第3話 偽りの恋人契約

 放課後。

 教室の空気は、いつもよりどこか落ち着かない。

 真白とその取り巻きグループが廊下で楽しそうに騒いでいる声が聞こえるたびに、俺は眉間にしわを寄せる。

 忌々しい記憶がぶり返し、胃の奥がチリチリと痛むようだ。


(……さっさと終わらせて帰りたい)


 そう思いつつも、俺には今日すべきことがある。

 朝の屋上で宣言してきたあの学園の姫――氷室ルナと話をすること。


 授業が終わると、ほどなくしてクラスの連中は部活へ向かったり、友達同士で遊びに行ったり、それぞれの放課後を楽しみに散っていった。

 俺も帰り支度を整え、そっと教室を出る。相変わらず周囲からの「昨日フラれたヤツ」という目線を感じるが、もう慣れつつあった。


 ルナは一体どこにいるのか。

 学園の姫だけあって、校内のどこに行っても目立つはずだが、かといって遭遇したら彼女が囲まれてしまいそうな気もする。


「とりあえず、校内を一通り回ってみるか……」


 屋上、図書室、渡り廊下……普段行かないような場所を覗いてみたが、ルナの姿はなかった。

 諦めかけて昇降口に戻ってきたところで、誰かの視線を感じて振り返る。


「……あら、藤崎くん。探してくれていたの?」


 立っていたのは、いつの間にか後ろに回り込んでいたルナだった。

 金髪のゆるやかなウェーブが夕日の差し込む玄関に映えて、まるでドラマのワンシーンみたいに見える。


「……いきなり後ろに来ないで」

「ごめんなさい。でも教室に行ってもいないし、どこを探しても見つからなかったから。私から捕まえに来ちゃったわ」


 悪びれる様子はまるでない。むしろ楽しそうに微笑んでいる。


「その……昨日の続き、だよな」

「ええ、『ゲーム』の話をね。どこかで腰を据えてお話ししましょうか。ここじゃ落ち着かないでしょう?」


 ルナはそう言うと、廊下の奥を指さす。


「あちらの空き教室なら、使われていないはずよ」


 実際に案内されたのは、使われていない準備室だった。カーテンが半分閉まっており、部屋の中は薄暗いが、埃っぽさはない。

 扉にカギはかかっていないが、人通りはほとんどない場所だ。


「この学校、無駄な空間が多いのよね。今は都合がいいのだけれど」


 ルナはクスッと笑いながら室内を見回す。俺は少し警戒しつつも、ドア近くに立ったまま話を切り出した。


「それで――手を組むって具体的に何をすればいいんだ? 俺が復讐したいって気持ちは……正直、ある。だけど、氷室さんの目的は単に退屈しのぎって言ってたよな」

「そうね。私の退屈を紛らわせる遊び……といったら聞こえが悪いかしら?」

「いや、まあ……悪いな」


 彼女は上品に肩をすくめて、続ける。


「ただ、あなたにとっても悪い話じゃないわ。お互いにメリットがあると思わない?」


 メリット。

 確かに、学園中から注目されるルナが「俺の味方」になれば、今のクラスでの嘲笑の空気は変わるかもしれない。

 それどころか、真白や取り巻き連中の鼻を明かすことだって不可能じゃなさそうだ。


「……でも、どうやるんだ? 氷室さんと俺は別に友達でもなんでもないだろ?」


 すると、ルナは小悪魔的な笑みを浮かべて小さく首を振った。


「友達程度じゃ足りないわ。私が望むのはもっと派手な変化よ。あの『姫』が、地味な男と付き合い始めた――そのくらい衝撃的な事実がないと、揺れ動かないでしょう?」

「え、付き合う……?」


 思わず裏返った声が出てしまう。


「偽装よ、あくまで。私たちが周囲に対して『恋人同士を装う』の。実際に付き合うわけではないわ」


 偽装恋人。

 言葉だけでも衝撃が走るが、ルナの口調はあくまで冷静だ。彼女は続ける。


「私のような『姫』が、急に学園の底辺扱いの男子と付き合い始める。誰だって驚くし、あなたの評価はガラリと変わるでしょう。そして、あなたを笑いものにした真白さんたちはどう思うかしら……?」


 確かに、考えてみればそれは大きな一手だ。

 あれほどの人気者のルナが俺を選んだ――それは学園の常識を根本から揺さぶる出来事になるだろう。

 真白たちも、笑っていられなくなるかもしれない。


「でも……偽装って、具体的にどうやるんだ? 手をつなげばいいのか? デートとか、そういうのも?」

「そう。人目のあるところでは、とにかく恋人らしく振る舞ってもらうわ。もちろん、私もそれに合わせる。お互いに利益のためにね。つまり、『恋人契約』ね」


 ルナの提案は、俺にとっても悪い話じゃない。

 形だけでも姫の彼氏という立場を得れば、学園カーストの最上位クラスに一気に近づく。

 それどころか、今の嘲笑や侮蔑の目は「あいつ、何者だ?」という畏怖や興味に変わるかもしれない。


「……わかった。乗ってやるよ、その『ゲーム』に」


 俺の言葉に、ルナは満足げに頷いた。


「いい返事ね。あなたの復讐に最大限協力するわ。結果として私も退屈から解放されるなら、一石二鳥よ」


 それでもまだ、疑念はある。


「氷室さんは……本当にそれだけが目的か? 退屈しのぎってことは、仮に俺が真白たちを追い詰められなかったら、すぐに捨てる気なんだろ?」


 ルナは冗談めかした顔で唇に指を当てる。


「さあ、どうかしら。私があなたを捨てるよりも先に、あなたが本気で真白さんを追い詰める姿に期待したいわね」


 その口ぶりからすると、本当の目的はほかにもありそうだが、今は深く追及する気になれなかった。


「それじゃあ、どうやって周囲にアピールする? 急に教室で『付き合います』って宣言でもするのか?」

「そうね……そのあたりは私に任せてちょうだい」


「任せる……?」

「ふふ、明日までのお楽しみ。私が合図したら、あなたは私と堂々と腕を組むなりしてくれればいい。そしたら、自然と藤崎悠斗と氷室ルナが付き合い始めたという噂が一瞬で広がるわ」


 どれだけ自信満々なんだ。

 だがルナの瞳からは確固たる意志が感じられる。想像を超える行動力とカリスマが、彼女にはあるのだろう。


 俺は首をコキコキと回して気を引き締める。


「わかった。じゃあ、俺は氷室さんの彼氏として全力で演じることにするよ。それが、俺の復讐にも繋がるっていうなら……」


 そう言い切ると、ルナはにっこりと笑みを深めた。


「決まりね。今日から私たちは『偽装カップル』よ」


 そう言って白い手を差し出してきた。まるで契約書にサインを求めるように。


 俺はその手をゆっくり握り返す。

 柔らかくて、少し冷たい。神聖なものに触れたような不思議な感覚だ。


「これで、契約成立ね」


 ルナは満足そうに言ったあと、手を離し、スカートの裾を優雅に翻して振り向く。


「明日を楽しみにしていて。きっと、あなたの思い通りの『復讐』の舞台はすぐに整うわ」


 最後に残した言葉は、まるで確信に満ちていた。

 彼女が出て行った準備室に、静寂が戻る。


(ほんとに大丈夫か、これ……?)


 まだ半信半疑で、俺はぼう然とその場に立ち尽くしていた。

 けれど、もし本当にこの「ゲーム」が成功すれば、真白へのこの悔しさも、怒りも、きれいさっぱり晴らすことができるかもしれない。


 ……そう、願わずにはいられない。


 俺は深いため息をついて扉に向かうと、夕闇に染まり始めた廊下を歩き出した。

 契約は結ばれた。あとは実行あるのみ。

 そして翌日、俺は「爆弾」とやらが何なのかを知ることになるのだろう。


 背後で小さく軋む準備室のドアを閉め、校舎を出る頃には、外はすっかりオレンジ色に染まっていた。

 どこか胸の奥がざわつく。後戻りできない道に踏み出した気がしてならない。


「……偽装の彼氏、か」


 その呟きが、空に吸い込まれていく。

 俺は今まで体験したことのない世界に足を踏み入れようとしていた。

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