第一章  猫と師匠と水泳部

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 ◯


 京都府は北区の端。下鴨神社と大徳寺のちょうど中間地点に、私立新神海岬学園は聳え立っている。


 近年の、と題するにはすでにいささか引き潮気味にも感じられるようになり始めたグローバル化の波に、今もなお煽られ続けて無意味に多用される英語表記と、校章に描かれたそれを獅子と呼ぶのは何らかの罪に該当するのではないかとさえ思う四つ足の前衛芸術の姿とにいわくして、猫耳学園なんて可愛らしくもあだ名される新神海岬学校だが、しかしその名を聞いて多くの人がまず思うのは、近くにあるのは川ばかりだというのに、何故海に岬なのか、という疑問であろう。


 一説によればこの学園を建てた初代学長が海を知らぬ農村の出であり、そのみずぼらしく貧弱な人生経験が故にあの狭苦しい川幅の鴨川を海と見紛い、そのほとりに立つこの学園にそのような名を与えてしまったとも伝わるが、真実は定かではない。


 いずれにせよ、その由来などその学園に通う学生にとってはどうでもいいことである。名前の奇妙さなど、この学園に通う生徒の頭のおかしさに比べれば瑣末なことだ。海と川の区別もつかぬ学長が建てたと実しやかに噂されるような学園である。


 集う生徒も、相応なのだ。


「——水泳部、来いや」


 頭の悪そうな男が、不躾にもぼくに話しかけてくる。


 彼は海パン一丁だった。


 水泳部だからだ。


「服を着ろ」


 ぼくはとりあえず、最低限の答えを返した。


 ここが教室だからだ。


 女子が、白い目で彼を見ている。


 彼は水泳部たるもの、教室でも海パン一丁が正装だと、信じ込んでいた。


 馬鹿だからだ。


「着てる」


 裸の王様のモノマネかと思ったけれど、どうやら彼の認識曰く、海パンを履いているので、自分はすでに服を着ていますよ、という意味らしかった。


 死ねばいいのにな、と心の中で思った。


「死ね」


 口にも出した。


 世の中、口に出していいことと、悪いことがある。これは誰がどう見ても前者だろうなと、かしこいぼくは判断した。


「水泳部、来いや」


 彼は初めと同じセリフを繰り返した。


 ドラクエのNPCでも、最近はもっと会話のレパートリーが多い。

 彼の脳みそは、八ビット以下なのだろう。

 容量不足で「に」の助詞さえ削った結果、まるでぼくに対して「水泳部」と呼びかけているかのようなセリフになっている。


 もちろんそれは冤罪で、おそらく彼の認識では、ぼくに対して勧誘を仕掛けているつもりなのだろう。


 彼の名は田中。水泳部の副部長だ。


 かの部活が、インターハイを目指し新入部員のスカウトに奔走していると言う話は、風の便りで聞いていた。


 だからこそ、ぼくの返す言葉は一つきりだ。


「断る」


 ぼくは席に座ったまま、読みかけの本から視線を逸らさず、努めてきっぱりと拒絶した。


 これ以上、この馬鹿に絡まれ続けていては、ぼくも同類と思われてしまう。そんなことになれば、ぼくの青春は灰色一直線だ。


「なんでだ」


 彼は食い下がってきた。なんか、唐突に絶命してくれないかな、と願った。


「泳ぐのが嫌いだからだよ」


 ぼくは言った。目は、本から逸らさない。すでに、同じ行を五回くらい読んでいる。


 幼い頃、危ない人とは目を合わせちゃいけません、と母から教わった。ぼくはかしこい子供だったので、その言いつけを守り、それ以来、父と目を合わせなくなった。


 父は泣いていた。


「お前、泳ぐの上手いだろうが」


 だから嫌なのだ、とは返さなかった。

 なんかもう、全てがめんどくさかった。

 早く死んでくんねぇかな、とだけ思っていた。


「お前がいれば、インターハイ優勝間違いなしだ」

「そうか。ぼくがいない穴を埋められるよう、一層努力を積んでくれ」


 冷たく突き放して、本に集中する。ぼくは本に集中しているんですよ、という姿勢を見せる。犬の躾と同じだ。期待の芽を摘むためには、どれほどアピールしたって餌は出てこないと示さなければならない。戸棚にチラリとでも目線をやってしまったら、終わりなのだ。


「何が気に入らねぇんだよ」


 彼は苛立ったように地団駄を踏んだ。海パン一丁の男が、学校の教室で地団駄を踏む。お笑い芸人のネタくらいでしか、見たことのない光景だった。彼はそれをネタではなくガチでやっているので、生まれるのは笑いではなく恐怖だけだが。


「あのな」


 ぼくはいい加減、嫌になってきて、本を閉じた。同じ行を、もう十回も読んでいる。


「どこの誰が、部長が全裸で教室に通っているような狂った部活に入りたがると思うんだ。お前のような変態と同類だと思われたら、末代までの恥だぞ。ここは人間社会なんだ。お前みたいな異常者が、裸足で踏み入っていい空間じゃない。靴下と上履きを履け。そして海パン以外の服を着ろ。何が水泳部だよ、汚ねぇ乳首しやがって。ハナダジムに帰れ」


 一息で言い切れば、彼は涙ぐんだ。

 意外と、繊細な男なのだ。


「なんだよ、ちくしょう。俺の乳首の、どこが汚いっていうんだよ」


 ちくしょう、ちくしょうと甲高い鳴き声をあげて、海パンやろうは無様に逃げていった。

 悪は去った。ぼくは本を開き直そうとして、邪魔が入る。


伊江郎いえろうくん、なんで断っちゃったのー?」


 聞いているだけで気の抜けていく、へちゃけた綿毛のような声で名を呼ばれて、ぼくは眉尻を下げた。


 伊江郎——伏見桜ふしみざくら伊江郎。ぼくの名前。


 ぼくは本を閉じて、それを呼んだ声の主へと向き直った。


「お前まで、ぼくに海パンやろうになれというのか……」


 悲哀と共に言えば、彼女は慌てているのだかいないのだかよくわからない、間伸びした早口で行った。


「いやいやー、そういうつもりじゃないよー、むしろ君が海パンやろうになったら泣くよー」


 抑揚のない声は、本気か冗句かわかったものではないが。

 ぼくはため息と共に、声の主を見つめた。


 低い背。ない胸。童顔。糸目。


 そして何より、その全身から滲み出す「ゆるさ」の気配。


 たとえば水族館の水槽で泳ぐクラゲのように、果たして意思があるのかないのかさえもわからぬような、のほほんとした微笑。


 何も考えていない、ということが一目でわかるその具現化したお花畑のような阿呆面は、量産型の自称ゆるふわ系女子などでは到底敵わない、『本物』の迫力を滲ませる。


 癒し系というよりも蕩し系。和み系というよりも孫み系。三角より丸。冬より春。お煎餅よりも苺大福。


 存在するだけで緊張感という概念がその場から消し去ってしまうような、全身が砂糖と砂糖と砂糖で出来た激甘少女。


 それが、瀬来目せくめ潤果うるかという少女だった。


「でもさー、中学の時は、あんなに頑張ってたじゃん、水泳」


 ぼくは思わず、眉間に皺を寄せた。


 苦い思い出が蘇る。


 この見た目と雰囲気だけで言えば到底十七歳であるなどとは信じられない脱法女児との付き合いは、残念ながら長い。


 いわゆる幼馴染、というやつで、小学生の頃からずっと縁が続いている。


 それはつまり、彼女はぼくの過去を、ある一点だけを除いてほとんど知り尽くしている、という意味だ。


「どうして、やめちゃったの? あんなに得意だったのにさー」


 得意だったから、やめたのだ。

 とは、言わない。

 言えない。

 言いたくない。


「人間は、陸を歩く生き物だと思い出しただけだ」


 不意に、部屋に飾ったままのトロフィーを思い出した。

 早く、捨ててしまわなければいけない。


 ぼくは、人間なのだから。


「人間は全裸で教室に入って来たりしないし、人間は水の中を泳いだりしないし、人間は禿げたりもしないんだ……」

「いや最初以外はそんなことないと思うよー?」


 彼女は困ったように笑った。


「もったいないなー、せっかく才能あるのに」


 なんて彼女は言うが、ぼくは黙殺する。無視だ、無視。

 誰が何と言おうと、もう水泳はやらないと決めたのだ。


 だって、ぼくは絶対に——河童になるわけには、いかないのだから。

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