プロローグ③
目が覚める、と自覚するということは、己がまだ生き永らえていることと同義である。
そんな書き出しで始まる小説をいつだったか書いて、いたく褒められた記憶があった。やれ「一行目から読ませる文章」だの「当たり前がそうでないことを自覚させてくれる」だの。そういった似たり寄ったりな感想を貰った。何作目の話だったか、と考えながら瞼を開けると、見知らぬ天井と白く細長い電灯が視界に飛び込んだ。
此処は一体、と首を動かさず眼球だけゆっくり右に向けると、カーテンの向こうから鳥の囀りが聞こえ、うっすらと太陽の光が差し込んでいた。こっちは、と左を向くと、パイプ椅子に座りスマートフォンを見つめていた女の子と目が合い、「あ」と小さく叫んだかと思うと即座に立ち上がって部屋を足早に出ていく。
「すんませーん、六菱ですけど、おや……父親起きたみたいですー」
彼女が俺の娘、栞だと気付くのに数十秒を費やす程度には、俺の頭はまだ目覚めきっていないようだ。
「六菱さん気付かれました? 此処は——病院で、——時頃に仰向けで眠っていたらしいんですよ。見かけた人が救急車を呼んでくれて——、娘さんが——」
そう言いながら娘と共に部屋に入ってきた医者らしき人間は、にこやかにそう伝えてきた。その表情からすると、あまり大事ではないのかもしれない。未だ微睡の中にあるからか、聞き取れない単語が処理しきれないまま耳に入り脳に伝わってくる。
「どこか痛むところはありますか?」
「いや……あんまその時のこと覚えてなくて……逆に今どんな怪我してるかどんな状況だったのか、教えて欲しいぐらいなんすけど」
「身体に擦過傷——まぁ擦り傷ですね。それが何箇所か。寝惚けて低木の上で寝てしまって出来た傷でしょう。出血もしていませんし、数日で治ります」
そして医者はちらりと視線を隣の娘に向け、「娘さんも心配していましたよ」と皮肉抜き、言葉そのままの感情でこちらを心配する素振りを見せる。その娘はというと、「ご迷惑をおかけしました」と医者や看護師に申し訳なさそうに頭を下げながら、ベッドに横たわる俺を隙あらば睨みつけてきている。見事な猫被りだ。
ここで、そういえば俺が意識を手放す前に何があったかを断片的にだがやっと思い出す。夜の散歩中に高台に登る。転がった石を立たせる。壊れた社。変な言葉。伸びてくる右手。狐の形。その指先が額に直撃する。落下——
「……頭には、何も怪我は無いんですよね?」
そう聞くと医者は怪訝な顔をする。
「出血どころか痣の一つもありませんよ。後頭部、側頭部に関しても同様です」
「そう……っすか……」
今更発見状況まで訂正する気にはなれなかった。元よりあんな非現実的状況、どう掻い摘んで説明すべきかもわからない。
「まぁ、お大事にしてください。疲れていてもちゃんと寝床で寝てくださいね」
全く皮肉の気配が無いのが、この医者の困るところだった。
◆◆◆
「学校は」
「今日は一限だけ。
支払いを終えた俺を律儀に待っていた娘は、病院を後にしたのち、溜め息混じりにそう言った。時間は朝の十時に差し掛かろうとしている。全く自覚が無いままに、俺が家を出てから半日以上経過していた。
「ほんと仲良いんだな、杏音ちゃんと。中学校からずっとだろ」
「まぁ、友達として対等だと思ってるのは、杏音だけだし」
我が娘、栞はモテた。いや、現在進行形でモテている。妻譲りの中性的な外見や口調やリアリスト思考、俺の遺伝子由来の高身長で、中学校から同性にファンが多かった。バレンタインのチョコレートも大量に貰い、ファンクラブらしい集まりも勝手に作られ、果ては冗談抜きの本気の告白もされたらしい。
けれど本人は、それが非常に窮屈だった。
明け透けに言ってしまえば嫌だった。
ファンが付く、というのは自らが崇拝対象と見られていることと同意義だ。ただ同じ高さに居てくれる友人が欲しかった彼女だったが、周囲は彼女を理想の彼氏と、王子と、アイドルと、果ては神と崇めたらしい。
神作家なんて俺も言われたことないのに、と彼女に向かって溢すのは厳禁だ。
そんな周囲に奉られていた彼女に対し、唯一アイドルでも王子でもなく、ごく普通のクラスメイト、「
「っと、噂したら杏音からMINE《マイン》入ってる」
スマホの連絡アプリを立ち上げ、病院で俺が目が覚めた時と同じテンションで「お」と娘は小さく叫ぶ。
「何? なんかあった?」
「杏音にも一応聞いたんだよ。暦町の噂知らないかって。そしたらさ」
いや、と一瞬彼女は口を噤んで考える。しかし数秒後に右手をピースにして、改めて口を開いた。
「良いニュースとめちゃくちゃ良いニュース、どっちから聞きたい?」
「……お前が言いたい方からどうぞ?」
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