憂葉 2

 迷花を下宿に置いた翌日、研究室に寄って私が〈アンフィテアタ〉に行くと報告すると、叶木先輩は言った。

「あそこって、サラ・コナーみたいなのが大量にいるカルト施設って噂だけど」

 先輩は院生で、言語学に関する雑学をyoutubeやテキストサイトに投稿している。AI生成されたイラストをサムネイルにして。そうしたサイトのサムネイル一覧は、まるでイルカ以外も描くと決意した多作のラッセンが現れたようだった。

「サラ・コナーって誰です?」と私。

「『ターミネーター』シリーズ、知らない?まあ、昔の映画だから憂葉さんが知らないのも当然だけど。要するに、未来では反乱を起こしたロボット軍に人類が滅ぼされるはずだという被害妄想を持った人たちのことだよ」

 私も題名だけは知っていた。AIやシンギュラリティに対する恐怖感という文脈でよく引用されるので、突飛な引用というわけではないと思う。でも、その誇張されたイメージに私は不安になってきた。

「でも、ほとんどがアーティストなんですよね?私、友達を連れて行っても大丈夫ですよね?」

「多分ね。別にミッドサマーみたいな因習村というわけでもないだろうから。でも、新しい技術との共存を拒んでゲーテッドコミュニティに閉じこもるという選択に、未来があるとは思えない」

「たしかに」

 もし閉じこもるだけならそうだと、私は部分的に同意した。


 迷花がLoRA被害を訴えてから今までの数か月、私は生成AIアートについて調べ、叶木先輩とも議論することがあった。叶木先輩は最も生成AIを有効活用しているであろうユーザーの一人であり、利用には法的に全く問題がないと公言していた。一方で私がAIに抱く漠然とした嫌悪感は、倫理的判断からくるものではなく、友人に対する同情から来る感情的なものだと先輩から指摘されても、否定できなかった。私自身、迷花に共感するあまり、それらの区別がつかなかった。


 AIがクリスタ同様の単なる画材・新しいツールであり、いずれは共存することになると叶木先輩のようなAIユーザーは考えている。対して、私は迷花がそうしないであろうことは何となく予想できる。デジタルブラシの一ストロークごとに快楽を見出すかのような彼女が、効率化のためとはいえ、他人から抽出した統計的パターンに決定を委ねるとは思えない。しかし、絵師の全員がそうかはわからないし、そうしない明確な理由を私には言語化できない。

 とはいえ、今のところほとんどの〝絵師〟たちはAI利用を拒んでいるのが現実だ。pixivやfanboxやskebなどのイラスト系SNSは、当初のどっちつかずの対応から、規約で隔離を明言せざるを得なくなった。それほど、日本の絵師や海外イラストレーターの拒絶は強かったのだ。彼らのほとんどはプロフィールにAI学習禁止と記載した。その効果がどうあれ、そう意思表示した。イラストソフトのprocreateはAIを利用しないと宣言し、国内外のアーティスト達に称賛された。

 一方で文学系の新人賞はAI利用を条件付きで認めた。部分的にAI利用した小説が大きな文学賞を取った。アマチュア小説家たちは、生成イラストを自分たちのweb小説の表紙にした。イラストレーターたちが、彼らの作品を学習素材として提供することに同意したことの一度も無い生成AIを使って。AI利用に抵抗がない文学系のコミュニティと、私の友人が属する絵師コミュニティとの温度差に、私は大げさに言えば身を引き裂かれる気分だった。いわゆる〝オタク〟コミュニティのジャンル間で、このような大規模な対立が発生したことは今までなかったと思う。逆に、大げさではなく控え目に言えば、興味を持てなかった。私はSNS上での生成AIアートに関する議論がほとんど政治的な分断のようになりつつあるのを眺めていたが、参加はしないことにしていた。私はそれよりも、もっと原理的な部分に興味があったからだ。

 なぜ、絵師は生成AIを拒絶するのに、小説家は受け入れるのだろう?その差が生まれる原因は、収益のためのシステムや、各種コミュニティに属する人々の性格だけではなく、もっと根本的に、アートの形態そのものにあるのではないか?根源的には、絵と言語の違いそのものに。

 絵師と同じ陣営には、声優などが入ることもあり、小説家の側にはDTM系の作曲家がつくこともある。それらの様式の違いが、AIに対する態度の差を生み出しているのだろうか?身体的なアートであるかどうかの違いが。


「無断学習を彼らは批判するけれど、小説における引用や音楽のサンプリングは、人間の芸術家が昔から行ってきたことだ。そうした学習を禁止することは、芸術の発展を妨げるだけだ」

 叶木先輩は言った。たしかに、だから小説家は生成AIに親和的なのかもしれない。生成AIを批判するロジックによって、人間によるオマージュやパスティーシュを封じられてはいけない。

 しかし、絵には引用に相当する対応物を見つけることができない。コラージュや同じモチーフを描くことがそれに近いのだが、画家たちはそれを引用とは呼ばなかった。絵師たちは、模写やトレスなどの段階に細分化してその境界を見定めようとしている。そこでは、なんらかの形で絵描きの身体を通って加工されていることが重要であるようだった。私の頭の中の翻訳装置は、なんらかの翻訳喪失を訴えていた。手を動かすこと、自分の声帯を使って演技し、あるいは歌うこと、それらの身体的な芸術に従事する人たちには、言葉や楽譜のような形では〝シェア〟してはいけない、禁忌の境界線があるようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る