「影匿(かげかくし)」-記者の見た影の物語-

ソコニ

第1話

第1話「影探し」


深夜の編集部で、ユウカは暗いパソコンの画面に向かっていた。蛍光灯が不規則に明滅する中、画面には「影のない少女」の目撃情報が並んでいる。最初は単なるSNSの都市伝説だと思っていた。しかし、この一週間で状況は一変していた。


「また投稿が増えてる...」


スマートフォンの画面をスクロールするたび、同じようなハッシュタグが目に入る。#影のない少女、#影が薄くなる、#失踪事件。画面の明かりが作る影が、机の上でゆらめいている。


最新の投稿は二時間前。投稿主は佐伯美咲という23歳の女性だった。プロフィール写真には、明るい笑顔の若い女性が写っている。カフェの制服姿で、友人たちと撮ったものらしい。しかし、その投稿の内容は、写真の印象とは裏腹に不穏なものだった。


『私の影、なんだか変なの。インスタ映えするかも?笑』


添付された写真には、確かに不自然な影が写っていた。街灯に照らされた若い女性の影。しかし、よく見ると影の輪郭が薄れ、どこか歪んでいる。影の端が霧のように拡散し、まるで影が溶けていくような不気味さがあった。さらに気味が悪いのは、影の中に別の影が重なっているように見える点だった。人の形をしているが、佐伯本人の影とは明らかに異なる輪郭。


「こんな加工、見たことない...」


ユウカは佐伯のSNSアカウントを遡った。一週間前までは、普通のOLの日常を切り取った写真ばかり。カフェで撮った写真、友達との自撮り、出勤前の制服姿。どれも明るい笑顔の女性が写っている。投稿に使われているフィルターも一般的なもので、特に不自然な点は見当たらなかった。


しかし三日前から、投稿の内容が変わり始めた。写真の影の部分が少しずつ歪み、本来あるべき場所から少しずれていく。そして、投稿の文章にも変化が現れた。


『最近、影が薄くなってきたみたい』

『誰かが見てる。影の中から』

『私、消えていくのかな』


最後の投稿には、コメントが殺到していた。画面をスクロールするたび、不安と恐怖が混ざった言葉が並ぶ。


「大丈夫?」

「病院行った方がいいよ」

「影のない少女に会ったの?」

「私も同じの見た」

「消えないで」


返信を追っていくと、似たような経験をした人々の書き込みが見つかった。皆、同じようなパターンを語っている。最初は影の歪み、そして影の中に別の影が見える。最後は、投稿者自身が消えていく。そして投稿も、アカウントも、すべて削除される。


「消えた人、何人いるんだろう...」


ユウカはメモを取りながら、似たような投稿を集めていった。この一ヶ月で少なくとも五人。全員が20代から30代の女性で、最後の投稿から48時間以内に消息を絶っている。


翌朝、ユウカは佐伯の勤務先のカフェを訪れた。早朝の光が店内に差し込み、床に伸びる影がくっきりと浮かび上がる。普段なら何とも思わない光景が、今は妙に不気味に感じられた。


「佐伯さんですか?昨日から連絡が取れなくて...」


店長の表情が曇る。中年の男性は、懸念を隠せない様子で答えた。


「警察にも相談したんですが、昨夜から行方不明なんです。昨日の夜勤を最後に...」


声が震える。店長の影が壁に映り、不自然にゆらめいているように見えた。ユウカは目を凝らす。気のせいだろうか。影の輪郭が、わずかに歪んでいる。


「防犯カメラの映像、確認させてもらえませんか?」


店長は黙ってうなずき、事務所へと案内した。小さなモニターに、昨夜の映像が映し出される。23時過ぎ、佐伯は一人で閉店作業をしていた。照明を消していく様子、カウンターを拭く姿。すべてが日常的な光景だった。


そして、23時17分。突然、カメラに不自然なノイズが走る。画面が一瞬暗転し、再び映像が戻った時、佐伯の姿は消えていた。しかし、それは始まりに過ぎなかった。


画面の隅に、人影が映っている。少女のようなシルエット。黒髪の長い、白いワンピース姿の少女。だが、その足元には影がなかった。代わりに、少女の背後には複数の影のようなものが揺らめいていた。人の形をしているが、どれも歪んでいる。まるで生きているような動きを見せている。


少女は静かにカメラの方を向き、かすかに笑みを浮かべた。その表情には、人間離れした何かが潜んでいた。次の瞬間、カメラは完全に停止していた。


「この少女、知ってますか?」


店長は首を振る。その手が小刻みに震えているのが見えた。


「映像、コピーもらえますか」


「警察にも提出済みなんですが...どうぞ」


編集部に戻ったユウカは、映像を何度も確認した。少女の姿は確かにそこにあった。しかし、不思議なことに、画面をキャプチャしても、少女の部分だけが黒く潰れてしまう。拡大しても、編集を試みても、その部分だけが異常なノイズとなって現れる。


そして、映像の中の影たち。佐伯の影に似ているようで、どこか違う。まるで誰かの影が重なり合い、溶け合っているかのような不気味さがあった。


その夜、自室で記事の構成を考えていたユウカは、違和感を覚えた。部屋の照明が作る影が、いつもと違う。壁に映る自分の影が、わずかに歪んでいるような...。そして、その影の中で、何かが動いているような錯覚。


スマートフォンで影を撮影しようとした瞬間、画面が真っ黒になった。再起動しても直らない。諦めてパソコンの画面に向かおうとした時、背後で物音がした。


カーテンが風もないのに揺れる。そして、窓の外に人影が見えた。街灯に照らされた少女の姿。白いワンピースが夜風にはためいている。しかし、その足元には影がない。代わりに、少女の背後には複数の影のようなものが揺らめいていた。それは人の形をしているが、どれも歪んでいる。中には見覚えのある輪郭もあった。佐伯の影、そして他の失踪者たちの影。


少女はユウカと目が合うと、ゆっくりと笑みを浮かべた。その瞳の中に、数え切れないほどの影が映っているような錯覚を覚えた。


「あなたの影、とても綺麗ね」


かすかな声が聞こえた。少女の声は、まるで複数の声が重なり合ったような不気味な響きを持っていた。次の瞬間、部屋の照明が瞬き、少女の姿は消えていた。


ユウカは急いで窓の外を確認したが、もう誰もいない。ただ、路上には複数の影が重なり合うように伸びていた。人の形をしているが、どこか歪んだ影。まるで生きているかのように蠢いていた。


その夜から、ユウカの影にも変化が現れ始めた。誰にも気づかれない、微細な変化。照明に照らされた影の輪郭が、少しずつ薄れていく。そして、影の中で何かが動いているような違和感。まるで誰かの影が、自分の影の中に紛れ込もうとしているかのように。


それは、存在が消えていく始まりだった。そして、新たな影が生まれる予兆でもあった。






ユウカは佐伯のSNSアカウントをさらに詳しく調査した。投稿の変化は、一週間前の深夜から始まっていた。


『今日、変な子を見かけた。白いワンピースの女の子。街灯の下で立ち止まってたんだけど、影がなくて。きっと疲れてるんだよね』


その投稿への返信の中に、気になるコメントがあった。


『私も見た。三日前に。その後から、自分の影が変になって...』


コメント主のアカウントを確認すると、既に削除されていた。プロフィール写真も投稿も、すべて消えている。ただ、キャッシュに残された断片から、二十代後半の女性だということだけはわかった。


「他にも...」


類似のハッシュタグを探していくと、次々と同じようなパターンが見えてきた。最初は少女との遭遇。その後、投稿者自身の影の異常。そして、アカウントの消失。すべてが48時間以内の出来事だった。


編集部の蛍光灯が不規則に明滅する。ユウカは思わず自分の影を確認した。床に伸びる影は、まだ普通だった。しかし、その輪郭を見つめていると、わずかに揺らめいているような...。


「気のせい、よね」


自分に言い聞かせるように呟いて、取材メモを広げる。この一ヶ月の失踪者リスト。


・山田詩織(25)・会社員

・中村美玲(28)・フリーランス

・小林香織(24)・看護師

・石川里美(27)・主婦

・佐伯美咲(23)・カフェ店員


共通点は、すべて20代の女性。そして、最後の投稿には必ず「影」についての言及があった。


翌朝、ユウカは最初の失踪者、山田詩織の職場を訪れた。都内のオフィスビル、15階。蛍光灯の光が廊下に冷たい影を落としている。


「山田さんのデスクは、ここです」


人事部の女性が案内してくれた窓際の席。きれいに片付けられているが、まだ私物が残されたままだった。手帳、筆記用具、写真立て。写真には笑顔の山田が写っている。その影が、やけに濃く見えた。


「防犯カメラの映像は?」


「はい、こちらです」


映像は一ヶ月前のもの。残業していた山田の姿。23時17分、突然画面にノイズが走る。そして...。


「この時間、佐伯さんの時と同じ」


映像の隅に、またあの少女が映っていた。白いワンピース、黒い長髪。そして、足元には影がない。代わりに、背後には複数の影が揺らめいている。


「この少女、ご存じですか?」


人事部の女性は首を振った。しかし、その表情が一瞬こわばるのを、ユウカは見逃さなかった。


「何か、ご存じですか?」


女性は周囲を見回してから、小声で話し始めた。


「私も...見たんです。先週の夜」




人事部の女性―岸本梢(34)は、声を震わせながら話し始めた。


「先週の残業時です。確か、夜の11時過ぎ...」


蛍光灯が不規則に明滅する中、岸本は山田の元デスクを見つめていた。


「このデスクの前で見たんです。白いワンピースの少女が、じっと立っていて...。でも、足元に影がなくて。変だなと思って声をかけようとしたら、少女が振り向いて...」


岸本は言葉を詰まらせた。その表情には、思い出すことさえ恐ろしいという感情が浮かんでいた。


「背中に、影みたいなものがいっぱいついてて。人の形なんですけど、どろどろって...動いてて」


話しながら、岸本は自分の影を確認するように床を見た。その仕草に、どこか強迫的なものが感じられた。


「それ以来、私の影も...」


岸本の影が、蛍光灯の明滅に合わせて揺らめく。しかし、その動きは光の変化だけでは説明できないような、不自然なものだった。影の輪郭が波打ち、まるで何かが中で蠢いているかのよう。


「これ、撮影させてもらえますか?」


ユウカがスマートフォンを取り出した瞬間、廊下の照明が一斉に消えた。真っ暗な空間に、かすかな物音。そして、再び点灯した時、岸本の姿はなかった。


床には、複数の影が重なり合うように伸びていた。どれも人の形をしているが、どことなく歪んでいる。その中に、岸本の影らしきものが見える。しかし、それは既に彼女の影とは違うものに変わりつつあった。


ユウカは急いでその影を撮影しようとしたが、スマートフォンの画面は真っ黒なまま。カメラが反応しない。


「岸本さん!」


声が虚空に響く。応答はない。ただ、影だけが床の上でゆらめいていた。


その日の夜、編集部でパソコンに向かっていたユウカのもとに、一通のDMが届いた。差出人は「影の中から」という不可解なアカウント。


『あなたの記事、とても興味深いわ』


送信元のプロフィールを開くと、アイコンは真っ黒な画像。しかし、よく見ると、その黒い中で何かが動いているような...。


『私の物語を、書いてみない?』


画面が歪み、文字が溶けていくように消えていく。代わりに、黒い染みのようなものが広がっていく。その形は、人の影のよう。しかし、一つではない。複数の影が重なり合い、蠢いている。


ユウカは思わずパソコンから離れた。しかし、画面の中の影は既に机の上に溢れ出し、床に伸びていた。その先には、白いワンピースの少女が立っている。


「あなたの影、とても綺麗ね。私の一部に...」


蛍光灯が瞬く。少女の背後で、無数の影が蠢いていた。その中に、岸本の姿が見える。そして山田の、佐伯の、他の失踪者たちの影も。彼女たちは今、少女の影の一部となっていた。


ユウカは自分の影を見た。まだ普通の形を保っているように見える。しかし、よく見ると、その輪郭がわずかに揺らめいている。そして影の中で、何かが動き始めていた。


それは、新たな物語の始まりだった。影を失っていく物語。そして、影の中に溶けていく物語。





デスクの引き出しを片付けていると、古びた新聞の切り抜きが出てきた。50年前の夕刊。見出しに目が留まる。


『連続失踪事件の謎―影なき少女の目撃情報相次ぐ』


黄ばんだ紙面には、白いワンピース姿の少女の目撃証言が並んでいた。そして、失踪した人々の共通点。すべての被害者が、失踪前に自分の影が薄くなっていくと訴えていた。


記事の隅に、小さな写真が添えられている。防犯カメラの映像をプリントしたものらしい。白い服の少女。そして、その背後に揺らめく複数の影。画質は荒いが、確かに今のカメラに映った少女と同じ姿だった。


「50年前から...」


写真を手に取ろうとした瞬間、紙面が黒く滲み始めた。インクが溶けて広がるように、黒い染みが紙面全体に広がっていく。そして、その染みは机の上に溢れ出し、床に向かって伸びていった。


人の形をした影。しかし、それは一つではない。複数の影が重なり合い、うねるように動いている。ユウカは固唾を飲んで見つめた。影の中で、人々が苦しむような表情が浮かび上がる。


スマートフォンのフラッシュをたいた瞬間、影は一斉に壁を這い上がった。天井から、壁から、床から、無数の影がユウカを取り囲む。その中心に、少女が立っていた。


「50年前...懐かしい響きね」


少女の声は、まるで複数の声が重なり合ったよう。その瞳の中で、無数の影が渦を巻いている。


「あの時も、みんな私の一部になってくれた。でも、まだ足りないの」


少女の背後で影たちが蠢く。その中に、今日消えた岸本の姿も見える。彼女はまだ自分の形を保っているが、徐々に他の影たちと溶け合っていくのが分かった。


「私たちは、影の中で永遠に生きているのよ。寂しくないわ」


ユウカは思わず後ずさる。が、背後の壁には既に影が這い上がっていた。逃げ場はない。


「あなたの影も、とても魅力的」


少女が一歩近づく。影たちが、ユウカの足元に向かって伸びてくる。


「私の物語を書くつもりだったのよね?」


蛍光灯が激しく明滅する。その光の中で、ユウカは自分の影が少しずつ歪んでいくのを感じた。影の中で、何かが目覚め始めているような感覚。


「これで、あなたも物語の一部になれるわ」


少女の笑みが、闇よりも深い影を投げかける。ユウカの影は、もう完全に元の形を失っていた。そこには、新たな物語の始まりが、暗い予感とともに広がっていた。


記者の本能が、最後の言葉を記録させた。


「私の影は、何番目の物語になるの?」


少女は答えの代わりに、ゆっくりと手を伸ばした。影たちが、一斉にユウカに襲いかかる。


「千の影の、新しい一編になるのよ」


暗闇が訪れる直前、ユウカは確かに見た。自分の影が、少女の影たちの中に溶けていく様を。そして、その中で微かに光る、無数の目。それは、影となった人々の、最後の輝きだった。


新たな影が生まれる瞬間。そして、物語は闇の中へと沈んでいった。




第2話「影の深淵」


編集部の机に、異常なデータが並んでいた。


「また一人...」


ユウカの前のパソコン画面には、新たな失踪者のSNSアカウントが表示されている。岸本梢。人事部での出来事から48時間後、彼女の存在を示すあらゆる痕跡が消え始めていた。


投稿も、プロフィール写真も、全てが黒い染みのように溶けていく。まるで、デジタルの世界からも彼女の影が消えていくかのように。


「取材どうだった?」


デスクの中島が声をかけてきた。しかし、その声はどこか遠く感じられた。ユウカは自分の手元を見る。蛍光灯の下で、指先の影がわずかに揺らめいている。


「中島さん、これ...」


パソコンの画面に映る防犯カメラの映像を見せようとした瞬間、画面が真っ黒に染まった。そして、その黒い中から、人の形をした影が這い出てくる。


「おい、大丈夫か?」


中島の声が心配そうだ。しかし、ユウカの耳には、別の声が聞こえていた。


「私の物語、まだ始まったばかりよ」


少女の声が、影の中から響いてくる。画面の中の影が、デスクの上に溢れ出す。そして、その影は床に伸び、壁を這い上がり、天井から垂れ下がってくる。


人々の影。失踪した人々の、苦悶の表情を浮かべた影。そして、その中心にいるのは...。




「ユウカさん?」


中島の声が遠ざかっていく。目の前で、影たちが壁を覆い尽くしていく。その動きは、まるで呼吸をしているかのよう。膨らみ、縮み、うねるように蠢く影の群れ。


しかし、周囲の誰もそれに気付いていない。淡々と仕事を続ける同僚たち。彼らの影も、床に伸びているが、どこか不自然だった。影の輪郭が重なり合い、溶け合おうとしている。


ユウカのスマートフォンが震える。画面には新着メッセージの通知。送信者名は「影の中から」。開くと、真っ黒な画面の中で文字が浮かび上がる。


『あなたの記事、面白くなりそうね。でも、まだ足りない。もっと深い影が必要なの』


文字が画面の中で溶け出し、黒い染みとなって広がっていく。その形は人の影のようで、しかし人ではない何かの形。複数の影が絡み合い、新たな形を作ろうとしている。


「取材、まとめないと」


キーボードに手を伸ばした瞬間、モニターに映る自分の姿に気づく。背後に、白いワンピースの少女が立っている。


「記者さん、あなたはどんな影を持っているの?」


振り向く勇気はなかった。画面の中の少女が、ゆっくりとユウカに近づいてくる。その足音は聞こえないのに、影だけが床に伸びていく。違う、影ではない。影の形をした空洞。その中で、無数の人影が蠢いている。


「岸本さんのような、きれいな影。山田さんのような、強い影。佐伯さんのような、優しい影」


少女の声が、まるで水の中から聞こえてくるよう。


「でも、あなたの影は特別よ。だって...」


画面が歪み、ノイズが走る。モニターの中の少女の姿が、実体を持ち始めたような錯覚。


「あなたは、私たちの物語を書く人だから」


キーボードから手が離せない。文字が、勝手に打ち込まれていく。


『深夜の編集部で、私は影に出会った。それは人の形をしていたが、人ではなかった。影の中で、千の目が私を見つめていた。そして...』


「そう、その続きを書いて」


少女の声が、すぐ後ろから聞こえた。振り向くと、そこには誰もいない。しかし、床には確かに影が残されていた。白いワンピースの少女の影。そして、その影の中で蠢く無数の人影。




モニターの文字が滲み、黒い染みとなって机の上に落ちていく。その染みは床に広がり、人の形を取り始めた。ユウカは思わず足を引いた。


「おい、ユウカ」


中島の声。振り向くと、彼の姿が蛍光灯の下で妙に歪んで見えた。いや、歪んでいたのは影の方だ。床に伸びる影が、本来あるべき位置からずれている。


「資料室で面白いものを見つけたんだが」


中島の手には、黄ばんだファイルが握られていた。


「50年前の...」


言葉が途切れる。中島の影が、まるで意思を持つかのように動き始めた。本人の動きに関係なく、影だけが床を這うように伸び、壁を登っていく。


「気づいているのか?私の影がおかしいって」


中島の声が、どこか虚ろだった。


「最近さ、夢を見るんだ。影の中から誰かが話しかけてくる夢」


蛍光灯が不規則に明滅する。その光の中で、中島の顔が一瞬、別の表情を浮かべた。苦悶に歪んだ、人とは思えない表情。


「編集部の誰もおかしいと思わないのか?」


中島が指差す先には、仕事を続ける同僚たち。彼らの影も、すべて歪んでいた。机の下で絡み合い、壁を伝い、天井から垂れ下がる影たち。そして、その影の中には、人の顔のようなものが浮かび上がっては消えている。


「これが、資料室で見つけたものだ」


開かれたファイルには、50年前の新聞社の内部文書。「影の事件」に関する極秘調査報告書。


ページをめくる手が震える。そこには、白黒の写真が貼られていた。編集部の様子を写したものだ。現在と同じ光景。仕事をする記者たち。しかし、その影は全て歪んでいた。そして写真の隅に、白いワンピースの少女が写り込んでいる。


「この写真を撮影した記者は、その後...」


中島の言葉が途切れた。彼の影が、完全に本体から切り離され、壁を這い始めている。


「気をつけろ。影に...」


警告の声が闇に溶ける。中島の姿が、影の中に吸い込まれていくように消えていった。残されたファイルが床に落ち、ページが舞う。


そのページには、かすれた文字で書かれていた。


『影は記憶を運ぶ。そして、記憶は新たな影を生む。これは終わりのない物語。千の影は、千の物語を求めている』




資料室の扉が重く閉じる音が響いた。古い新聞社の資料が眠る空間。蛍光灯は時折チカチカと明滅し、棚の影を不規則に揺らめかせている。


落ちたファイルを拾い上げると、さらに古い記録が滑り出た。そこには手書きのメモが残されていた。


『影の少女に出会ってから3日目。机の下の影が、どんどん濃くなっていく。誰かが見ている。影の中から...』


文字が途切れている。インクが滲んだようなシミが、文字を飲み込んでいた。しかし、そのシミは今も広がり続けているように見えた。


「これは...」


棚と棚の間を進むユウカの足元で、影が不自然に伸びる。自分の影が、本来の向きとは違う方向に伸びていく。まるで何かに引っ張られているよう。


奥の書架の陰から、かすかな物音。振り向くと、一瞬、白いワンピースの裾が見えた気がした。


「誰か、いるの?」


声が虚空に吸い込まれる。代わりに、別の音が返ってきた。ページがめくれる音。風もないのに、古い新聞や記録が、まるで誰かが読んでいるかのように、次々とページをめくっていく。


そのページには、すべて同じような記事が並んでいた。


『連続失踪事件の謎』

『影が消えた記者』

『編集部で相次ぐ怪異』


日付は違えど、内容は酷似している。そして、それぞれの記事の写真には、必ず白いワンピースの少女が写り込んでいた。


「みんな、私の物語を書こうとしたのよ」


背後から聞こえた声に振り向く間もなく、蛍光灯が一斉に消えた。闇の中で、無数の影が壁を這う音。


再び光が灯った時、書架の影が、すべて少女の形を取っていた。無数の白いワンピースの影。その一つ一つが、過去に消えた記者たちの姿。


「あなたも、続きを書いてくれるのね?」


少女の声が、影の中から響く。それは一つの声ではなく、無数の声の重なり。過去に消えた人々の声が、一つに溶け合ったよう。


ユウカは資料を抱えたまま、出口に向かって走り出した。しかし、床に伸びる影が足を捉える。転倒した拍子に、抱えていた資料が散乱。紙片が舞い散る中、それぞれのページから影が立ち上がり始めた。


記録の中の影が実体化し、空間を埋め尽くしていく。その中で、かつて失踪した記者たちの声が木霊する。


「私も、物語を書こうとした」

「影の真実に近づきすぎた」

「もう、逃げられない」






散乱した資料の山から、古びた手帳が転がり出た。表紙には『取材記録:影の少女事件』と記されている。開くと、走り書きの文字が目に飛び込んでくる。


『彼女は私たちの影を集めている。でも、なぜ...』


インクの染みが、今まさに広がっているように見える。その黒い部分が、まるで穴のように深く、その奥で何かが動いているような錯覚。


資料室の蛍光灯が明滅する中、書架の影が次々と人の形を取っていく。白いワンピースの少女の影。そして、記者たちの影。彼らは皆、取材メモやカメラを手にしている。


「私たちは皆、真実を追いかけた」


声が影の中から響く。


「そして、影の中に真実を見つけた」


別の声。重なり合う声々が、まるで古い録音テープのように歪んでいる。


「だから、あなたにも見せてあげる」


少女の声が、すべての声を飲み込んでいく。


ユウカの足元で、自分の影が完全に本体から切り離された。影は床を這い、壁を登り、他の影たちと溶け合おうとしている。


手帳を握る手に力が入る。ページが勝手にめくれ、新しい文字が浮かび上がっていく。


『私は影の中で、すべての物語を見た。千の影が織りなす、終わりのない物語を...』


それは、まさに今、ユウカ自身が体験していることの記録のようだった。しかし、その文字を書いているのは、50年前の記者。あるいは、これから書かれる記録なのか。


時間が歪み、過去と現在が溶け合っていく感覚。


「さあ、あなたの番よ」


少女の声が、真上から降ってくる。見上げると、天井一面が影で覆われていた。無数の人影が、まるで巨大な渦を作るように回転している。


その中心に、少女が立っている。しかし、もはやそれは人の形をしていない。無数の影が重なり合い、人と影の境界が曖昧になった存在。


「この物語は、まだ千に足りないの」


影の渦が、ゆっくりとユウカに迫ってくる。


「だから、あなたも...」


逃げ場はない。影の壁が迫る。そして、ユウカは気づいた。自分の影が、もう完全に違うものに変わっていることに。


手帳に新しい言葉が浮かび上がる。それは誰かの記録であり、同時に今まさに起きていることの記述。


『影は私たちの本質。そして今、私は自分の本質が変わっていくのを感じている。これが、千の影の物語...』


資料室の扉が重く閉じる音が響いた。しかし、そこにはもう誰もいない。ただ、床に散らばった資料の上を、新たな影が這っていく。


それは物語の続きを求めて、次の語り手を探す影たちの足跡。


この瞬間も、どこかで新しい影が生まれ、新しい物語が紡がれていく。


終わりなき影の物語の、新たな一章として。





第3話「記憶の闇」


誰かが、影の中から見ていた。


編集部の明かりが、不規則に明滅する。机の上には、消えた中島の形見のように、古びたカメラが置かれている。レンズには、微かな傷。そして、その傷から黒い染みが滲み出しているような錯覚。


「ユウカさん、大丈夫ですか?」


同僚の声が、水中から聞こえてくるように遠い。振り向くと、彼女の影が壁に映っていた。しかし、その形は人のものとは違う。まるで誰かの影と溶け合っているかのよう。


「あの...昨日から中島さんの姿を見てないんですけど」


「中島さん?」


同僚の表情が空白のように見える。


「編集部にそんな人...いましたっけ?」


カメラのシャッター音が、虚空に響く。誰が押したわけでもないのに、カメラが勝手に作動している。ファインダーをのぞき込むと、そこには編集部の日常が映っていた。


しかし、映像の中の人々には影がない。代わりに、床一面に無数の影が蠢いている。人の形をした影。その中に、見覚えのある姿がある。中島の、そして失踪した他の記者たちの影。


レンズの奥で、白いワンピースの少女が微笑む。


「あなたの記事、面白くなってきたわ」




カメラのレンズに映る世界が、現実とは違って見える。ファインダーを覗くたび、影の風景が広がっていく。


オフィスの日常。仕事をする同僚たち。一見すれば普通の光景。しかし、レンズを通して見ると、すべての人々の影が歪んでいた。床に伸びる影が、本来の向きとは違う方向に伸び、絡み合い、溶け合っている。


「この写真、おかしくないですか?」


ユウカは同僚に、一週間前の編集部の集合写真を見せた。そこには確かに中島の姿があった。しかし、彼女の目には、それが透けて見えるような...。


「写ってるの、誰ですか?」


同僚の言葉に、写真の中の中島の姿がさらに薄れていく。インクが滲むように、その存在が画面から消えていく。そして残されたのは、不自然な空白と、濃い影。


カメラのシャッター音が再び響く。ファインダーを覗くと、編集部の風景が歪んで見えた。人々の動きが遅く、まるでスローモーションのよう。そして、その隙間を縫うように、白いワンピースの少女が歩いている。


「あら、また新しい影を見つけたわ」


少女の声が、フィルムの軋むような音と共に響く。彼女が指差す先には、デスクで仕事をする若い記者。彼女の影が、既に通常とは違う動きを見せ始めていた。


「綺麗な影ね。私の物語にぴったり」


シャッターが切られるたび、その記者の姿が少しずつ透明になっていく。そして同時に、周囲の人々の記憶からも、彼女の存在が薄れていくのが分かった。


「誰かいましたっけ、あのデスクに...」


「ああ、確か...誰だったかな」


人々の会話が、記憶の歪みを表していく。


カメラを手に取ると、レンズの奥で何かが動いた。無数の影が、フィルムの中で蠢いている。その中に見覚えのある顔が、次々と浮かび上がる。


中島。山田。佐伯。岸本。そして、たった今消えかけている記者の影。彼らは皆、カメラの中で新たな物語の一部となっていた。





フィルムが巻き取られる音が、異常に長く響く。


カメラの背面のスクリーンには、撮影された画像が次々と表示されていく。しかし、そこに映るのは現実とは違う光景だった。


一枚目。編集部の日常。しかし人々の影が、すべて少女の方を向いている。

二枚目。中島の最後の姿。彼の体が半透明になり、影の中に溶けていく瞬間。

三枚目。消えかけている記者の姿。彼女の周りを、無数の影が渦巻いている。


そして次の一枚。真っ黒な画面の中で、無数の目が開かれている。それは影となった人々の目。彼らは今も、この世界を見続けているのだ。


「面白いでしょう?」


少女の声が、カメラの中から響く。レンズに目を近づけると、そこには影の世界が広がっていた。


オフィスの風景。しかしそこでは影が主役で、人々は透明な幽体のように揺らめいている。影たちは自由に動き回り、時には人の形を取り、時には不定形な闇の塊となる。


その中心で、少女が微笑んでいた。彼女の背後には、これまで消えた人々の影が重なり合い、巨大な翼のような形を作っている。


「みんな、私の物語の一部になりたがるの」


スクリーンに新しい画像が表示される。それは50年前の編集部。同じように影が蠢き、人々が消えていく様子。そして、同じ少女の姿。


「50年に一度、物語は更新されるの。新しい影が必要になるから」


カメラのレンズに、ヒビが入る音。その傷から、黒い液体のようなものが滲み出してくる。それは床に落ち、人の形を取り始めた。






レンズの亀裂から滲み出る黒い液体が、机の上で人の形を取り始めた。それは中島の影。しかし、もはや人の形を完全には保っていない。他の影たちと溶け合い、新たな何かになろうとしている。


「見えるでしょう?みんなが物語になっていく様が」


少女の声が、カメラの機械音と重なる。スクリーンに次々と表示される画像。それは50年分の記録。同じように繰り返される消失の連鎖。


1973年の画像。記者たちの影が歪み始める瞬間。

1974年の記録。編集部全体が影に飲み込まれる寸前。

そして最後の一枚。完全な闇。その中で無数の目が開かれている。


「50年前も、100年前も、物語は続いていたの」


レンズの奥で、少女の姿が変容していく。白いワンピースが、まるで影そのもののように黒く変色していく。その体は、既に人の形を完全には保っていない。無数の影が重なり合い、うねるような動きを見せている。


「でも、まだ足りないの。千の影が揃うまでは」


カメラのスクリーンに、新たな画像が表示される。それは現在の編集部。人々の姿が徐々に透明になり、代わりに影だけが濃くなっていく。そして、その影は全て少女の方を向いている。


「あなたも、もうすぐ私たちの仲間になれるわ」


ユウカは自分の影を見た。床に伸びる影が、既に本来の形を失いつつある。そして、その影の中で、何かが蠢いている。まるで誰かの記憶が、影の中で生き続けているかのように。


カメラのシャッター音が、不規則なリズムを刻み始める。その度に、現実が少しずつ歪んでいく。人々の存在が薄れ、影だけが濃くなっていく。


そして、レンズの亀裂が更に広がる。そこから溢れ出す影が、もはや机の上に収まりきらない。床を這い、壁を登り、天井から滴り落ちる影。それは、50年分の記憶を内包した闇。




編集部の照明が、息をするように明滅を繰り返す。カメラのレンズの亀裂から溢れ出た影が、もはや止めどなく広がっていく。


天井から垂れ下がる影が、人の形を取っては崩れ、また新しい形を作る。その中に、かつての記者たちの面影が見える。彼らは今、50年分の記憶と共に、新たな存在となっていた。


「私たちの物語は、もうすぐ完成するの」


少女の声が、影の渦の中から響く。その姿は、もはや完全な人の形ではない。無数の影が重なり合い、うねるように動く、闇そのものとなっていた。


カメラのスクリーンが、最後の画像を映し出す。それは未来の風景。影に支配された世界。人々は透明な幽体となり、代わりに影たちが物語を紡ぐ。


「見て。これがあなたの書く最後の記事になるわ」


スクリーンに、文字が浮かび上がる。


『影たちの物語—最後の記者の記録』


それは、まだ書かれていない記事。しかし、既に影の中で完成されている物語。


編集部の空間が、徐々に影の世界と溶け合っていく。机やパソコン、人々の存在が薄れ、代わりに無数の影が実体化していく。


「千の影が集まれば、新しい世界が始まるの」


レンズの中で、少女の瞳が無数に分裂する。それは、影となった人々の目。彼らは皆、新たな物語の始まりを見つめている。





カメラのファインダーを通して見える世界が、完全に変容していく。


現実の風景が、まるでネガフィルムのように反転していく。人々は透明な輪郭となり、代わりに影たちが色濃く実体化していく。天井から垂れ下がる無数の影が、巨大な渦を形成し始めた。


「もう、逃げられないわ」


少女の声が、影の渦の中から響く。その姿は、もはや一つの形に留まらない。時には白いワンピースの少女、時には無数の影の集合体、そして時には、50年分の記憶そのものとなって揺らめく。


カメラのレンズの亀裂が、さらに広がる。そこから溢れ出す影が、もはや黒い液体としてではなく、生きた記憶として蠢いている。その中に、過去の記者たちの姿が見える。彼らは皆、カメラを手に、この瞬間を記録しようとしている。


「私たちの物語を、完成させてちょうだい」


スクリーンに、最後の画像が映し出される。それは未来の風景。影たちが主役となった世界。人々は透明な存在となり、影たちが物語を紡ぐ。その光景は、恐ろしくもどこか美しく見えた。


ユウカの手元で、キーボードが勝手に動き始める。


『影たちの最後の記録—千の物語の完成』


文字が、画面上で踊るように現れては消える。それは、まだ見ぬ物語の予感。


「さあ、あなたの番よ」


少女の手が、影の中から伸びてくる。その指先が、ユウカの影に触れた瞬間、世界が反転する。


現実が影となり、影が現実となる瞬間。


そして、カメラの最後のシャッター音が響く。


その一枚に写っていたのは、千の目を持つ新たな存在。それは、物語そのものとなった影たちの姿だった。


「物語は、まだ始まったばかり」


少女の最後の言葉が、影の渦の中に消えていく。


編集部の照明が、完全に消える。


しかし、暗闇の中でも、影たちは確かに動いていた。彼らは今、新たな物語の主役となり、未知の次元へと物語を紡ぎ始めようとしていた。


カメラのレンズに、最後の亀裂が入る。


そこから覗く世界は、もはや誰も見たことのない風景。


千の影が織りなす、終わりなき物語の序章。





第4話「消えゆく記憶」


編集部の机に、中島のカメラが置かれていた。


レンズに浮かぶ傷が、黒い染みのように広がっている。ユウカはファインダーを覗き込んだ。そこには編集部の日常が映っていたが、何かが違っていた。


人々には影がない。床に伸びる影は、すべて歪な形をしている。まるで誰かの影が混ざり合ったように。


「中島さん、見なかった?」


同僚に声をかけると、彼女は首を傾げた。


「中島さん...って、誰ですか?」


その言葉に、背筋が凍る。確かにここにいたはずの人物が、記憶から消えていく。デスクの上の私物も、パソコンの中のデータも、すべてが薄れていく。


カメラのシャッター音が鳴る。


誰も押していないのに、カメラが勝手に作動し始めた。スクリーンには異様な映像が映し出される。


編集部の風景。しかし、人々の姿が透けて見える。その代わりに、床を這う影たちがくっきりと映っている。人の形をした影。その中に、見覚えのある輪郭があった。


「私の物語に、加わってくれるのね」


背後から聞こえた少女の声に振り向く。そこには誰もいない。しかし、壁には白いワンピースを着た少女の影が映っていた。




ユウカは急いでスマートフォンを取り出した。中島の連絡先を探す。しかし、アドレス帳からその名前が消えている。LINEの履歴も、メールの記録も、すべて空白になっていた。


「おかしい...」


慌ててパソコンを開く。共有フォルダに保存されていたはずの中島の写真データが、次々と黒い染みのように溶けていく。記事の下書きからは、彼の名前が消え、空白の穴が開いていた。


カメラのシャッター音が、また響く。


スクリーンに映る編集部の風景が、さらに歪んでいく。人々の姿が半透明になり、その下から無数の影が這い出してくる。それは人の形をしているが、どこか違う。影たちは床を這い、壁を登り、まるで生き物のように蠢いている。


「あの...すみません」


声をかけてきた同僚の姿が、蛍光灯の下で妙に歪んで見えた。いや、歪んでいたのは彼女の影だった。床に伸びる影が、本来の向きとは違う方向に伸び、他の影と絡み合おうとしている。


「昨日から気になってたんですけど...私の影、変じゃないですか?」


同僚の声が震えている。彼女の影が、まるで意思を持つかのように動き始めた。本人の動きに関係なく、影だけが床を這うように伸び、壁を登っていく。


「助けて...」


彼女の声が遠ざかっていく。その姿が徐々に透明になり、代わりに影だけが濃くなっていく。


カメラのレンズに、新たな亀裂が入る。その傷から、黒い液体のようなものが滲み出してきた。机の上に落ちた染みが、人の形を取り始める。


見覚えのある輪郭。中島の影。





机の上の黒い染みから、中島の影が形を取っていく。


「見えているか?私たちの...世界が」


影からかすれた声が聞こえる。歪んだ輪郭の中で、何かが蠢いている。まるで誰かの記憶が、影の中で生き続けているかのように。


編集部の蛍光灯が、不規則に明滅し始めた。


その光の中で、人々の姿がちらつく。デスクで仕事をする同僚たち。しかし、彼らの動きが少しずつ遅くなっていく。まるでスローモーションのような動き。そして、その隙間を縫うように、影たちが這い回っている。


スマートフォンの画面が突然、真っ黒に染まる。


再起動しようとしても応答がない。画面に映り込む自分の顔が、どこか違って見える。いや、違っているのは背後の景色。オフィスの風景が歪み、壁という壁が影で覆われていく。


「私の...記事は?」


パソコンの画面を見ると、作業中の原稿が真っ黒に染まっていた。文字が溶け出し、人の形をした影の群れとなって画面の中を這い回る。


カメラのシャッター音が、また響く。


ファインダーを覗き込むと、編集部の光景が一変していた。人々の代わりに影だけが存在する世界。その中で、白いワンピースの少女が佇んでいる。


「もうすぐ、あなたも私たちの物語の一部になるわ」


振り向くと、そこには誰もいない。しかし、床に伸びる自分の影が、ゆっくりと歪み始めていた。




自分の影が歪む様子に、ユウカは息を飲んだ。


床に伸びる影が、まるで別の意思を持つかのように動き始める。それは本来の形を失い、他の影たちと混ざり合おうとしていた。


「これが、私たちの世界なの」


少女の声が、背後の暗がりから聞こえてくる。振り向くと、白いワンピースの裾が見えた気がした。しかし、その存在は捉えどころがない。見つめようとすると、視界の端に移動していく。


カメラのスクリーンに、異様な映像が映り込む。


それは編集部の風景。しかし、人々の姿が完全に消え、代わりに無数の影が蠢いている。その中に見覚えのある形がある。中島、そして先ほどまでいた同僚たち。彼らは今、影として新たな物語を生きているのか。


「助けて...誰か」


かすかな声が聞こえる。パソコンの画面が突然明滅し、中から人影が這い出してくる。黒い染みのような形が、次第に人の輪郭を取っていく。


画面の中で、影となった人々が何かを訴えかけている。しかし、その言葉は歪み、理解できない音となって響くだけ。


「もう、誰も助けられないわ」


少女の声が、まるで耳元で囁くように響く。その瞬間、編集部の照明が一斉に消える。暗闇の中で、影たちだけが淡く光を放っている。それは人の形をしているが、どこか違う。まるで、彼らの本質が露わになったかのように。




完全な暗闇の中で、影たちが光を放ちながら蠢いている。


「見て。みんなきれいでしょう?」


少女の声が、闇の中から響く。その姿が、ようやくはっきりと見えた。白いワンピースの少女。しかし、その背後には無数の影が重なり合い、人の形をした翼のように広がっている。


スマートフォンの画面が突然点灯する。

着信画面に表示される名前。

「中島」


「出ないの?」


少女が不気味な笑みを浮かべる。画面に映る着信履歴が、黒い染みのように溶け出し、床を這い始める。


「もう、遅いわ」


振り向くと、編集部の窓全体が影で覆われていた。外の街並みが見えない。代わりに、無数の人影が重なり合い、蠢いている。その中に、見覚えのある顔が浮かび上がっては消える。


カメラが、最後のシャッター音を鳴らす。


レンズの中で、影となった世界が鮮明に写り込む。そこには人々の記憶が、影となって永遠に漂っている。


「さあ、あなたの番よ」


少女の声が、より近くで響く。


ユウカは自分の影を見た。それは既に本来の形を失い、他の影たちと溶け合い始めていた。スマートフォンの画面に映る自分の姿が、徐々に透明になっていく。





「だめ...」


ユウカは自分の手を見た。指先が透明になり、その下から影だけが濃く浮かび上がってくる。


パソコンの画面に映る自分の姿が、まるで古い写真のように褪せていく。そこに最後の記事が表示される。


『影のない少女の取材を続けていく中で、私は気づいてしまった。この物語の本当の意味に...』


文字が黒い染みとなって溢れ出す。机の上を伝い、床に落ちた染みが人の形を取り始める。次々と立ち上がる影たち。彼らは皆、かつて同じように消えていった人々。


「記者さん、いい物語を書いてくれたわ」


少女が近づいてくる。その一歩一歩に、床の影が波紋を描く。背後の翼のような影が、さらに大きく広がっていく。


カメラのレンズが、最後の光を放つ。


スクリーンに映るのは、もう影だけの世界。そこでは無数の物語が、永遠に繰り返されている。


「私たちの物語に、あなたの章を加えましょう」


少女の手が、ユウカの影に触れる。


その瞬間、世界が反転する。


人としての存在が薄れ、影だけが鮮明になっていく。記憶が、意識が、すべてが影の中へ...。


最後に見たのは、机の上に残されたカメラ。

その傷ついたレンズの中で、千の影が新たな物語を紡ぎ始めていた。


そして今も、誰かが影のない少女の噂を追いかけている。

23時、一人きりのオフィスで。


(完)































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「影匿(かげかくし)」-記者の見た影の物語- ソコニ @mi33x

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