Record.1

 日本男子テニス氷河期...


 かつて日本テニス界に衝撃と感動、そしてブームの火付け役だったプロテニスプレーヤーの吉岡昭三よしおかしょうぞうが、ウィンブルドンのベスト8までを勝ち上がり、62年ぶりの快挙を達成した。



 しかしその後、ATP世界ランキング100位以内に日本人の姿がなくなって約6年が経った。7年目に入り、全国中学生テニス選手権にて、全国各地で天才と呼ばれる者達が現れた。彼らは各々が天賦の才と呼ばれる程の実力を持っていた。人々は彼らを5人の天才と呼び、テニス雑誌などのメディアでムーブメントを起こしていた。



 1人はビッグサーブによる戦術を、1人はトップスピンを駆使した戦術を、1人は卓越した脚力によるコートカバーとダウンザラインへのカウンターショットを駆使し、1人は突出したボレー主体の戦術を、1人は猛烈なパワーを主体としたテニスをそれぞれ有し、3年間という短い間に中学テニス界を席巻していた。そして彼らは高校生になる年齢へと達する。5人の内4人がそれぞれ全国へ名声轟く強豪校への進学が決定した。しかし3月に起きた東北での大震災があってから、被災地域代表だった1人の天才の行方が分からなくなっていた。震災後、天才が一人消えた。日本テニス界に衝撃が走った。



 一方、そんな日本テニス界が5人の天才の出現に沸き上がる中、遠い外国の地で一人の大柄な日本人の少年が、何年もの時を掛替えのない仲間達と過ごし、日本へ帰国する日を迎えようとしていた。




 スイス連邦 ベルン州


 リングゲンベルグ近郊 ハルダーグラート




 天気は快晴。日本では見られない絵画の様な景色。空気は澄んでおり、流れる川は青々しく光っていた。聳え立つ山脈は、その雄大さと美しさを誇示しており、それはもう言葉では表せない程に美しくまさに絶景だった。ここは全長25㎞にも及ぶハイキングコースがあり、トレイルランの聖地だ。


 そんな名所でもあるトレイルランのコースの終点に無線を持った男が立っていた。更にその後ろには少年少女達がピクニックルックな格好で誰かを待っていた。手には“ヨシタカ最後のトレイルラン”といったプラカードを持っており水まで用意してある。


 「あぁ、マーティだ。わかった。皆には、そろそろヨシタカが到着することを伝えるよ。最後のトレイルランだ。みんな拍手で迎えるさ。」


 マーティ達が待っているのは、ヨシタカという日本人の少年だった。大人の他に10歳から18歳の少年達を含めどこか寂しそうな顔をしていた者もいた。拍手で彼を歓迎する面々は全て彼の通うテニススクール及び所属するサークルで関わった人物達だった。


 「よーし来たぞ!ヨシタカだ!みんな手を振って拍手だ!」


 一人の少年がハルダーグラートを全力疾走で駆け抜けてきた。身長189㎝。体格はがっちりとしており、髪を後ろに纏めて結んだその面構えは、まるでプロスポーツ選手だった。彼は到着すると息を荒げて歩きながらクールダウンをしていた。


 「...ぜぇ...ぜぇ...はぁ...」


 過酷なトレイルランを達成し、息を荒げる少年に1人の少女が笑顔で走ってきた。


 「ヨシタカ!記録更新だよ!明日ノアが来るよ!ツアー中継地点だから、こっちに寄って練習するんだって!ウィングシューターズでの最後の試合!あ、ノアが5セットマッチで試合しようって!ねぇ!今日の夕飯はヨシタカの大好きなレシュティだよ!早く食べに行こう!お姉ちゃんも来るって!」


 大柄な少年は息が整わないまま、10歳の少女の言葉にうなずき頭を撫でた。彼はもう1人の少女から水を貰う。少年は膝に手をついて腰を落とし、息を整えるように深呼吸する。全長25㎞に及ぶハルダーグラートのトレイルランをハイペースで走ってきた。現地のトレイルランナー達も一目置く存在の彼。夕日を眺めて物思いにふける少年は背伸びをして、これが吸い収めだと、スイスの山々が見える景色の中、空気を一杯に吸い込んだ。


 出立当日 チューリッヒ空港


 影村は恩師に見送られキャリーバックとパスポートを片手に空港のゲートの奥へと消えた。飛行機は飛び立ち、恩師である白人男性は影村の乗った飛行機を屋上から見送ると電話を取り出し、彼の祖国にいる友人へ電話をする。



 影村義孝かげむらよしたか15歳 日本へ帰国。


 日本 千葉県市原市某所


 影村の父親の赴任先である。両親は一足先に千葉へと向かった。彼は両親と離れていた間、テニスアカデミーの寮を借りていたため、学校の入学式が始まる直前までトレーニングに勤しむことができた。影村はここ千葉県で新たな生活を始める。帰国までに高校をどうするかで揉めたが、日本での実績がない彼はテニスの名門ではなく公立の普通高校へと道を進む事にした。彼は空港からバスで移動中だった。窓から見える海辺の工業地帯は、昔自分が見た映画の未来都市を思い浮かばせる。



 「フフ。隣いいかい?」

 「あぁ?」


 一人の同い年に見える少年が、返事を待たずにテニスバッグを置いて座った。影村はテニスバッグを見ると、その少年がどこかのメーカーと専属契約しているのだと直感した。顔は影村とは対照的な美形で整っており、身長も170センチ後半で、雰囲気も爽やかだった。しかしどことなくフフッと笑う癖が影村には気に食わなかったがそれさえ直せば好青年である。



 「.........。」

 「...。」


 2人はバスに揺られ同じ方角へと向かってゆく。最初に口を開いたのは少年の方だった。


 「フフ、君体格いいね。スポーツやってるの?」

 「....お前、どこかと契約してるな。」

 「フフフ、よくわかったね。そうだよ。俺はこのラケットメーカーと契約してるんだ。」

 「大手だな。プロか?」

 「まだプロじゃないけど...フフ、ジュニアでは全国トップの方だよ。」

 「...そうか。で、有名な高校にでも行くのか?」

 「ううん。地元が震災に遭ってね。この県の高校に入学することになったんだ。海生代だ。」

 「あぁ、そうかい。じゃ、俺はここで降りる。」



 天才と呼ばれた竹下隆二たけしたりゅうじ。そして海将と呼ばれた影村義孝と邂逅する。



 影村はバスを降りた。バスの扉の前で夢中で話している女子高生の前に彼が立つと、彼女達は慌てた様子で道を譲った。竹下は彼の堂々とした威圧感に多少の憧れを持った。バスの中でラケットバッグを持った女子高生達が竹下の方をじろじろ見ながら顔を赤らめて盛り上がっている。


 

 バスを降りて街を歩く影村義孝。後に全国にいる天才達や強豪校から”海将“と恐れられ、やがて世界を驚かせる躍進を見せた男の物語が始まる。



 数年前 4月


 遠い過去の記憶。少年達の声が日本のコートに響く。それは選手への称賛ではなく、只々喧噪な侮辱と罵りだった。


 ジュニアトーナメント12歳以下。男子シングルス。


 「おぇおぇ!ミスれミスれよぉ!」

 「2年上の先輩に道開けろって、お前帰れよ!」

 「サーブはいらな―――い!帰れ~!」


 小学4年生の相手は2つ年上の6年生。12歳以下トーナメント予選2回戦。スコアは4-2で4年生の少年がリード。応援はおらず、相手側の6年生の応援は観客席を埋め尽くしていた。サッカーのフーリガンのようなヤジが4年生の心を襲う。大人たちは子供の遊びとしてしか競技を見ていなかった。


 「いいぞいいぞ前橋!押せ押せ前橋!」

 「ヘイ!ラッキーラッキーラッキラッキー!相手打てねぇぞ!」

 「今アウトだろ!審判何やってんだ!」

 「うわ何あいつキッモ!前橋君頑張ってぇ~!」


 4年生になったばかりの純粋無垢な少年の小さな心は1人対30人という重圧の中もがいていた。彼の武器は大人張りのストロークだった。そしてテニスにおけるメンタルの不調は、選手を確実に破壊する。彼は何人もの6年生達からのヤジに耐えながらゲームをしていた。大人からすればそんなものは大したことがないと割り切ってしまう事だが、10歳以下の少年からすればこの重圧は危険領域だった。


 「オラオラ、相手打てねぇぞ!」

 「行け行け前橋!押せ押せ前橋!」

 「相手ミスするぞー!行け前橋!」

 「前橋くぅ~ん!」


 スコアは4-3,4-4と黄色い声援に押された6年生が追い付いてきた。ここで4年生の少年の心が完全に折れることとなる。彼のサービスゲームの時、ヤジが最高潮に達した。通常なら審判が止めに入りペナルティを与えるが、その審判も2回戦で敗退した気の弱い小学4年生であり、尚且つその審判自身も脅迫染みたヤジの対象だった。これがトドメと云わんばかりに4年生の少年に、ある残酷な一言が降りかかる。


 「    死     ね  !   」


 影村はベッドから飛び起きた。身体中びっしょりと汗をかいていた。どこか感情が高ぶっていたようだったが壁にかかっている時計を見ると大きなため息をついては、右手を額へと当てた。


 市原市立海生代かいせいだい高等学校。


 桜の木々は暖かい日差しを反射し、辺り一面をボーっと照らして春の訪れを体感させる。この日、新たに高校生となる少年少女達は、高校生活への憧れに心を躍らせる。影村は初めて見る桜並木に見入っていた。


 「ね、ねぇ。あれ誰?」

 「うわ、でっけぇ。どこ中出身だろ。」

 「ありゃやべぇな。何人か殺ってそうだな。」


 入学する1年生達がざわつく中、一人の大柄な少年が当学校のブレザーを着て校門を潜った。前髪で目を隠した状態で歩くその姿はビッグフットか何かだった。帰国後初の日本の学校生活である。大柄な体格で只々無口な性格のため、日本の学生達と馴染めるのかと不安だった。


 影村は校長の挨拶が長々と続いている中、スイスでの日々を思い出していた。小学校4年生の初め、P.T.S.Dを発症して最初のコミュニティ、そこで出会った彼を支えた恩師達と、ライバルでもある仲間達。コート中で熾烈な争い、更にトレーニング自慢や食事でも大食い競争などと張り合っていた。毎日が祭りだった。影村が落ち込んだ時にも必ず元気づけてくれた。とにかく個性が天を貫く様に強すぎた仲間との生活に慣れてしまった彼から見れば、日本の学生達のなんと大人しいことか。彼は起立・礼の号令がかかるまで、ずっと海外生活での思い出に浸る。

 

 「ヘイ!ヨシタカ!今日からPT何とかなんてな気にすんじゃねぇよ!誰がどれだけの数ヤジぶっ飛ばそうとな!コートの上じゃ応援なんて所詮外野なんだよ!勝った後にそいつらに●ァッ●ユーってこんな魔法のハンドサインやってやればいいんだよ!」※両手のハンドサインにはモザイクがかかってます。

 

 「あ、それジャックがこの前試合で勝った後に速攻怒られたやつじゃん。」

 「その後コーチにもぶっ飛ばされたよな。笑うわー。裏庭で飼ってるアヒルのジョージにもケツつつかれてさぁ...クックッ...ハッハッッハッハッハ!」

 「お前にもわかるだろ?ヨシタカ!ヘイ!わかれよぉ!かっこいいだろぉ!」

 「........わかった。」

 「わかっちゃダメだろぉヨシタカ!ってかマルコス寝ながらプロテインバー食ってる。」

 「マルコスこの前ヨシタカと試合した後、寝ながらパスタ食ってたぜ。」

 「マジかよ。ホームビデオの赤ちゃんじゃん。」

 「ハッハッハッ!」


 所属していたサークルで同い年の仲間達に恵まれて6年、非常に有意義な時間を過ごしてきた。激走ハルダーグラード。苛烈な筋力トレーニング自慢。その後のプロテインバー大食い勝負。毎朝の爆速牛乳一気飲み対決。オフシーズンの5時間耐久雪かき競争、激闘ラスベガス遠征賞金トーナメントと5人はいつも一緒だった。彼は少年が本来持っているべきである純粋な心を取り戻し、この地ですくすくと成長していった。そして初めての草トーナメントでは、彼が患っていたP.T.S.Dは一人の観客からの称賛からスタンディングオベーションへと沸き上がる出来事を機に奇跡的に克服された。ローマン、アンディ、ジャック、ヨシタカ、マルコスの5人はいつも一緒で、少年達で構成されたヒッティングパートナーを主としたサークルでは、トップ5を争っていた。大人の出場する賞金が出る草試合にもこぞって参加していたほどに彼らは切磋琢磨していた。


 「お前ら、今日のヒッティングの相手は世界ランク2ケタ台のプロなんだから、そんなことやったらマズいでしょう。ジャック。お前ももう15歳だ。大人になれよ。これから国へ帰るんだろ?」

 「悪童!マッケンリーみたいでいいじゃん!You can not be serious! かっこいいじゃん!お前真面目過ぎるんだよ!アンディ!」

 「...ヨシタカ。お前は俺達ウイングシューターズのトップ4が認めたんだ。それだけでも十分すげぇよ。俺達はこれから、それぞれが別の道を行く。実績積んでまた会おうぜ!」

 「へっへーーん!俺にはかなわねぇけどなぁ!」

 「ローマン自慢五月蠅い。ヨシタカ。君は日本へ帰ったらどうするんだ?」

 「俺は...」


 体育館で起立の号令がかかり全生徒が立ち上がった。影村も我に返って立ち上がり、号令通りに礼をする周りの状況を見て自身も一礼した。影村は体育館の外を見る。桜が舞い散り校庭をぼんやりと薄明かりが暈していた。

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