夢魔

 応接室へ戻るとラスタークがひとり、椅子にも座らず立っていた。

 ラスタークは部屋に入ってきたアイリスを一瞥すると会釈する。


「姫様は眠られましたか?」


「少し話してしまって遅くなりましたが、もうお休みになったかと。あれマルセル先生はどちらに?」


「それは良かった。マルセル殿なら奥の部屋に行かれましたよ」


「え。ラスタークさんを放っておいてですか」


「お気になさらず。私も構いませんとお答えしましたから」


「……そうですか。それなら良いのですけれど。どうぞ座ってください」


 アイリスは椅子を差して着席を促す。

 ラスタークはしばし間を置いてから頷いた。


「では失礼して。アイリス殿もよろしければどうぞ」


「では私も失礼して……と、その前にお茶持ってきますね」


 パタパタと小走りで居住区画へ行くと茶の準備をする。

 コーヒーと紅茶の両方を用意しながら、ふとマルセルの自室を見やる。

 ――マルセルさんも飲むかな。

 とはいえ声がけやノックをすると怒られることもあるので不用意な干渉は避けたい。

 アイリスはマルセルの分も用意して目につきやすい机の上に置いておくことにした。


 診察室へ戻るとアイリスは問うた。


「どちらがよろしいですか?」


「では紅茶を。ありがとうございます」


「いえいえ。むしろ遅くなってしまい申し訳ありません」


「謝るようなことではございませんよ。それよりも姫様はどうでしたか」


 ラスタークの質問の意図が分からずアイリスは首を捻った。


「楽しげな声が聞こえておりましたから、仲良くなれたかなと思いまして」


「……そうでしたかお恥ずかしい。マオラ様とは分不相応かもしれませんが、友人になりました」


 アイリスの返答にラスタークは口元を綻ばせる。


「私も姫様の側近として嬉しい限りです。損得抜きで関われる友人というのは希少ですからね」


 言葉の端に苦労が伺える。

 確かに王族ならば打算で擦り寄る者も敵意を向ける者も多いだろう。


「ラスタークさんはマオラ様にどれくらい仕えていらっしゃるのですか?」


「姫様がお産まれになった時からです」


「すごい。だからラスタークさんのことを……」


「姫様が私のことを何かお話になられたのですか?」


 半ば独り言であったところを拾われてアイリスは驚く。

 ――話したところで誰が傷つく話でもないか。


「マオラ様とは異性への恋心や愛情についてお話ししたのですが、その中で愛情を抱く相手として近しいのはラスタークさんだと仰っていました」


 アイリスの告げ口にラスタークが目を丸くする。


「姫様がそのようなことを……ふふっ」


 ラスタークは嬉しそうに口元を綻ばせた。

 柔らかな笑みは正しく母性というのだろう。我が子を愛するようにラスタークはマオラへ接していたのかもしれない。


「よろしければマオラ様のことをお聞かせください。私も初めての友達なので、いろいろと知りたいのです」


 ラスタークは緩んだ顔を引き締めて勘案する。

 しばらくして再び顔を緩めると頷いた。


「アイリスさんなら大丈夫でしょう。さて、あれは姫様がお幾つの頃だったか――」


※※※


 アイリスはラスタークとの談笑に二時間ほど話を咲かせ、三度目となる飲み物のおかわりを用意していた。

 ――コーヒー無くなってる。

 ふと目に付いたのは消えたコーヒーカップだった。

 二度目の時はあったので、三度目を入れに来るまでの一時間の間にマルセルが取ったのだろう。

 礼の一つも貰ったわけではないのだけれど、自然とアイリスの口元は綻んだ。


「これでよし、と」


 そうしておかわりを注ぎ終え、戻ろうとしたその時だ。


「姫様!」


 応接室から叫ぶ声がして、アイリスはコップを置き走り出した。

 応接室へ戻るとぐったりしたマオラをラスタークが支えていた。

 マオラは水浴びでもしたのかと思うほどに汗で身体が濡れている。

 ――毛布が必要だ。

 何があったのかは分からないけれど身体を冷やしては風邪を引く。話を聞くのはその後だ。

 アイリスはラスタークへその旨を伝えると、応接室を抜けてベッドのある部屋へ向かった。

 そして予備の毛布を引っ張り出していると、ふとマオラが寝ていたベッドが目に入った。


「……何があったの?」


 どれほどの発汗だったのか。シーツの色が変わっているし、相当うなされたようでグシャグシャだ。

 ――え? うそ。これって血?

 ベッドの中ほどには少量だが血の跡まであった。

 夢魔が見せる夢は傷を現実に反映させるほどだとマルセルは言ったが、まさか本当にそうなってしまったのか。

 アイリスが急いで戻ると応接室にはマルセルの姿があった。


「どういうことですかマルセル殿。姫様に何が起きたというのですか」


 ラスタークの詰問にマルセルは神妙な表情を浮かべる。


「夢魔は本人の望む夢を見させ、喰らう魔物だ。嘘偽りはない。だが確かに、これは異常だ」


 マルセルの言葉にアイリスは驚く。

 全てを知り尽くしているかのように見えるマルセルにも知らないことがあった。想定を上回るよほどのイレギュラーが起きたと見るべきか。


「先生。ベッドには少量ですが出血痕もありました。マオラ様はどこか怪我をしているのかもしれません」


「……出血だと? 目立った外傷は見られないが」


 アイリスもマオラを観察するが、マルセルの言う通り外傷は見られない。

 であれば吐血? そういえばラスタークの話ではマオラは昔食事に毒を盛られたことがあると言っていた。

 ――マオラにとって衝撃的な事件だから、夢に見た? でもそれは本人の望みではないはず。


 皆が頭を悩ませいるとマオラが呻き、おもむろに目を開けた。


「姫様!」


「すまないが意識確認をさせてもらう。場合によっては処置が必要だ」


 そう言って近寄るマルセルに、ラスタークはマオラを抱き寄せながら警戒の眼差しを向ける。

 しかしマルセルの真剣な面持ちに気圧されたのか、仕方ないといった様子で下がった。


「……ここは」


 溌剌としたマオラらしからぬ、痛ましいと思うほどにか細い声だ。

 そしてぼんやりと虚空を見つめるマオラの双眸が、顔を近づけるマルセルを捉えた。


「あ、や、離れて!」


 マオラが叫んだ拒絶にすかさずラスタークが割って入る。

 いつの間にかその手には短刀が握られていた。

 マルセルも武器を抜いたラスタークに警戒を強め、後退った。


「大丈夫。姫様は私が守ります」


 ラスタークは柔らかな笑みをマオラへ落とす。

 次の瞬間、アイリスはぶるりと震えた。

 ラスタークの鋭利な眼光がマルセルとアイリスを射抜いた。

 ――違う。マルセルさんだってマオラを傷つけるような真似はしないよ。

 訴えたいが喉奥に石が詰められたかのように言葉が出ない。それどころか呼吸するのがやっとだ。

 それほどにラスタークが向ける殺意は鋭かった。


「違う。違うのラスターク」


 そして否定を発したのはマルセルでもアイリスでもなく、マオラだった。

 冷静なラスタークでさえ困惑している。何が違うのか。何が正しいのか。この場にいるマオラ以外の誰もがわからない。ゆえに皆がマオラの言葉を待った。


「マルセルさんは何もしていないの。むしろ彼が言った通りに夢を見ただけ」


「ですが姫様は明らかに衰弱しています。友人の師とはいえ無理に庇い立てる必要はございません」


「そうだよマオラ、様。何が起きたのか話してくださらないと、私たちも何もできません」


 アイリスの口振りにマオラは少し悲しげな顔を向けてくる。

 ――わかっているけど、そんな顔しないで。

 アイリスまで胸が痛んで眉を歪める。

 先ずは誤解を解かねば一触即発の空気に押し潰されてしまう。

 マオラはゆるゆると頭を振った。


「本当に夢を見ただけ。ただ、その、ごめんなさい。話したくないの。少し休めば元気になるから、ラスタークは剣をしまって」


 マオラはラスタークへ懇願する。

 流石のラスタークもマオラの願いを無碍にはできないのか、渋々と言った様子で短刀を腰の裏へ収めた。


「あとでふたりになったら必ず話してください」


「……わかった。すぐに話せなくてごめんね」


 マオラが頷き、事態は終息した。

 それから小一時間ほど休憩するとマオラは自分で歩ける程度に回復した。

 マルセルは容態の打診を申し出るがマオラはやはり断った。


「マルセル様にお聞きしたいのですが、夢魔は本当に本人の望む夢を見せるのですか? 他者が特定の指向を持たせたりは……」


 マオラの問いにマルセルは首を振る。


「夢魔は所詮魔物です。襲う相手が望む夢を見させるのも、それが夢魔にとって美味であるからに他なりません。そもそも夢魔は本能のまま動くだけで、何かを覚えさせられるほどの知能を有しませんから」


「しつこいようですが、本当に?」


「あなた方の神にでも何にでも誓って本当です。嘘であれば私の全財産だろうと命だろうと差し上げますよ」


 金を何よりも大事にするマルセルが全財産と言うのだから真実なのだろう。

 それだけに不可解だ。執拗に確認するほど信じ難い夢だっということか。

 ――本当にどんな夢を見たの?

 アイリスが見つめていると、マオラが妙な眼差しを向けているのがわかった。

 粘度を持った視線だ。その先にはマルセルがいる。

 ますますわからなくなり、アイリスは眉間に皺を寄せた。

 すると不意にマオラの視線がアイリスへ向けられる。


「アイリス、さん。奥で少し話をしませんか」


「姫様、私も行きます」


「ラスタークは来ないで。あとで貴方にも話すから、今はアイリスさんと話したいの」


「……承知しました」


 拒絶されるとは思っていなかったのか、ラスタークは側から見てもショックを受けている。

 アイリスもまさか自分に話が来るとは思わず、目を丸くしていた。

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