第3話
何度か手紙を持って行くことを繰り返しているうちに、蓮司は大学を卒業して社会人になった。シェルターと職場はそう遠くないが、仕事と新生活が忙しくてしばらく手紙にまで手が回らない日が続く。やっと新しい手紙を持ってシェルターに行けたのは五月に入ろうという時期だった。
「こんにちは、御堂さん。社会人生活はいかがですか」
蓮司の疲れた顔を見て、神木も察したようだ。
「研修の一段階目が終わっただけで、まだまだ慌ただしいです。覚えることが多すぎて」
普段の土日も研修の課題や慣れない家事に追われ、連休に入ってようやく手紙に取り掛かれた。今回は書くことがたくさんあったので内容も盛り沢山である。
「まだ一年目ですからね。慌てなくても大丈夫ですよ」
手紙を受け取って微笑む神木を見て、蓮司は自分が癒されていることに気付いた。同期とも指導員とも違う、社会人の先輩。職員として接してはいるが、蓮司のプライベートに半歩踏み込んでいる存在。友達ではないが会話に気負いする必要もなく、フラットな感覚が心地良い。
新生活での疲れもあったのだろう。蓮司はふと、神木に寄り掛かりたくなってしまった。
「あの、今日って何時にお仕事終わりますか?」
「えっ?」
神木の驚いた顔を見て蓮司は自分の迂闊さに気付いた。顔見知りとはいえ、これではまるでナンパである。
「あ、その、変な意味じゃなくて、いや仕事終わりに誘ってる時点で怪しいとは分かってるんですが、仕事以外で人と話すのが久しぶりすぎてちょっと話を聞いてもらいたいなーなんて思いまして」
思わず早口で弁明してしまったが、それも自分の怪しさをより際立たせただけのような気がして、蓮司は既に後悔し始めていた。言い訳したところでやはりナンパのようなことしか言えていない。
「すみません……やっぱり聞かなかったことに」
「五時に終わります」
「え」
「なので五時過ぎに門の外で待っていてください」
「え⁉」
想定外の反応が来て蓮司の思考が止まった。完全に諦めるつもりでいたのに、神木から待ち合わせの時間を指定されたような気がする。
「なに驚いてるんですか。そちらから誘っておいて」
「だ、だって俺の言い方、完全にナンパでしたよ」
「まあ言い方はアレでしたけど、新生活で色々お疲れなんでしょう? 気持ちは分かるので、僕でよければ話を聞きますよ」
神木も新社会人だった時期はまだ記憶に新しい。研修で慣れないことを詰め込まれ、勉強と違って何が正解か分からないことを続けていれば愚痴のひとつも言いたくなる。神木にも経験があるので蓮司の言いたいことを理解して誘いに乗ったのだが、蓮司はまだ信じられないといった顔をしていた。
「いいですか、五時過ぎに待っててくださいね。来なかったら怒りますよ」
「はい……」
なんだかよく分からないうちに約束が成立してしまい、蓮司は頭にハテナを浮かべながらふらふらとシェルターを後にした。
そして約束の五時過ぎ。まだ現実味の無い蓮司が門の前に向かうと既に神木が待っていた。
「お待たせしてすみません!」
「良かった。逃げたのかと思いました」
「いえ、俺から誘っておいてそんな」
「冗談ですよ。行きましょうか」
そう言って神木はすたすたと歩き始める。勤務時間ではないからか、気持ちばかりフレンドリーさすら感じた。手紙を渡した時のやり取り以降、蓮司はずっと翻弄されっぱなしだ。
「待ってください。どこ行くんですか?」
「お店の予約とか取っていないでしょう? 近くに良いお店があります」
神木の言う通り予約などはしていない。というよりも、蓮司はそこまで頭が回らなかった。話を聞いてもらいたかったはずなのに、今や何を話せばいいかも分からなくなっている。
おろおろしているうちに到着した先は明るい雰囲気の和食の店だった。休日でそれなりに混みあってはいるが、まだ空席もありすぐ席に通される。
「ここなんでも美味しいんですよ。区役所の人は滅多に来ないので安心してください」
蓮司はまだこの近辺の地理に詳しくはないが、区役所とは反対の方向だったのでなるほどと頷いた。おそらく神木が知っている店の候補の中で、知り合いと会わないで済みそうな場所を選んでくれたのだろう。その辺りでも神木の気遣いが光っており、経験の差を感じた。
「神木さんって俺と一歳しか変わらないのにすごくスマートですね」
「そうですか? 同僚からは結構ぼんやりしてるって言われますけど」
「ぼんやり……?」
蓮司からは想像がつかないが、蓮司より付き合いの長い同僚がそう言うのならばそちらの方が正しそうだ。では蓮司と神木の差は社会人経験の差なのだろうか。
適当に注文した酒と料理が運ばれてきて、神木が蓮司へ向き直る。
「で、僕に聞いてほしい話って何ですか?」
「ああ……その、どうやって話しましょうか……」
混乱していた頭もようやく落ち着きを取り戻しつつあり、蓮司は元の悩みを思い出し始めた。
別に人間関係に不満があるわけではない。就職先が決まっていなかった時期に比べれば人生に対する不安も無いに等しい。特にこれといった不調があるわけでもないのだが、なんだかやる気が出なくて疲れてしまうのだ。しかし同じ研修を受けている同期は元気そうで、自分だけが追いつけていないのかと思えてくる。
蓮司の要領を得ない話でも、神木は笑わずに聞いてくれた。
「なんとなく分かります。最初は頑張ろうって気合い入れるんですけど、ずっとは頑張り続けられないんですよね」
「神木さんも経験ありますか」
「僕の場合は一年目の今頃に体調を崩しました。連休がほとんど潰れて損した気分でしたよ」
それは神木が受付に立ち始めた頃だった。アルファを制した経験はそれまでにもあったものの、敵意を向けてくるアルファの対応など言うまでもなく大きなストレスである。今でこそアルファの暴言も軽く受け流せるようになったが、最初から全く傷つかなかったわけではない。無論、神木は特殊な例なのだが。
「ちょうど息切れするタイミングなんでしょうね。五月病って言われるくらいですし」
「五月病……ああ、そうかもしれません。こういう感じなんですね」
「先ほどチーム研修が上手くいかないことが多いと言っていましたが、同期の方も疲れているんじゃないでしょうか」
「え、そうなんですかね」
「ただの推測です。一人だけ調子が悪い時は周りもカバーできますけど、皆の調子が悪いとそれも難しいじゃないですか」
言われてみればそんな気もしてきた。実際のところがどうかは置いておいて、そう考えるだけでも気分は楽になる。
「この連休で体を休めたらまた元気になるんじゃないですか。御堂さんも同期の方も」
「確かに、そうかもしれないですね。連休明けがちょっと憂鬱だったんですけど、かなり希望が出てきました」
神木にははっきりと伝えていないが、蓮司はこの不調を自分が落ちこぼれているせいだと思っていた。周りに付いていけないから自分だけ疲れが溜まって、それで周りに迷惑をかけていると感じたから、外に助けを求めたくて神木に頼った。
蓮司は今までの人生で幾度となく過大な期待を受けてきた。理由はただ一つ、アルファだからだ。しかしどんな珠でも磨かなければ光らないように、アルファだって何もしなければ才能は伸びない。特に家庭に問題があった蓮司のような子供は、才能を伸ばす機会が他の子供に比べて少なくなる。
アルファだからなんでも要領よくできるだろうと言われてきたが、実際のところ人より努力しなければ追いつけなかった。期待に応えるために無理をして、なんとかアルファとしての体裁を保ってきた。
想像とは違う着地点ではあったが、結果的に神木に相談したのは正解だったと蓮司は思う。それと同時に、日々の出来事に追われて周囲の様子も見えなくなっていたのだと自覚した。思い返せば最近は同期の中にも普段よりストレスが溜まっていそうな人が居た気がする。
「もし休んでも駄目そうだったら……」
「だったら……?」
「また僕とご飯食べに行きましょうか」
にこりと笑顔を向けられ、蓮司は完全に落ちた。
弱っているところでこんな風に優しくされたら誰だって好きになってしまう。これが自分だけに向けられるものだと思うほど自惚れてはいないが、そうであったらいいのにと思う程度には心を掴まれた。
もちろん出会った日に受けた威圧を忘れたわけではない。蓮司が何か間違えたことをすれば、今度はあれが蓮司に向けられるかもしれないと思うと背筋が寒くなる。だが神木に対する恐怖心はもう無いに等しい。普通に接すれば良識ある対応をしてくれることを知っているし、こうして気遣ってくれる程度には仲良くなれた。壁が取り除かれたからこそ、より惹かれやすくなったのかもしれない。
神木の言った通り、食事も酒も美味しかった。話に付き合ってもらったのだからと蓮司が支払いを持とうとしたら、神木が半分はこちらが誘ったようなものだからと言って結局半分ずつ支払うことになった。
「あの、神木さん」
「はい」
「な……悩みとか無くても、また誘っていいですか?」
これは調子に乗っただろうかと、蓮司はまた自分の発言を後悔した。なぜ一日に二度も似たような失敗をしてしまうのだろう。好きだと自覚した瞬間に距離を詰めようとしすぎである。
蓮司は発言を取り消したい気持ちでいっぱいだった。しかしここで言葉を引っ込めたら、それこそ万に一つの可能性も無くなるような気がしている。
神木は少し考えた後、蓮司を見上げて口を開いた。
「それなら、今度は僕の愚痴でも聞いてもらいましょうか」
「! ぜっ、ぜひ聞かせてください!」
神木は冗談のつもりだったかもしれない。だが蓮司は、誘いに肯定的な返事を貰えた事実を逃したくなくて過剰に反応してしまった。
愚痴を聞く行為になぜか乗り気な蓮司を見て、神木は面白そうに笑った。
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