第2話 嘲笑と金色の誘い

 翌朝。

 俺はいつものように電車で登校したが、気分は最悪だった。

 昨日、裏庭で真白に告白し、まるで見世物みたいに笑われた光景が頭から離れない。


 ──忘れたい。

 そう思うほど、脳裏には何度もあの場面が再生される。隠れた女子たちがクスクス笑っていたあの瞬間。

 胸くそが悪い。


 それでも学校に足を運ばないわけにはいかない。どんなに苦しくても、「クラスメイトの前で逃げた」と思われるのはもっと最悪だ。


 教室に入ると、視線が一斉に俺へ向けられた気がした。別に声をかけられはしない。しかし、小声の囁きが耳をかすめる。


「あれ、あの人でしょ。昨日、裏庭でフラれたっていう……」

「え、マジなんだ。どんな勘違い告白だったの?」

「真白ちゃんのほうはどうなの?」


 まったく、早すぎる。噂がどれだけの速度で広がったのか想像もしたくない。

 俺はそれを無視するしかなかった。あからさまに反応したら、さらに面白がられるだけだ。


 席に着いても、まともに勉強する気力が湧かない。いつもなら予習のノートを見返したりするのに、今日はただ机に突っ伏して頭を抱えるしかなかった。


「……藤崎くん、おはよう」


 小さな声が頭上から聞こえた。顔を上げると、クラス委員の女子が半笑いを隠すように目を逸らしている。


「今日のHRで配るプリント、回してくれる?」

「ああ……わかった」


 どこか腫れ物に触るような態度だ。まるで「こいつは告白に失敗して恥をかいた可哀想なヤツ」と思っているのが伝わる。

 教室の隅にいるだけで、居心地が悪すぎる。


 やがて始業のチャイムが鳴り、ホームルームが始まる。

 退屈な連絡事項をぼんやりと聞き流しながら、ちらりと真白の席を見た。

 真白は友達と談笑している。彼女自身もさすがに居心地が悪そう……なんてことはないらしい。いつも通り、明るい表情で周囲の中心にいる。

 ときどきこちらをチラッと見る気配を感じるが、目が合ったわけではない。意識しているのかいないのか分からない。


 ──あの頃の真白じゃない。

 そう思うと、無性に虚しくなった。中学の頃は、あんなに優しかったのに。


 ホームルームが終わり、最初の授業までのわずかな休憩時間が地獄のように長く感じる。誰も声をかけてこないのに、周囲の視線と囁きだけは消えない。


 うんざりして廊下に出たところで、やたらと派手なグループが笑いながら通りすぎた。

 真白がその中心にいる。


「あ、悠斗くん……」


 真白は気まずそうに視線を泳がせたが、結局声をかけてくることはなかった。


 だったら最初から俺の名前なんて呼ばなきゃいいのに。

 何がしたいのか分からない。あるいは、ただの罪悪感の表れか。


(どうでもいい。もう関わりたくない)


 そう強く思った。

 胸の中には悔しさと恥ずかしさが入り混じった黒い感情が渦巻いている。


 苛立ちをやり過ごそうとした、その時だった。


「……ごきげんよう、藤崎くん」


 涼やかな声が背後からかかり、俺は思わず振り向く。


 そこにいたのは、金髪をゆるやかにウェーブさせた、見るからに高貴な雰囲気の少女。

 氷室ルナ――学園の姫と呼ばれる存在だ。


「……氷室……さん」


 美術館の絵画から飛び出してきたような美貌と、その整然とした佇まいに、一瞬圧倒される。

 だけど、どうして俺に話しかけてくる?


「昨日のこと、見ていたわ。裏庭での……告白、かしら?」

「っ……」


 心臓がぎゅっと締め付けられる。昨日時点で彼女がいたのは最後に見かけたけど、まさか最初から全部見ていたのか?

 なにも言えないでいる俺に、彼女は涼やかな瞳で続きを促すように微笑んだ。


「……まあ、気が向いたらお話ししましょう。たとえば、昼休みとか、放課後とか。あなたがその気なら、だけどね」


 そう言い残すと、ルナはくるりと踵を返して去っていく。残されたのは俺の混乱だけだった。


(……何を考えてるんだ)


 氷室ルナは学園の中でも特別な存在だ。

 美貌と頭脳、さらには名家のお嬢様という背景もあって、生徒会からも教師からも一目置かれている。取り巻きやファンクラブのようなものまで存在するとか。

 そんな人が、なんで俺に興味を?


 結局、朝のホームルーム以降の授業は集中できずに終わった。気づけば昼休み。

 教室にいても息が詰まりそうだったので、俺は屋上に行くことにした。


 屋上は立ち入り禁止になっていないが、生徒が少ない場所だ。弁当を食べたり、サボったりする奴くらいしか来ない。

 昼を食べるつもりだったが、食欲はあまりなかった。パンを一口かじって、ペットボトルの水を飲む。


「こんなところにいたのね」


 不意に聞こえた声に振り返ると、そこには氷室ルナが立っていた。

 午前中の廊下での会話もあって、さすがに驚きはするが、もはや混乱は少ない。


 「……つけてきたのか?」

 「あら、ごめんなさい。あなたの姿を見かけたから、ちょっとついてきただけ」


 悪びれない笑み。上品なお嬢様のはずなのに、その仕草や雰囲気からはどこか裏の顔が覗いているようにも見える。


「何か用」

「ええ、もちろん」


 ルナは俺のほうへすらりと歩み寄った。

 その瞳はまっすぐに俺を捕らえて離さない。まるで標的を見つけた狩人のようだ。


「昨日のあなた、ちょっと面白かったから」

「……面白かった、ね」


 ムカつく言葉だ。だが彼女は悪意というより、本当に興味でそう言っているように見えた。


「ねえ、藤崎くん。あなた、本当はもっとできる子でしょう?」

「どういう意味だ」

「学年トップの成績を持ちながら、地味に振る舞い、人からの評価を避けている。しかもあの真白さんに、あそこまで純粋に思いを伝えようとした。私から見れば、不思議で仕方ないわ」


 俺の成績順位は公表されるテストもあるから、知っている人は知っているだろう。


「別に大したことじゃないよ。氷室さんには関係ない」


 突き放すように言ったのに、ルナは笑みを深めるだけだった。


「そうかしら? 私には、あなたが必要な気がしているのだけれど」

「俺が……必要?」


 その意図を測りかねて黙り込むと、ルナは俺の目の前で指先をひらひらとさせた。


「あなた、真白さんのことを恨んでいるでしょう? だって、あれだけの仕打ちをされたんだもの」

「……!」


 痛いところを突かれて息を呑む。確かに恨んでいる。昨日の屈辱、いや、もっと言えば中学時代のあの頃の彼女を取り戻せない悲しみも混ざって、俺の感情はぐちゃぐちゃだ。


「ならば、ちょっと面白い『ゲーム』をしない? 私と手を組めば、真白さんをはじめとする、人間関係をひっくり返すことなんて容易いと思うけれど」

「『ゲーム』……?」


 彼女の瞳が怪しく輝いている。まるで、俺の中の復讐心に気づいた悪魔が囁いているみたいだ。


「私、退屈なの。学園生活があまりにも単調で、周りは私をちやほやするばかり。あなたも知ってるでしょう? 『学園の姫』なんて呼ばれているけれど、私にとってはただの退屈な日常よ」

「……だから、俺を利用するってことか?」

「そう。正確に言えば私もあなたを利用するし、あなたも私を利用すればいい。利害関係が一致するでしょう?」


 利害関係……。

 確かに俺は真白に対して強い感情を持っている。もし氷室ルナの力が加われば、学園内でどんな影響があるかは想像できる。彼女は別格のステータスを持っていて、姫の相手になるだけで周囲の見る目は変わるはずだ。


「そんなことして、楽しいのか? おまえに何の得がある?」

「退屈が紛れる。それだけで十分よ。あとはあなたが、あなたの望む復讐を成し遂げられれば、私もそれを見ながら存分に楽しめるわ」


 どこか悪魔的な微笑み。お嬢様然とした優雅な顔立ちには似つかわしくない、危うい輝きが宿っている。

 ……正直、俺は戸惑いを隠せない。こんな話、現実離れしすぎだろ。


「もし興味があったら、放課後にでも、もう一度話しかけて。私はいつでも歓迎するわ。あなたが、まだ迷っているみたいだから」


 最後まで自信満々な口調で言い残し、ルナは金色の髪を揺らして屋上から去っていった。

 去り際の後ろ姿まで絵になるのは、さすが「学園の姫」といったところか。


 俺はその場に取り残され、気づけば屋上の柵に背を預けて空を見上げていた。

 氷室ルナが言う、ゲーム。

 俺が望んでいる、復讐。

 それを成し遂げれば、あの屈辱と虚しさを晴らすことができるんだろうか。


 (……馬鹿げてる)


 けど、もし本当に可能だとしたら。


 連続して浮かぶ矛盾した思考に、頭が痛くなる。結論はまだ出ない。

 ただ一つ言えるのは、俺の学園生活が元通りの平穏には戻らないってことだ。


 だけど、もう失うものはそう多くはない。周りからは笑われたし、真白とも決定的に距離が開いた。


 下を向くと、手に持っていたパンはほとんど食べていない。冷め切ったままのパンを少しかじり、俺は屋上の扉に向かって歩き出した。

 どこか胸の奥から、さっきのルナの言葉が何度もこだましている。


「……面白い『ゲーム』、ね」


 その選択肢に手を伸ばすかどうか。

 今の俺が、どれだけ壊れそうなのか、きっとルナは見抜いているのだろう。

 引き返すなら今のうちだ。だけど、逃げるだけでいいのか?


 黒い怒りがくすぶり続ける。真白のあの表情、取り巻きたちの嘲笑。

 ……絶対に忘れたくないと思う自分が、そこにいる。


 そして放課後。

 俺は迷いながらも、氷室ルナの姿を探していた。

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