邂逅

 故郷の村を離れて二日が過ぎ、アイリス・フィードはようやく密林に辿り着いた。


 地図によれば目的地であるフェリク村は密林を抜けてすぐらしい。

 背丈の十倍は優にあろう樹木が生え並ぶ密林地帯。まだ踏み入ってすらいないのに、濃密な自然の先には数多の生物がひしめく気配を感じる。


 アイリスは首元に下げた小さな布袋を握り締めた。

 当然、魔物も多くいるのだろう。

 魔物避けの香のおかげで道中は無事に来られたが、密林という箱庭においても果たして魔物避けは叶うだろうか。

 護身用に父の遺品であるダガーが一振りあるけれど、素人の剣捌きが魔物に通用するとは思えない。

 遭遇すれば、待ち受けるのは無惨な死だ。


「……っ」


 不意に脳裏を過ぎるのは両親の亡骸だった。

 亡骸とも言えない身体の一部。腕の立つ両親ですら残ったのはソレだけだった。

 きっと自分では身体の一欠片も残さず……。

 アイリスは嫌な想像を頭を振って掻き消した。

 立ち止まる猶予はないのだ。

 ――父さん。母さん。どうか私を守ってください。そしてあの子を助けさせて……!

 揺らいだ決意を祈りで固め直し、アイリスは密林へと踏み入った。


 密林は薄暗く、湿気ていた。

 遥か高く伸び重なる枝葉が空を遮り、行き場を無くした獣たちの熱が立ち込めている。

 緩慢な足取りでアイリスは進む。

 一刻も早く駆け抜けてしまいたいのだけれど、恐怖心が拭えない。

 茂みがガサリと揺れればそこに両目が釘付けになる。鳥の類が囀れば肩が大きく跳ねる。自分の心臓の音が魔物を呼び寄せてしまいそうで恐ろしい。

 ――臆病でなければもっと早く抜けられるのに。

 焦燥を抱き、苛立ちすら覚えるのだけれど足は少しも早く動かない。

 木々のざわめきが、自分を嘲笑しているようにすら感ぜられた。


 そうしてどれくらい歩いただろうか。

 道中の距離感覚と縮尺の地図を照らし合わせれば、密林を抜けるのに要する時間はおおよそ見当がつくのだけれど。


「もうすぐ抜けても良いはずなのに」


 アイリスが見据える先に光は差していない。

 変に曲がった覚えもないが――ふと、アイリスは振り返る。


「……?」


 通ってきた時と変わらぬ密林がそこにある。

 しかし気配を感じた。

 何かに見られているような気がして首の後ろが疼いたのだ。

 見えてくるはずの出口が見えてこないせいで不安になったからか。

 けれど勘違いで済ませるには状況が悪い。

 ――急ごう。

 重かった足取りがようやく早まる。

 小走りになりながら自然と右手はダガーの柄に、左手は胸元の布袋に伸びた。


 その時だ。

 ガササ、と背後で音がした。

 枝葉が風に揺られた音ではない。明らかに何かしらの生物が茂みをかき分けた音だ。

 ――いる。いる!

 恐怖心に背を叩かれて、アイリスは走った。


 樹木の合間を縫い、地表へ出張った根を飛び越え、茂みを抜ける。

 それでも背後の音は止まない。遠退かない。気配がべったりとアイリスについてきていた。


「はっ、はっ」


 呼吸が荒ぐ。

 まだ大した距離を駆けたわけでもないのに息が上がっていた。

 連日ろくに休まず歩いている弊害か。それとも恐怖に身体が強張るせいか。おそらく両方だろう。

 未成熟な身体に分不相応な心身の疲労を乗せている。均衡の崩壊はすぐにやってきた。


「あっ?」


 トン、と背中を押された。

 掴むのに失敗したのか、押し倒すつもりだったのかはわからない。しかし気力で押し留めていた姿勢を崩すには十分だった。

 身体が浮遊感に包まれて地面が視界に飛び込んでくる。

 アイリスは顔を地面へ擦り付けるように転んだ。


 鼻腔を突き刺す自然の匂い。

 遅れて痛みがやってくる。

 鼻の奥がツンとして目尻に涙が浮かんだ。

 痛みに意識を取られ、反応が遅れた。

 ――まずい。

 アイリスは急いで地面に腕を立て起き上がろうとする。

 その頭を、何かが思い切り押さえつけた。

 今度は顎から地面へ叩きつけられて悲鳴も出ない。

 代わりに生臭い息が頬にかかった。

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