熊埜御堂姉弟の受難
はすぬま ぴのこ
第一章 熊埜御堂姉弟の日常
プロローグ 弟、焦眉
草木も眠る丑三つ時。
と、決まり文句みたいに言うが、眠る草木は実のところ我々同様夢を見るという。
信じがたい話であろうが草木といえどやはり生物。人間と同じく夢くらい見たって何も不思議ではなかろう。
例えば眼下の街路樹のような
というのは僕が今適当に考えた、まったく根も葉もないでたらめだ。草木だけに。
つまらん、帰れ。
しかし東京の夜は相変わらず夜らしくない。夜の中にも夜らしい夜と夜らしくない夜というのがあって、東京の夜はもっぱら後者だ。
夜らしくない理由を挙げればきりがないけれど、何よりもまず明るい。明るすぎる。暗黒に沈む空には満月が出ているが、眼前にある『ムーンライト』とかいう風俗店の看板の方がよっぽど
この東京の地で、誰の目にも留まることなく、完全な暗闇の中を生きることは不可能だ。我々
雑居ビルの屋上の縁に腰かけ、足を投げ出しながら、標的──犯罪組織〈
道路を挟んで向かいには煌々と輝く吉野家。草木が眠ろうとも牛丼屋は眠らない。眺めていたら思わず腹が鳴った。それから僕は頬を叩いた。集中集中。
立ち上がるとともに、左耳に触れる。微かな雑音が
「こちら
「どうもこうもねえですよ」小叕が答える。
「歯医者の地下に、こんなバカ
「弱音を吐くな。挟み撃ちにしよう。小叕はそのまま地下から攻めてくれ」
「がってん承知のスケベ椅子」
音声が途切れる。腰に触れ、長短さまざまな刃物が準備してあるのを改めて確認してから、僕は雑居ビルの壁を滑るようにして地に降り立った。
人通りのない夜道。歯医者の扉に背をつけ、あたりを見回す。
「朝忌くん、」
ふいに右耳のそばで女の声がした。「助けが必要?」
声の後ろでは、金属がいくつも擦れるようなちゃらちゃらという音が響いている。僕は溜め息をついた。
「
「とっくに始末したっつーの。あんたたちがモタモタしてる間にね」
ちゃらちゃらの音がひときわ大きくなる。
「じゃあこうしよう。表が出たら手伝いに行ってあげる。裏が出たら帰る」
金属片を弾く音、続いてぱしっと肌を叩く音があった。雨情さんが「……わお」と呟いた声を最後に、右耳からは何も聴こえなくなる。
「今のって、雨情先輩っすよね? ……裏表、どっちだったんでしょう?」再び、左側で
「知らん。いずれにせよあの人にはあまり期待しないほうがいい。僕たちだけでどうにかすることを考えろ」
言うが早いか、僕は本来ならば自動のガラス扉を手でこじ開け侵入した。
院内には蛍一匹ぶんの明かりすらない。すぐさまコンタクトレンズを暗視モードに切り替え、床に隠されたハッチを発見する。
縁に手斧を差し込んで、テコの原理でもって持ち上げる。地下深くへ階段が延び、淡い緑色の光が、闇に溶けるように漏れ出している。
駆け下りる。シューズのおかげで足音は一切立たない。
階段の終点付近、左右に立つ、見張り番であろう二人。揃いの物騒な銃を構えているが、僕の接近を察知して銃口を向けたときには、既に僕は二人の間をすり抜けると同時に両手に握ったサバイバルナイフで首元を掻き切っている。どこか寂しげな呻きが背後に聴こえる。
奥へ進むと巨大な鉄扉が待ち構えていた。鍵は今どき珍しい掌紋認証式であるらしく、扉の脇にタッチパネルが用意されている。ついさっき去り際に手斧で落としておいた、見張り番の一人の手首をパネルに置いてみると案の定ビンゴ。面白みのない機械音に続いて、がちゃり、と鳴る。
ごうんごうんと唸りながら鉄扉が横に割れていく。開いた扉の隙間から僕はひょっこり顔を出し、「やあやあ、邪魔するで」
「し、侵入者だっ」「至急応援を」「逃がすな、ひっ捕らえろ」
慌ただしい声と足音。頭と上半身を外套ですっぽり覆い隠した男が三人。そういえばさっきの見張り番も似た格好をしていたが、この低クオリティなディメンターのコスプレが組織の制服なのだろうか。
三人はハンドガンを手にしている。へっぴり腰の具合を見るに、まあ下っ端であろう。いささか不憫だがここで出会ったが最後。ナイフの餌食となっていただくしかない。
「……邪魔すんねやったら帰ってー、と返してほしかったところだが。新喜劇を見ろ、来世でね」
左右の二人が首から血を噴き出し、真ん中の一人は胸の真ん中から生えたサバイバルナイフの柄を信じられないという表情で凝視したまま何度か引っ掻くようにしたのち、後ろ向きに丸太のように倒れて、動かなくなった。
その一部始終をじっと見届けたまま、
ふう。息を整えつつ見回す。
「先輩っ」
この場にはそぐわない明るい声とともに、横道のひとつから小叕が現れ合流する。その顔には、やはりこの場にそぐわない生意気な笑みが浮かんでいる。
半年ほど前に高卒と同時に
「こっちはあらかた片付けました」
「馬鹿、大声を出すな」
「おっと、すいませ──」
「そこまでだ」
ふと、背後で低い声が発せられた気がした。
空耳を疑ったがそうではないらしい。なぜなら声と一緒に、後頭部にひやりとした硬い感触を覚えたからだ。
視線を隣に動かすと、同じくぎょっとした表情でこちらを見つめる小叕の、頭の後ろには重厚な銃口がぴたりと突きつけられている。図らずも
「武器を捨てろ。大人しく
僕は息を呑み、腰のベルトを落として床に膝をついた。こうした状況における最良の選択はひとつ。敵の言う通りにする。
「連れていけ」
別の声がして、僕と
……面妖だな。
いや面妖どころじゃない。かなりの焦眉。焦眉中の焦眉。略してショビ中。戻して私立ショ比寿中学。ふざけてる場合か。
最近は標的が単品か、多くても三人とかだったからか、完全に油断していた。武器がない状態じゃ反撃は難しい。小叕のポテンシャルに賭けて僕がどうにか暴れて注意を引くか。くそ、どちらかが捕らえられた場合の打開策をあらかじめ話し合っておくべきだった。だが今さらそんなことを考えたって後の祭り、いずれにせよ二人いっぺんに捕まってしまったこの状況では何の意味も成さない。どうする?
待てよ。この状況、ストーリーの展開的にはむしろ好機じゃないか?
捕まってしまった以上緊迫感のある潜入シーンや息つく間もないバイオレンス描写に紙幅を割く必要は消え、代わりに僕や僕の置かれた状況について説明する余裕が生じたわけだ。
この好機、逃すまじ。
今のうちに過去編だ。第一話から過去編だ。どこまで遡ろう。ひとまず一週間前だ。
あらかじめ断っておくが、退屈に感じたら読み飛ばしていただいて大いに構わない。読み飛ばしたところで別に支障はない。イタチのうちは一族殺しの真相を除いて、この世のあらゆる過去編は読み飛ばしてもいいという調査結果が内閣府より公表されている。
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