2-5
◯
夜である。
日もくれ、街灯の灯りだけが頼りになる頃。ぼくたちは人気がなくなった府立大学の正門へ再びやってきていた。
「ここにはいない、か……」
女装させた助悪郎を二、三十分ぶらつかせてみたが、釣れたのはナンパ目的の大学生が二、三人だけだった。尻を触られ、助悪郎は泣いていた。
「嗅ぎ付けられたねぐらをそのまま使い続けるほどアホではなかった、ということだろう」
ぼくは言って、腕を組む。元々、期待してはいなかった。もし相手がアホだったら儲け物だな、程度の考えだ。
「じゃあ俺なんのためにケツ触られてまでここで突っ立ってたんだよ……」
「女の子は『ケツ』なんて言わないよ!」
「性差別だ……」
メス堕ち指導員の小鳥遊さんによる指摘を受けながら、助悪郎はスカートの裾を整える。
彼——いや、今や彼女と呼ぶ方が適切であろうか。彼女は大事な釣り餌だ。へこたれてもらっては困る。
「少なくとも、元が男だと気付かれない程度には完璧な変装になっているということだ。それが分かっただけでも儲け物ではないか」
ぼくは言って、彼の肩を叩いた。「ピピーッ! セクハラですよ!」と小鳥遊さんから注意が入る。確かに、婦女子の体に安易に触れるなど紳士的な振る舞いではなかった。
「俺は婦女子じゃない……」
泣き言を言う助悪郎を引きずって、次の候補地——鴨川へと向かう。
「で、今度はどうしろって?」
大学のすぐ裏が、もう鴨川だった。三人連れ立って川沿いを歩き、府立植物園の真裏で立ち止まる。ぼくは顎をしゃくった。
「あの飛び石があるだろう」
土手の下。川を横断するように、三角形のコンクリートブロックがずらずらと並んでいた。流れがそれに遮られて、そこだけ細波が立っている。
「あれを渡れ」
「ええ〜! スカートで!?」
「誰も見てなどいないだろう、いいから渡れ」
急に乙女ぶったことを言い出した助悪郎の背を押す。本当は蹴ってやろうかと思ったが、紳士的な配慮というやつだ。助悪郎はまだもぶつぶつと文句を言ってはいたが、結局は従い、飛び石の方へと階段を降りていった。
「しかし……釣られますかね?」
小鳥遊氏が不安そうに問う。
「それに関しては、心配入りませんよ。あいつには、たっぷりと匂いが付いていますから」
——血の匂いが。
「血の匂い……?」
「ええ」
ぼくは頷く。
昼間。襲いかかってきた影鰐が——なぜ、助悪郎に喰らい付いたのか? 槇島氏の彼氏だったからか? いいや違う。今京都で起こっているのは無差別殺人だ。特定のターゲットを狙ってのことではないだろう。ではなぜ?
その答えは——
「影鰐とは、鮫の妖怪です」
鰐とは言うが、鮫である。師匠から聞いた話だ。
鰐とは鮫の古語、あるいは方言のようなものだ。影鰐の伝承と故郷を同じくする、かの有名な因幡の白兎伝説でも、兎が鰐を騙くらかしてその背を渡る、という描写が出てくるが、あそこで言う鰐とは爬虫類の鰐ではなく、鮫を指しているという。
そして——
「鮫は、血の匂いに敏感なのですよ」
影という二次元空間上の世界を生きる影鰐が、どうして三次元空間に生きる我々を検知できるのか。
その答えが、嗅覚だ。
鮫は、オリンピック用のプールに垂らされた一滴の血にさえ反応すると言われる鋭敏な嗅覚を持っている。それは、同じく鮫の妖怪である影鰐もまた、持ち合わせる特性なのだろう。
だからこそ、あの時。
ポチコに襲われて血を流していた助悪郎が、真っ先に標的として選ばれたのだ。
「ちょっと待ってください、それなら、実丹の時は? あの時はどうして、私ではなく、実丹が標的に選ばれたんですか?」
実丹は、怪我なんてしていなかったはずです——
問いかける小鳥遊氏だが、その答えは一つだろう。ぼくは少し言いづらくも、しかし答えを口にする。
「おそらく——ですが。その……月のものが関係していたのではないか、と」
「あ——」
女性特有の事情により、おそらく、槇島氏からは血の匂いが漂ってしまっていたのだろう。人間には気付けずとも——妖怪には、気付けるほどの。
「ですので、今の助悪郎になら、間違いなく食いつきますよ。昼間に付いた傷が、今も治っていないままですから」
さぞや新鮮な——美味そうな血の匂いが。漂っていることだろう。
だからこそ——影鰐は必ず、餌に喰らいつく。
ぼくたちは飛び石を渡る助悪郎を見守った。
この付近で、広い水場といえば、この賀茂川だ。影を泳ぐとはいえ、水の妖怪。影鰐が住まうには、もってこいの環境だろう。
月明かりだけが照らす中、助悪郎はおっかなびっくり、三角形のコンクリートを飛び越えていく。そこにはちらほらと、丸いエンブレムが埋め込まれている。夜ゆえに見えにくいが、その模様は、花、鳥、手裏剣、そして——魚。
ぼちゃん。
「——っ、助悪郎!」
思わず声を上げる。みれば、助悪郎の履くスカートの裾が、ばっさりと食いちぎられていた。
「わ、わあ——っ」
ぼちゃん、ぼちゃん、ぼちゃん——
連続して水音が立つ。月下。助悪郎を啄まんと、川面に影の魚がうねる。それは実体を持つ魚ではなく、巨大な、影だけの魚——影鰐だ。
「走れっ!」
ぼくの声に、助悪郎は弾かれたように走り出す。踵を返して、岸を目指し一直線に。スカートの裾を押さえながら、飛び石を跳ねるようにして駆け抜ける。
影鰐はそれを追って、水面を滑るように泳ぎ出した。
「もう少し——」
あと一歩で岸、という瞬間——
ぼちゃん。
一際大きな水音が立って、助悪郎の体ががくりと下がる。
「——っ、え!?」
驚いて、助悪郎は己の足元を見た。そして——戦慄する。
足首より下が、影に呑まれていた。
「い、伊江郎っ!」
助悪郎が叫ぶよりも早く、ぼくは飛び出していた。
「う——おおおおおおおおっ!」
助悪郎の手を掴み、思い切り引っ張る。助悪郎という餌に喰らい付いた影鰐を、釣り上げるように。
ず、ずず——
力負けし、ぼくの方もまた助悪郎と共に影に引き摺り込まれそうになるが——
「今だ、助悪郎!」
ぼくが叫べば、彼は己のスカートの中に手を突っ込んだ。そして——
視界が眩み、焼き尽くされるほどの閃光が、夜を切り裂く。
——
それこそが、師匠からスルメ三枚で貰い受けた、手段だった。一体どんなルートからこんな兵器を仕入れてきたのか、気になる限りではあったが、今は置いておこう。
助悪郎がスカートの下に仕込んでおいたそれを起爆したことにより、あたりは一面光に満ちた。同時に響き渡る爆音が鼓膜を揺らし、思わず体が硬直しそうになるが——今こそが好機。
ぼくは腰を据えて踏ん張り、助悪郎の体を全力で引っ張り上げた。
「——一本釣りぃっ!」
全ての影が消え去る極大の閃光の中、行き場を無くした影の魚が、実体化する。
「ギッ——ィイイイイ!」
聞くに耐えない不気味な叫び声をあげながら、影の魚が現実へと打ち上がった。
師匠に曰く。影鰐は影という二次元の世界に生きる魚であるが、決して実体がどこにもないわけではないのだ、という。
もし仮に——どこにも影がない状態を作り出せれば、影鰐は影の体を保てなくなり、三次元空間に弾き出され、実体化してしまうのだという。ちょうど——今のように。
ぼくは釣り上がった影鰐の姿を見る。
助悪郎の足首に噛みついていたのは、鯰と鮫の間の子のような、ぬめり気のある不気味な姿の魚だった。
二メートルはあろうかという、でっぷりと超えた体。それが助悪郎と共に川岸の土手に打ち上がり、びたびたと跳ね回る。
「まずいっ、水に戻らねば——」
「戻らせると思うか?」
助悪郎から口を離し、跳ね回る勢いのまま鴨川へ飛び込もうとしていた影鰐の尾を、ガッチリと掴む。酷く滑るが、逃しはしない。
「痛でぇっ!」
引きちぎる勢いで尾を掴まれた影鰐は、くぐもった声で悲鳴を上げた。残念ながら——哀れみの念は、これっぽっちも浮かび上がらない。
「さあ、吐いてもらうぞ」
ぶん、とその巨体を大きく振り回す。ジャイアントスイング。振り回された巨体を、遠心力と共にさらに陸地へ放り飛ばす。同時に、己の髪の毛が抜けていくのを感じる——人間のそれを遥かに超える怪力は、河童の特性の一つだ。
「ぐえっ」
川沿いのランニングロードに叩きつけられ、悲鳴を上げた影鰐を追って、ぼくもまた土手の上へと一息に飛び上がる。背後で、転がったままの助悪郎が「俺が殴る分も取っとけよ!」と叫ぶが、それは状況次第である。
月明かりが照らす中、ぬらりと輝く漆黒の怪魚が、土の上を這いずっていた。
「おい、待てよ、話し合おうぜ——っ、アギャアアアアアアアアアアアアッ!!」
川の方へにじり寄っていた怪魚の土手っ腹を、ぼくは思いっきり踏みつけた。
「黙れ、人喰いの化け物め」
「おおおおい、おい、おい! までよ、まっでぐれよ!」
柔らかい腹を踏みつけられて、苦しみ悶える影鰐は、必死に声を荒げる。
「あんだ、あんだもようがいだろうがよ」
「ぼくは人間だ」
「おめぇみでぇになまぐぜぇにんげんがいるがよ、あんだ、あんだぁ
「違う」
ぼくは叫んで、影鰐を思い切り蹴り飛ばした。「ぐぱ」と奇妙な呻きを漏らし、影鰐は地面をゴロゴロところがる。
「ぼくは人間だ。河童ではない。きゅうりも食べないし水泳もやらない。教室に裸で入り込んだりもしない。どこに出しても恥ずかしくない立派な霊長類だ」
あんな薄汚い爬虫類もどきとどうして一緒くたにされなければならないのか。最低の侮辱だ。一人の人間として、強い憤りを感じる。
「はぁ、はぁ——なんだあんた、狂ってんのか?」
踏みつけから解放された分、少し苦しみがマシになったのか、影鰐は早口で喋り出す。
「どんだけ人間のふりしたって、河童は河童だろうがよ。あんたも、こっち側だ! 見逃してくれよ! 同じ妖怪のよしみだろう!」
「いいことを教えてやる」
ぼくは怯えて縮こまる影鰐の元へ、ゆっくりと近付いていく。
「ぼくはぼくを河童と呼ぶやつが、この世の何より大嫌いだ」
それを言い終えた瞬間——ちょうど、小鳥遊氏が小走りでこちらへとやってくる。
「伊江郎くん、持ってきました!」
「ありがとうございます」
彼女がぼくに渡したのは——肩までを覆う、長いゴム手袋だった。ぼくは差し出されたままに、それを両腕に嵌める。
「な、なんだ、手袋なんてつけやがって——」
「影鰐よ。お前は確か、島根の出身なんだってな?」
「は——?」
突然故郷を問われた影鰐は、呆気に取られたようにポカンと口を開ける。その隙を見逃さず、ぼくはその巨体をごろりと転がし、仰向けにした。
「この関西には、一つ、有名な脅し文句がある」
「お、脅し文句?」
「そうだ。こんな台詞を聞いたことはないか?」
——ケツの穴から手ぇ突っ込んで奥歯ガタガタ言わせたろか!
「——まさか」
「影鰐は、喰らった獲物を消化するまでに時間が掛かるんだそうだな」
今、槇島氏が果たしてどの辺りにいるのかはわからないが——
「いずれにせよ、吐く気がないなら、引き摺り出すしかあるまいよ」
ぼくは裏返ったままの影鰐の体を踏みつけ——その肛門を探した。
「待て。待て待て待て待て待てお前!!」
「小鳥遊さん、ちょっとライトで照らしてもらえますか?」
「任せてください」
スマホのライトが点灯し、影鰐の体を照らす。……あった、ここだな。
「おい、お前正気か!」
「ごめんなさい伊江郎くん。こんな辛い役目を任せてしまって……」
「いえいえ、まさか女性にやらせるわけにはいきませんからね」
前世紀の価値観と笑いたくば笑え。女の前では、男は格好をつけたくなるものなのだ。
ぼくは影鰐の肛門に、握り拳を添えた。
「嘘だろ! せめて口からだろ、そういうのは!」
「口からだと、牙が怖いだろうが」
影鰐の口腔には、鋭い牙がずらりと並んでいる。それさえなければ口からでもよかったのだが、仕方がない。
「仕方がないでケツに手を突っ込むやつがあるか! わかった、吐く、吐くから、それだけはやめ——」
「じゃあ行くぞ。そーれっ」
ずぼっ。
「——————アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッッッ!!!!!」
静謐なる月夜に、影鰐の声がこだまする。
伝承に曰く、河童は獲物の尻子玉を奪うがために、肛門に腕を突っ込むのだという。そういう意味では、ぼくのこの行いは、非常に大きな頭髪的リスクをはらんだ行為だったとも言えるが、幸にして、これによってぼくの頭皮が傷付くことはなかった。
それはきっと、その場所から引き摺り出したのが尻子玉なんて意味不明なものではなく——飲み込まれていた、槇島氏の体だったからだろう。
かくして、救出は成功した。
ぽっかりと広がった穴から引き摺り出された、五体満足の槇島氏が、「ううん……」と呻くのを眺めながら、ぼくは確かな達成感と共に、額の汗を拭ったのだった。
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