カッパドキア・ハゲリスクタイム
忘旗かんばせ
序章 河童と夏と入道雲
プロローグ
「実はお父さん、河童なんだ」
その言葉を初めて聞いた時には、つまらないジョークだと思った。
確かに、ぼくの父は禿げていた。ぼくが物心ついた時には、その頭頂部はすでにバーコード状だったし、レジで読み込んでみたら三十円だったというつまらないギャグが彼の持ちネタだった。
だからぼくが十五歳になった夜、彼が真剣な顔でそんなことを言い出した時も、ぼくは当然、彼が冗談を言っているのだと思い込んでいた。
「お父さん、河童なんだ」
それが冗談ではないとわかったのは、一週間後のことだった。
川の真ん中に仁王立ちして、彼は言った。
その頭は、バーコード状ではなかった。
つるっつるだった。
一点の曇りなく、ギラギラと。不愉快なほどに眩しく太陽の光を反射していた。その滑らかな表面は、飼っている犬のポチコが舐め回した後の皿のようだった。
というか、皿だった。
「河童なんだ」
河童だった。
緑色の鱗。骨牙の嘴。背には甲羅。
そして頭には——皿。
つるっつるの。
めっちゃ綺麗な。
皿。
川の真ん中に仁王立ちしたぼくの父は、誰がどう見ても河童だった。
「お前も将来、河童になるんだ」
ぼくはぼんやりと、余命宣告をされた人は、こんな気持ちになるのかなぁと考えていた。
現実逃避だった。
夏の空。遠くに、白い入道雲が見える。
澄み渡る青と太陽の下。キラキラと輝く川の水面。横切る蜻蛉はオニヤンマ。
蜻蛉は、綺麗な川にしか住めないらしい。
河童は、溝川にも住める。
河童の勝ちだ、と父は言っていた。
ぼくは負けだと思った。
「立派な河童になるんだぞ」
父は微笑んだ。
嘴が吊り上がって、ものすごく邪悪な笑みになっていた。
普通に、怪物の形相だった。
声色だけが元の父のそれそのままで、逆に怖かった。
「いやだ」
ぼくは言って、踵を返した。
ぼくは人間だ。どんな川にも住めない。さらば、父よ。そなたは溝川で、ぼくは都会で暮らそう。もう二度と、逢いにはこないよ。
「いやだといっても、なるんだよ」
呪いの言葉が、逃げようとするぼくに向けて投網のように投げかけられる。
「抵抗しても無駄だ」
どう聞いても、息子にかける言葉ではなかった。明らかに、なんらかの罪を犯している最中の人間だけが言う部類のセリフだった。
「育毛剤も、植毛治療も、河童の血の前には、無力だよ」
その言葉の中には、一抹の悲しみと澱んだ諦観が混じっていた。
「なるんだよ、お前も河童に、なるんだよ」
あらゆる意味で最低な一句に、ぼくは言葉を返さない。
振り向かずに、走って逃げた。
走って走って、そして転んだ。
膝を擦りむいて、痛かった。
その日の夜、帰ってきた父は、諦めた目でカツラを被っていた。
ぼくはその日から、父と口を利かなくなった。
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