が、脳に生まれつき組み込まれた専用の本能(普遍文法)によるものだというのが、チョムスキーの理論だ。
対して、白紙(タブラ・ラサ)で生まれてきた赤ん坊に、刺激という名の大量の入力が与えられることで、一から言語が習得されるというのが、行動主義心理学から提唱された学習説だ。
この学習説における人間像は、生成AIと近い。なにしろLLMは文法や語彙といった言語に関する一切の予備知識を与えられないのに、大量の入力のみによって、文法的に破綻しない言語を話してしまうのだから。LLMの成功は、学習説の勝利を意味するのだろうか?
一方で人間の赤ん坊は明らかに極めて少ない情報から言語を習得してしまう。(刺激の貧困)それが可能である理由は、学習説では説明できない。
チョムスキーはそのキャリアを通じて長く学習説を批判してきたが、LLMはそのような論敵の最新版だったに過ぎない。彼の主張は半世紀前から一貫している。
ところでこの生成文法理論は、なぜそのままそっくり、言語ではなく絵に適用してはならないのだろう?絵画版の普遍文法が人間の脳に組み込まれているなら、白紙から50億枚の画像の入力によって学習する画像生成AIにはそれがないことになる。このような根源的な違いを明らかにすれば、人間のアーティストの学習を擁護しながら、矛盾なく生成AIによる学習を批判できるのではないだろうか?なにしろ、同じニューラルネットワークでも、動物の脳には生成文法が備わっていないとされているのだから。
「面白いね。アイデアとしては」
言語学コース担当の准教授である津幹先生は、〝絵画版の生成文法〟について考えたいという私の研究計画書を見て、そう言った。まずは何でも褒めてくれる傾向にある彼は、次に難点を指摘した。
「でも幼児の絵について調べるのは、発達心理学のようになってしまうし、人が絵画をどのように見るかというのは表象文化論や視覚心理学というジャンルになるかもしれない。この部分、マーク・チャンギージーの文字の形状に関する普遍的規則に関する論文を引用して、脳が絵を描く機能を生得的に持っているのではないか、という仮説を立てるあなたの発想も面白いけれど。それも、あくまでチョムスキーの普遍文法とのアナロジーにすぎない」
「それはわかっているんです......」私は認めた。「絵を描く能力が言語みたいに生得的に脳に組み込まれてるなんてことが、ありそうにないということくらい。言語は生存に有利だけど、絵を描く能力は到底有利ではなさそうなので」
「まあ、何かの副産物かもしれないじゃない。それこそ、言語の副産物が絵かもしれないね」先生はフォローした。「いずれにせよ、分野横断的すぎて、資料集めとか大変だよ」
「参考となる先行研究がないんです。絵を見るときに鑑賞者の中で何が起こっているのかを考える学問はあっても、描いている人の内部で――絵描きの視点で何が起こっているのかについて書いてある本がほとんどないと思いました」
「画家が語ろうとしないのだろう。彼らは我々と違って饒舌ではないからね」
たしかに、私はSNSでたくさんの絵師をフォローしているが、絵を上げる以外にほとんど発言しない人が多い。
私が〈アンフィテアタ〉を訪れるのは、そうした研究テーマの参考になるかもしれないという期待も理由のひとつだ。また、小説業界とイラスト業界の間でAIに対する許容度がこうも異なるのは何故かという疑問への、何らかのヒントが得られたらという期待もある。
いや、私は自分に嘘をついている。私は無断学習を批判して、活動家のようにアーティストたちの称賛を得たいわけではない。それに、先生に言ったように学術的な疑問も、言い訳だったのかもしれない。
私の疑問を言い換えるならこうだ。〝なぜ私は、迷花の言葉で話せないのだろう?〟なぜ迷花は我々の知る日本語という言葉に加えて、絵と呼ばれる特殊な言語を使用して絵師たちと話すのに、私は単一の言語しか話せないのだろう?
私が今から絵を学んでその会話に参入するのも悪くはない。しかし同じ言語同士が通じるのは当たり前だ。私は絵のネイティブスピーカーになりたいのではなく、なることもできない。私は、私の言葉と相互翻訳できないものがあることが耐え難いだけだ。
この苦しさを紛らわせるために、第二言語としてすら習得する機会が与えられない絵という言語でコミュニケーションを取りたい人々が利用する自動翻訳機が、生成AIアートなのではないだろうか?言語を絵に変換したいという欲望を持て余した人々が。だとしたら、私は彼らを責められない。
私は迷花とは同じ側ではいられないかもしれない。言語と絵の根源的な違いが、AIに対する態度の差の原因なのだと証明できたとして、その乖離はそのまま、私と迷花を引き裂くかもしれない。
「かわいそうなサラ・コナーたちによろしく」
私がアンフィテアタに向かう前日、叶木先輩は言った。
「その映画観ました」私は言った。
先輩が揶揄のつもりで出したであろうそのキャラクター名は、映画の二作目を見た後では、彼女たちを表象するのに適切に思えるようになった。LoRAやディープフェイクの被害者たちの恐怖は、まるで液体金属のアンドロイドに追われるようだ。それは誰の容貌にも成り代わることが出来て、気付かないうちにあなたはそれを自分のタイムラインに招き入れるかもしれない。それはあなたのミミックとなって、あなたが絶対に取らない振る舞いをするが、他人はその不気味な差異に気づくことがない。最後にそれは、あなたの持っている価値を毀損するだろう。それは疲れを知らず、あなたの逃げ場はどこにも無い。
サラ・コナーはシリーズを重ねるごとに機械に対する不信と信頼の間で揺れ動くキャラクターとして描かれていた。白髪になってもショットガンを手放さずに。サラが〝息子に対して手をあげず、四六時中相手をするこのマシンのほうが、私が会ってきた男たちより父親に向いている〟という意味のことを言うシーンが興味深かった。彼らは自分以外の全てを機械で代替したがるが、自分自身が代替されるべき属性かもしれないと、作品が言っているように私には思えた。
「でも、キャメロン監督は今AI利用を肯定しているよ」
「私が言いたいのは、搾取はいつも似たような形態をとるということです」
他人の持っている能力や身体的価値を、その人の人格から切り離して自分が所有したいという願望。その切り離しの手段として、物質的な暴力や制度ではなく、統計処理やパターン認識が使われるようになっただけなのでは?
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