第5話
神木が酒を飲むのは逃避のためではなく、美味しいものを食べて自分の機嫌を取るためだという。
「人の弱味を探してネチネチネチネチ! ああいう手合いが一番タチ悪いんですよ!」
しかし今日に限ってはストレス発散の意味合いも絶対に含まれていると蓮司は思う。前回は一杯で済ませていた酒が、今日はもう二杯目になっていた。こんなに荒々しい神木は初めて見るが、また少し打ち解けられた気がして蓮司はまんざらでもない。
「来館者にご迷惑をおかけすべきではないのですが、御堂さんが間に入ってくださって助かりました」
「いえ、上手くいってよかったです」
「でも基本的には僕たちで対処しますからね。ありがとうございます」
思えば蓮司が受付に詰め寄るアルファを見るのはこれで二度目だ。何度か来たことがあるだけの蓮司でこれなのだから、こういうことは本当に頻繁にあるのだろう。改めて神木ら職員の胆力に感服する。
「そういえば、神木さんはどうして始めからあの人を威圧しなかったんですか?」
「正当防衛ではなくなるので、絶対に先手を打つわけにはいかないんです。威圧は暴力ですから」
「はあ、なるほど」
「というか、向こうはそれを狙っているんですよ。僕が先に手を出せばいちゃもんをつけてペナルティを与えられるから」
職員の方が先に手を出したとなれば当然問題になる。急にクビにされるようなことはまずないだろうが、一定期間の謹慎くらいはあるかもしれない。誰よりも働き者の女王蜂にとっては一番辛いペナルティだろう。
「僕らが嫌がらせで許可を出さないと思っているから、仕返しのつもりなんですよ」
「厄介ですね」
「ええ。最初から怒鳴りこんでくる方がまだマシです」
話を聞くにつれ、シェルターという職場がいかに過酷な場所かを実感する。逆に入居者としては神木以上に心強い味方は居ないだろう。蓮司はアルファだが、神木がオメガの味方で良かったと思う。
またあの男に言われたことを思い出したのか、神木はグラスを置いて溜息を吐いた。
「……あの男の言う通り、僕は番と引き離される辛さなんて分かりません。どちらかというと仲を引き裂く方に加担していますし」
「そんな、引き裂くだなんて」
「実際、アルファと再会して施設を出て行く方も多くいらっしゃるんです」
シェルターは長期的に利用する人と短期で利用する人が居る。一時的な不和で逃げてきた人は、番とやり直すこともあった。どんな事情であれ職員たちはオメガを守るが、対話が必要とあらばアルファと敵対するばかりではない。想像以上に複雑な仕事なのだ。
丸く収まっても結局アルファからは良い印象を持たれないことも多々ある。そんな時、神木は自分が番たちの気持ちを解さない悪者になったように感じていた。
「ちゃんと話し合って和解して、笑顔でシェルターを出て行かれる方を見ると、僕らのやっていることは正しいのかと思うことがあります」
「いや、シェルターの皆さんは助けを求められて応じているだけじゃないですか」
「そうですね。でも……僕に番か恋人が居たら、もっと理解ある対応ができたのかもしれません」
それは使命感から来る言葉だったのかもしれない。そうだとしても、神木が恋人を求めているようにも聞こえた。少なくともいま神木に恋人は居ないし、アルファの恋人を持つことに拒否感も無いらしい。その考えに至った瞬間、反射的に蓮司の口から言葉が出ていた。
「神木さん、俺と付き合ってもらえませんか」
「えっ」
神木が目を丸くして動きを止める。蓮司も自分で言ったくせに驚いていた。しかも神木の悩みに付け入るような形で。今日は神木の愚痴を聞きに来たのであって、蓮司は告白するつもりなどなかった。
「御堂さんって僕のこと好きだったんですか?」
「手紙はもちろん母のために書いてますが、最近は神木さんに会うのも目的になってました」
「そうですか……」
「すみません、神木さんの愚痴を聞く会なのに急に変なことを」
「いえ、あの話を続けたところで結論なんて出ませんから。むしろさっきまでのモヤモヤが吹き飛ばされましたよ」
告白の衝撃で、神木が抱えていた苛立ちや憂いはどこかに行ってしまった。うだうだとたらればの話を続けるよりも、今は蓮司の話を聞きたい気持ちが強くなっている。
「御堂さんって変わってますね」
そう言って神木は笑うが、その言葉には神木の人生が詰まっていた。アルファから避けられ、アルファに立ち向かって、自分がアルファから好かれることはないと思っている。
「神木さんの立場上、攻撃的なアルファとばかり出会ってきたんだと思います。でも俺は、あなたの味方になりたいんです」
「ありがとうございます……確かにアルファの苛烈な面ばかり見てきたから、アルファ不信になっていることは否めません」
神木とて、世の中には穏やかなアルファが居ることも知っている。だが表面上は穏やかでも、番が絡むと冷静ではいられない人のことも知っている。
「……かつて僕に罵詈雑言をぶつけてきた人間が、テレビの中で素晴らしい人だと崇められているのを見たことがあります。そいつの番は監禁されて何もかも奪われて、断腸の思いで子供を置いて裸足で逃げてきたのに。信用なんてできるわけがない」
まるで自分の母のことのようだと蓮司は思った。ただ蓮司の父はテレビに出るような人間ではないので、違う家庭の話なのだろう。
シェルターに逃げるオメガの事情は様々だが、こういう話は多い。被害者側の話ばかりを聞いてきたことを考慮しても、それを信じるに足るほど神木が暴力的なアルファを何人も目にしてきたというのは想像に難くない。
やはり自分ではダメだっただろうかと蓮司は落ち込みかけていたが、ふと神木が視線を合わせてきた。
「でも御堂さんのことは信じてみたいと……ちょっとだけ思います」
「!」
「敵意が無いのもそうですが、御堂さんは僕の威圧を体験しても僕と普通に接してくれました。そういう方はすごく珍しいんですよ」
「それは……」
それは蓮司がアルファとしては落ちこぼれで、傷つけられるほどのプライドが無いからだ。自分でその事実を口にすることができず、蓮司は言葉を続けられない。
「僕は御堂さんのそういうところに救われていました。アルファと敵対しながら生きていくものだと思っていたけど、御堂さんみたいな人が居るなら捨てたものじゃないかもって」
「なら、俺もいま神木さんに救われてます!」
思ったより大きな声が出てしまって、蓮司は我に返って頭を下げた。
「俺は特に人より優れたところも無くて、アルファでいるのがずっとコンプレックスでした。でもそのアルファらしくないところを神木さんが認めてくれるなら、俺はずっとこのままでいい」
言いながら、蓮司は泣きそうだった。アルファらしくない自分に悩み続けてきたが、その方が良いと言ってくれる人が現れるなんて思いもしなかった。初めて自分を認めてあげられるような気持ちになったのだ。
神木はしばらく驚いた顔をしていたが、蓮司の言葉を呑み込んでふっと笑う。
「じゃあ、僕たちは結構お似合いなのかもしれませんね」
そう言って神木は蓮司の手を包み、「よろしくお願いします」と握手をした。
蓮司はまだ実感が湧かないままだ。もちろん神木は好きになった相手ではあるが、ここまで都合の良い話があるだろうか。蓮司はもはや運命的なものすら感じている。
それでも手から伝わる神木の手の温度は本物で、これが現実だと信じざるを得ない。蓮司は頭の整理が追い付かなくてまともな言葉が出てこなかったが、とにかく包まれた温かい手を握り返した。
店を出て外の空気に触れると、蓮司も少しは口が回るようになってきた。そして、神木と付き合うことになった事実をじわじわと噛み締める。
「でも、本当にいいんですか? アルファに怖がられるようなオメガですよ」
隣を歩く神木は、店に入る前より心なしか距離が近い。物理的な距離も精神的な距離も、まだお互いに探り探りだ。
「もちろん威圧されると恐怖はありますけど、神木さん自身が怖いわけではないです。神木さんって普段は穏やかだし、入居者や職員の方にはすごく優しいじゃないですか」
「それはまあ、仕事ですし」
「俺にも優しいですよ」
蓮司がそう言うと、神木は言葉に詰まった。神木はそうでもないと思っているだろうが、蓮司は初めて会った日から神木がいい人だったと感じている。シェルターにおいてアルファは警戒対象なのに、威圧の余波に巻き込んだことを謝り、わざわざ特性のことも詳しく教えてくれた。手紙を渡すついでに、時間があれば雑談に付き合ってくれた。
ただの親切の範疇かもしれないが、基本的にアルファに冷たい人間という前提があれば話は変わる。
「なるほど、じゃあ僕も最初から御堂さんのことがちょっと好きだったのかもしれませんね」
「神木さん、俺を調子に乗せるのが上手すぎます」
神木はどこまでも蓮司の心をくすぐってくれる。しかもそれが無意識でやっているであろうことが更に蓮司を喜ばせるのだ。こんな相手と付き合えるという奇跡が起こるなんて、やはり夢なのではないかと疑ってしまうくらいだ。
まだ駅に着きたくなくてつい歩調が緩む。すると半歩先を歩いていた神木が振り返った。
「……付き合うことになったからにはお伝えしておきたいのですが」
「はい」
真面目な話をしようとしているのが分かり、蓮司は先ほどまでにやついていた顔を強制的に真顔に戻す。
「記録によると、僕と同じ性質のオメガは自分から番を解消することもできたらしいですよ」
「そんなことまで……」
まるでアルファのようだ。蓮司はそう思いはしたが、口には出さなかった。蓮司が神木の立場だったら言われたくない言葉だろう。
「もしかしたら、複数のアルファを番にできるかもしれませんね。試したくはないですが」
「試さないでください!」
せっかく恋人になれたというのに、神木はとんでもないことを言う。束縛するつもりはないが、実験であっても他に番を作るなど絶対に許すわけにはいかない。
「まあとにかく、もし噛まれても僕は大丈夫ですよ」
神木は大丈夫だと言っても、蓮司としては複雑だった。他のアルファはどうか知らないが、蓮司にとって番を持つというのはとても重い行為だ。番になるのは生涯で一人でいいと思っているし、後で解消できるからといってお試しのようなことをする気も無い。
「俺は自分が責任を取れるようになって神木さんの許しを得るまで、絶対に噛んだりしません!」
「絶対に?」
「絶対に!」
「……どうしよう」
「どうかしました?」
蓮司が神木の顔を覗き込むと、困惑したようなぼんやりしたような表情をしていた。視線を合わせようとしてもなかなか合わせてくれない。
「あの、想像してたより嬉しくて……」
神木にとっても予想外の言葉だった。
人から好きだと言われることもそうだが、神木としては自分を大切に扱ってくれる言葉が何よりも嬉しかった。初対面から印象は良かったが、ますます蓮司を好きになってしまう。
神木は子供の頃からアルファに避けられて生きてきたので、当然人と付き合った経験が少ない。高校生の時にベータの女の子と付き合ったことはあるが、軽いキスくらいまでで関係は終わっている。大人になってもここまで踏み込んできた人は初めてだ。
「神木さんはもうちょっと他人より自分を優先してもいいと思いますよ」
「そうですか? でもそれが仕事なので」
自然とそんなことが言えてしまうほど、神木にはその考えが染みついている。蓮司はふと考えた。
神木が自分より他人に気持ちを向けてばかりいるのは、人に必要とされたい気持ちから来ているのではないか。つまりそれだけ求められた経験が少ない。そしてその数少ない機会が、アルファからベータとオメガを守ることだった――ということではないだろうか。蓮司の中で論理が繋がった気がした。
「神木さんがそう言うなら、やっぱり俺がたくさん甘やかすしかないですね」
「ええー、年下のくせに」
不意に敬語が外れたのを聞いて、蓮司の心はときめいた。神木は冗談のつもりだろうが、これは意外と良い提案になるかもしれない。
「そう言うなら、俺と話す時はタメ口にしてください」
「でも御堂さんも敬語ですよね」
「俺は年下だからいいんです」
先に年下扱いしたのは神木の方だ。だから神木は言い返せず、しばらくもごもごと悩んだ末に脱力して笑った。
「分かったよ、御堂くん」
年上も年下もアルファもオメガも関係なく敬語を使う神木がその壁を取り去った。それが神木にとってどれくらいの出来事かは分からないが、蓮司が少しだけ特別になれたことは分かる。踏み込ませてくれたことが嬉しかった。
蓮司は周囲に人が居ないことを確認してから、神木の袖を引く。振り向いた神木の頬にそっと触れ、唇に軽いキスを落とした。
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