第1話 弟、辟易

 ──男が真に大人となるのは、酒の味を覚えたときでも、所帯を持ったときでもない。姉と二人きりで出かけることに、恥じらいも後ろめたさも抱かなくなったときである──


 ウィーン慕情派の劇作家ヒルデベルト・アイクホフがそう書いているのを、昔どこかで読んだ気がする。実際に年の離れた姉を持ち、代表作『ジャマイカン・シャンペーン』や『風をつかまえて』を初め、姉弟きょうだいを題材とした戯曲を数多くのこした彼らしい言葉だと思う。


 アイクホフにしたがうならば、年齢だけで言えばとっくに成人を迎えた僕は、まだ大人にはなりきれていない。


 姉と二人きりでイオンモールを訪れているこの時間が苦痛でしかないからだが、しかしそれは僕が精神的に未熟というのじゃなく、むしろ姉の挙動の方にこそ大きな問題がある。


 着る服を姉に選んでもらう二十二の男がいったいどこに存在するというのか。いや現に今ここに存在しそうになっているわけだが、その完成をどうにか阻止すべく、服くらい自分で通販で買う、一刻も早く帰りたい、何度もそう訴えているのに、姉は一向に聞く耳を持たず、見つけたクリスピー・クリーム・ドーナツに大股で足を踏み入れる。


 向かい合う弟の冷ややかな視線をまるで気に留めることなく、官能的なまでに砂糖をまとうドーナツを頬張り、「これぞまさしくドーナツの中のドーナツ、うぬにミスター・ドーナツの称号を与えて進ぜよう」などと面妖めんようなことを口走って、たいそうご満悦のご様子。


 もも。二十八歳。


 我ら熊埜御堂くまのみどう姉弟の、姉の方。背が低い方。キャーキャーうるさい方。ってそんなダイスケはんみたいな。


れんっ」


 前触れなき大声に、桃を除く客の全員が肩をびくりと震わせ、声の主に視線を集めた。押し寄せてきた苛立ちと羞恥心のせいで、叫んだ言葉が僕の名を指すものであることにしばらく気がつかなかった。


「な……何なんだ、いきなり」


「今日って何日?」


「……二十七だけど」


「まずいっ」


 再び口からドーナツの欠片を飛ばしながら立ち上がろうとする桃を、僕は慌てて押しとどめた。大声で不味まずいだなんて店員さんに聞かれたらどうするつもりだ。


 額の汗を拭い溜め息をついていると、ふいに桃は僕の両肩を掴んで、


「にじゅろくにちにじゅしちにちごぱーせんとおっふ」


 と謎の呪文をまくし立てた。


「は?」


「今日ってお客様感謝デーだ。ほらイオンのCM。はつーかさんじゅーにっち、ごぱーせんとおっふ、ってやつ。二月には三十日がないからスキャットマンばりに超早口。行くよ行くよ、こんな場所でドゥーナッツなんか食ってるバヤイじゃないっ」


 あっけに取られながら、僕は腕を引かれるまま満足にドーナツを味わうこともできず店を飛び出す羽目になる。


 まったく、なにゆえ桃はこうも奇天烈で身勝手なのか。


 僕の服を買うために出かけると言いながら自分の髪のセットに異常なほど時間を費やし、せっかく僕がナビタイムで検索してやった電車を大幅に逃した朝に始まり、到着するや目についた店に吸い寄せられ目についた商品をレジに持っていこうとする桃の首根っこを毎度僕が捕まえてやらねばならない。こんな姉と僕とが血を分けているだなんてKAT-TUN解散の次に信じたくない話だが、驚くべきことに事実なのである。


 ちなみに当初の目的である僕の服の購入は未だ果たされていない。果たされる気配がない。待てよ、桃はちゃんとヘアアイロンの電源を切っていたか? それに、家の鍵はちゃんと閉めたっけ──?


 はあ。


 もう、何もかもどうでもいい。勝手にしてくれ。


 続きを語る気力をすっかりなくしてしまったので、代わりといっては何だがここで白状しておく。僕は二点ほどでたらめを言った。


 まず、ヒルデベルト・アイクホフなんて劇作家は存在しない。ウィーン慕情派なんて派閥も口から出まかせだし、代表作として挙げたのは、僕の好きなアーティストの曲名だ。


 それから、桃について二十八歳と紹介したが、実を言うとそれは正確ではない。


 ただしくは、享年二十八。


 桃は、一年と少し前に死んだ。


 僕が殺した。

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