2-4


 ◯


「影鰐、であろうな」


 師匠は顎を撫でながら言った。


「鰐?」

「鰐とは言うが、ありゃ鮫のことだ。古語でな。元々は、島根の妖怪であると聞く」


 曰くして。

 影鰐とは影を泳ぐ実体のない魚であり、海面に映った船乗りの影を喰み、そのまま殺してしまうのだ、という。


「影鰐に、物理的な攻撃は一切通用せん。咄嗟に四股を踏んだのはようやったわ。もし追い払えなんだら——」

「……なんだら?」


 不安そうに、助悪郎が問いかける。


「ま、


 師匠はそれだけを言って、酒を一口飲んだ。

 橋の下。命からがら影の魚——影鰐から逃れたぼくたちは、師匠の居住まいに集合していた。


「……実丹は、助かるんですか?」


 小鳥遊氏は師匠に問う。当たり前の不安だろう。ぼくもまた、唾を飲んで師匠の答えを待った。


「……五分ごぶ、というところか」


 師匠は眉を寄せた。


「話を聞くに、その影は、影鰐としては、だ」


 語るに曰く。

 影鰐が人を喰らう時、そのには、時間がかかるものなのだ、という。その体のサイズが小さければ小さいほど、なおさらに。


「消化というても、尋常の生き物がするそれではないわい。酸でドロドロに蕩されるということはなかろう」


 師匠の言葉に、小鳥遊氏と助悪郎は胸を撫で下ろす。

 しかし——


「間違いなく、


 その安心を打ち砕くように、師匠は言った。


「影鰐は時間をかけて、喰うた人間のを蕩かすでな。徐々に徐々に影に喰らわれ、


 影鰐に食われるとはそういうことだ——と師匠は語った。それは死よりも恐ろしい末期だ。


「だからこそ——出来るだけ早く見つけねばならぬ」


 槇島氏が影鰐に喰らい尽くされ——この世から消えてしまうより前に、それを必要があると師匠は言った。


「その方法は、あるのですか」


 ぼくが問えば——師匠はに、と意地悪く笑った。


「スルメ三枚」


 それで、手を打とう。


 ◯


 業突く張りの爺にスルメを叩き渡し、ぼくらは槇島氏救出の手段を得た。

 問題は——どうやって、影鰐を捕まえるか、だ。


「以前のように誘き出されては——くれないだろうな」


 ぼくの四股が与えるダメージを、影鰐は良くも悪くも思い知ってしまっただろう。以前のように、獲物と見て自分から寄ってくるようなことは、もうあるまい。


「地道に探す——しか、ないんじゃねぇの?」

「地道に、ったって、そもそもどう探すんだ」


 助悪郎の言葉を即座に否定する。相手は影だ。草の根かき分けて見つけることすら出来はしないのである。

 沈痛な面持ちで、助悪郎は歯を食い縛った。


「じゃあ、どうするんだよ——」


 その悔しさは、ぼくには推し量れもせぬ。彼と槇島氏がどのような関係にあったのか、そこにどれほどの情があったのか、ぼくには知る由もないのだ。


 だからこそ——


「案はある」


 ただし、危険だ。


「助悪郎」


 お前に、はあるか?

 ぼくが問えば——助悪郎は、一も二もなく頷いた。


「ある」

「よく言った」


 スケコマシの助悪郎。女と女を渡り歩く、空前絶後の屑男。女と見れば即座に粉をかけ。しかして付き合えば即座に飽きる。しかし——

 飽きるまでのわずかな期間。彼は間違いなく——理想的な男なのだ。


 己の女のためになら、命をすらも賭けられる。そんな漢の中の漢となるのである。


 ゆえにこそ、彼の周りには、どれほど屑と知られようとも、女の影が絶えないのだ。


「助悪郎」


 お前——


「女装しろ」


 ◯


「無理があるって!」


 助悪郎メス堕ち計画は順調だった。


「可愛いですよ助悪郎くん! お人形さんみたいです!」

「そりゃあ、あんたらのおもちゃにされてるからなぁ!」


 助悪郎はヤケクソになって叫んだ。その顔は焼けたように真っ赤である。

 それもそのはず。

 今の彼は、ハイヒールにスカート。ドレスシャツ。顔にはたっぷりと化粧を施し、頭には長髪のウィッグをつけている。その姿はどこからどう見ても、少女のそれであり、唯一声帯からひり出されるがなり声だけが、少女らしさを損なっていた。


「助悪郎、お前、彼女のために命をかけるんだろう。そんな様でどうする」

「命を賭けるとは言ったが尊厳を捨てるとは言ってねぇよ!」


 やれやれ、なんとけつの穴の狭い男だ。ぼくは首を振った。


「汚い言葉遣いはやめたまえ。お前は今日この日この時から花をも恥じらう乙女なのだから」


 股間から陰茎を削ぎ落とすつもりで声を出せ、とぼくは指示した。


「いやどんな声だよ」

「『こんな声よ』」

「うわ気持ち悪っ!」


 ぼく渾身の声帯模写を、助悪郎は気持ち悪いの一言で切って捨てる。ちょっと傷付いた。


「助悪郎。いい加減諦めろ。お前がどんなに抵抗しても、お前は可愛い可愛い女子高生なんだ。体も心もお嬢様。内股でしゃなりしゃなりと歩き、笑うときは口に手を当て、トイレは大も小も座ってするのだ」

「人の排便まで左右しようとするんじゃねぇよ!」


 馬鹿め。そういう見えない部分で気を緩めるから、表層でもキャラがブレるのだ。もっと役に入り込め。


「無理だって! なんで俺なんだよ! お前がやれよ!」

「ぼくよりお前の方が顔が良くて女形に適しているからだ」


 ぼくが女装なんてしてみろ。出来上がるのは化け物だぞ。

 その点——


「お前の女装は実に似合っている。可愛いよ、助悪郎。本当に女の子みたいだ」

「かけらも褒められてる気がしねぇ……」


 項垂れる助悪郎であるが、しかしぼくらは心の底から誉めている。


「いいか、助悪郎。お前の女装のクォリティが、作戦の成功を左右するのだぞ」


 わかったら真剣にやれ、とぼくは彼を突き放す。


「うう、わかってるよ……わかってるけどさ……」


 助悪郎は頬を染めて、モジモジと太ももを擦り合わせる。落ち着かないのだろう。こだわって、スカートの内側も女装させているからな。


 ぼくの立てた計画は簡単である。

 助悪郎を女装させ、別人に偽って囮にする。

 ぼくらは変装して、少し離れたところから彼を監視し続け、獲物が喰らい付いたら一網打尽にする。

 以上だ。


「なんでお前らは普通に変装なんだよ。それなら俺も変装でいいだろ……」

「あ、私は男装しますよ?」

「じゃあなおさらお前伊江郎も女装しろや!」


 小鳥遊氏の言葉に、助悪郎は余計に怒りを燃やす。しかし——


「女装なんてしていたら、四股を踏めなくなるだろうが」


 それはパンツが見えてしまうから、なんて乙女らしい理由ではなく、もっと純粋に。


 土俵は、なのだ。


 極めて女性差別的でなんとも嫌な因習であるが、しかしそのような因習がこそ、呪術的に神事の強度を高めている側面もあるので、痛し痒しである。


 無論、女装したところで性転換をするわけではないのだが、しかしそれでも、神事としての力は落ちてしまう。何より、神に無礼と見られてしまえばおしまいだ。究極は、回しを締めて挑むのが理想なのであろうが——


「お巡りさんが出動してしまうからな……」


 路上での回し一丁は露出狂と区別がつかぬ。いかに神事と言い訳しようと、法が優越するのは当たり前の話だ。


「俺の女装だって、お巡りさん案件だろ!」

「大丈夫だ。お前の女装はよく似合っている。違和感は持たれまい」


 それにそもそも、服装の自由は人間の基本的な権利である。公然猥褻に問われかねない露出度であるのならばともかく、そうでもないのならどんな服を着ていようが個人の自由、個人の権利だ。とやかく言われる筋合いはない。


「その個人の自由が脅かされてるんだよう……」


 助悪郎はまだも泣き言をいう。


「いい加減、女々しいぞ。覚悟を決めろ。愛しい女を助けるのだろう」


 言えば、助悪郎は歯を食いしばって——小さく頷く。


「ああ、わかったよ、やってやるさ」


 覚悟を決めた助悪郎に——


「それじゃあ——もっと女の子の練習しないとですね」


 と、小鳥遊氏がはあはあと荒い息を立てながらにじり寄る。


「あ、あのさ、小鳥遊サン? ちょっと、目が怖いんだけど——」

「大丈夫です、大丈夫大丈夫大丈夫。怖いことなんてなーんにもないですよ?」


 それだけ大丈夫と連呼されると、逆に大丈夫じゃない気がしてくる。事実、彼女は目が血走っていた。鼻息荒く近づいてくる小鳥遊氏に、助悪郎は頬を引き攣らせる。


 南無三。


 ぼくは心の中で唱えて、助悪郎の『男』としての冥福を祈った。

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