第8話 後始末と譲渡
病院の待合室。
無機質な白い蛍光灯の光が、疲れた肌を照らしていた。
健太郎と女は、無言で並んでベンチに座っていた。
「……もう帰っていいよ」
健太郎は静かに言った。
しかし、女は動かない。
タバコを取り出そうとする仕草をしたが、ここが病院だと気づいたのかそのままポケットに戻した。
「そんな気分じゃない」
沈黙。
女は何かを考えていた。
やがて、ふと口を開く。
「家族、呼んだほうがいいんじゃない?」
健太郎は視線を前に向けたまま、小さく息を吐く。
「息子さんが一人いるけど……絶縁状態って聞いた。」
「そうなんだ」
「でもさっきケアマネージャーに連絡した。生活保護課に連絡して、調べて、連絡とってくれるって」
「そう」
女がポツリと答えた
病室の扉が開く音がした。
白衣の医師がこちらに歩いてくる。健太郎は反射的に立ち上がった。
「ご家族の方ですか?」
医師の問いかけに、健太郎は少し戸惑いながら頭を横に振る。
「いえ……隣人で、発見したものです。あの……」
医師は静かに頷き、少し表情を曇らせた。
「手は尽くしましたが……」
「そう…ですか」
健太郎は察した。
「すでに心臓も弱っていましたし、ご高齢でしたので」
健太郎はわずかに唇を噛み、ゆっくりと息を吐いた。
女はまだ座ったまま、黙って健太郎の顔を見ていた。
廊下の奥から足音が聞こえた。
健太郎が顔を上げると、中年の男がこちらへ歩いてくる。
落ち着いたスーツ姿、無表情な顔。
彼は健太郎と医師の前で足を止めた。
「すみません。白井絹代の家族の者ですが」
健太郎は彼をまじまじと見つめた。
絹代の息子。初めて見た。目元が良く絹代に似ていた。
「母はどうなりましたか?」
医師が再度説明を始める。
「……手は尽くしましたが、残念ながら、お亡くなりになりました」
息子は短く息を吐いた。
「……そうですか」
それ以上、悲しむ様子は見せなかった。
まるで予想していた結末を、ただ受け入れるような表情だった。
息子は静かに頭を下げた。
「お世話になりました」
医師は手続きを説明し、家族だけが残るよう促、去っていく。
健太郎、女、そして絹代の息子の三人が廊下に残された
息子は健太郎を見つめる。
「発見者は君だね。母が色々と世話になったようで」
健太郎は息子と向かい合い、頭を下げた。
「……いえ」
息子は短く頷き、ポケットからスマホを取り出す。
「もう帰っていいよ。あとは私が対応するから」
健太郎は少し考えたあと、躊躇いがちに口を開く。
「……あの、葬儀に参加したいので、あとで日取りを教えてもらえますか?」
息子は数秒黙った後、淡々と答えた。
「葬儀はしない。直葬する予定なんだ」
その言葉に、女がぎょっとして立ち上がる。
「どうして? 母親でしょう?」
女のという問いかけに、息子の表情が僅かに歪んだ。
「母親だが——」
低く、吐き捨てるような声で言った。
「俺が5歳の時に家を捨てて、他の男と逃げた女だよ」
沈黙が落ちる。
女は言葉を失い、健太郎も黙った。
息子は苦々しげに目を伏せ、続ける。
「数年前、役所から連絡があった。生活保護を受けていること、緊急連絡先の打診を受けたが——その時は『二度と俺に関わらせないでくれ』と突っぱねた」
短く息を吐く。
「正直、恨んでいる。本当はここにも来たくなかった」
しかし、と息子は続けた。
「でも……」
「発見してくれた君たちや、役所に迷惑がかかるかもしれないと思い、最低限のことをしに来ただけだ」
沈黙。
息子の冷たい言葉が、張り詰めた空気を作る。
女が何か言おうとするが、健太郎が腕を引いて止めた。
女が驚き、睨むように健太郎を見る。
しかし、彼は息子を見つめたまま、静かに言う。
「……いえ」
深く息を吸い、言葉を選びながら続ける。
「お気持ちはごもっともだと思います。わかりました」
一度言葉を切り、息を整えてから、はっきりと告げる。
「それでも——何か、手伝えることはないですか?」
息子が驚いて目を見開いた。
隣で女も、目を丸くして健太郎を見つめた。
「あなたは絹代さんを恨んでいるかもしれない。恨んで当然だと思います」
健太郎はゆっくりと言葉を続ける。
「でも……僕にとっては大切な人でした」
健太郎は膝の上で拳をギュッと握る。
「葬儀を開けとは言いません。でも、あなたの母親としてではなく、僕の恩人として。何か手伝わせてもらえませんか」
ゆっくりと頭を下げる健太郎。
「なんでも構いません。お願いします」
息子は完全に虚を突かれた表情になっている
数秒の後、息子が短く息を吐き、静かに言う。
「……わかった」
健太郎が顔を上げる。
息子は決心したように、少し落ち着いた声で続ける。
「ではこうしよう。母の部屋も早急に引き払う準備をしたいんだ。君たちの都合がつけばでいいが、ある程度、荷物をまとめておいてくれないか?運び出しは業者を頼むから、終わったら連絡してほしい」
健太郎はしっかり頷いた。
「わかりました」
女の視線が横顔に突き刺さるのを感じた。
*
アパートに戻る頃には、すでに夕方になっていた。
空はオレンジ色へと変わり、街灯がぽつぽつと灯り始めている。
玄関先で深く息を吐き、健太郎は手を動かす覚悟を決めた。
まず、大家に事情を話し、絹代の部屋の整理を始める。
バイト先には休む連絡を入れた。キッチンカーは元々今日明日休みだったので拳王の佐藤に連絡した。
佐藤はすぐに出た。
「すみません、今日だけ休ませてください」
「……珍しいな。何かあったのか?」
怪訝な声
「隣人が亡くなったので、少し片付けをすることになって」
「……店は何も問題ない、大丈夫だ」
そう伝える佐藤の声は少し心配そうだった。
「しかし健太郎お前なあ……親切もやりすぎは毒だぜ。あんまり無理しすぎんなよ」
「大丈夫です」
電話を切り、ポケットにしまう。
目の前の部屋を見つめる。
静かにドアを押した。
部屋に入ると、そこには穏やかな静けさが広がっていた。
家具は最低限。飾り気もほとんどない。
きれいに整理された部屋だった。
必要以上のものを持たず、静かに暮らしていたことがわかる。
健太郎は押し入れを開け、整理を始めた。
大した量じゃない……夜中までやれば今日中に終わる
心の中でそう呟きながら、作業を始めた。
日が暮れ始め、部屋に差し込む光が少しずつオレンジから濃い影へと変わっていく。
ひと息つき、手を止めたとき、視線を感じた。
ふと振り返ると、女が部屋の入り口に立っていた。
腕を組み、じっとこちらを見ている。
「……まだいたんだ」
健太郎がそう言うと、女は軽く肩をすくめた。
「行くところがないから」
「僕の部屋を使ってくれて構わない。眠りなよ」
女が目を丸くする。
「夜になるけど、泊めてくれるの?」
健太郎は何気なく答える。
「いいよ。僕は夜の間、ここで片付けをするつもりだから」
女はため息をつき、少し考え込むような素振りを見せる。
そして、突然靴を脱いで部屋に上がり、作業を手伝い始めた。
健太郎が驚く。
「……手伝うの?」
「まあね」
健太郎は驚きながらも、すぐにまた整理を始める。
部屋の中に、ゆっくりと静かな時間が流れ始める。
部屋の中で、無言のまま二人は作業を続けていた。
本棚の整理、押し入れの荷物の確認、使えそうなものと処分するものの選別。
それぞれが黙々と手を動かし、静寂だけが部屋を満たしていた。
けれど、先に沈黙を破ったのは女の方だった。
「おばあちゃんのこと、残念だったね」
手を止めることなく、彼女はぽつりと呟いた。
「仲良かったんでしょ?」
健太郎はわずかに手を止め、そして静かに答える。
「よくしてくれたよ」
作業をしながら続けた。
「どのくらいの付き合いだったの?」
「1年ちょっとかな」
健太郎は絹代と出会った日のことを思い出す。
「僕がここに来たばかりの頃、絹代さんが買い物
帰りで坂を登ってたのを見たんだ」
女が手を止めてこちらを見る。
「でも、心臓が弱いから、途中で座り込んでた。僕が声をかけて、おぶって家まで送った。そしたら隣人だったんだ。びっくりした」
それが最初かな、と結ぶ。
自分の声に懐かしさが滲むのを感じた。
女は意外そうに眉をひそめる。
「……それあんたが良くしてるだけじゃん」
健太郎は、まるで聞こえなかったかのように話を続ける。
「そのとき、絹代さんが言ったんだ。ありがとう、優しい隣人が来てよかったって」
「だから、それってあんたが親切にしただけで、別におばあちゃんは何もしてないじゃん、何が恩人なの?」
健太郎は笑った。
「いや、優しいって言われて嬉しかった」
女の目を見た。
「本当に、嬉しかった」
これからも生きていていいんだって、思えるくらいに。
これは言葉にならなかった。
「よくわからないけど」
女が言う。
「あんたにとっては恩人なんだね」
「うん」
「じゃあショックだった?」
「何が?」
「……あのおばあさんが昔、子供を捨てて出て行ったって話を聞いて」
健太郎は少しだけ考えた後、ゆっくり首を振った。
「いや」
そう言って、再び荷物を整理しながら静かに続ける。
「びっくりはしたけど、ショックではなかった」
「……そうなの?」
「絹代さん、生活保護だったし……昔いろいろあったって話は聞いてたから」
健太郎は、積み上げた荷物の一つに手を置きながら、淡々とした口調で言う。
「それに人間ってそんなもんだろ。人生の頭からつま先まで完全にいい人なんていない。でも、少なくとも僕と出会った時間で、絹代さんは良い人だった。それだけでいい」
女は短く息をつくように笑い、天井を見上げた。
「あんたは?」
「え?」
「私はあんたが無欲でお人よしすぎるから、ブッダの生まれ変わりかなんかじゃないかって疑ってるけどあんたは完全に良い人じゃないわけ?」
健太郎は苦笑し、軽く肩をすくめる。
「僕は全然いい人じゃない」
女は半信半疑の顔で片手を腰に当てる。
「良い人じゃない? 普通、ただの隣人のためにここまでしないよね」
それから猫のような視線で健太郎の頭からつま先までジロリと一瞥する。
「私のことも、あの時、下心なく助けてくれたみたいだし……」
ふと、女の目が探るように光る。
「それとも違うの? やっぱ下心、あったわけ?」
健太郎は真っ直ぐに女を見る。
「違う」
「即答するのね? もしかして私って魅力ない?」
「美人だと思うよ?」
「そう言うことはさらっと言うのね」
女は少し笑い、目を細めた。
健太郎は少し考えた後、淡々とした口調で続ける。
「僕はただ……しっかりしていたいだけだ」
女が眉をひそめる。
「どういう意味?」
健太郎は少しの間、言葉を選ぶように沈黙する。
そして、静かに答える。
「しっかりしていたい、正しくありたい、そのために、強くありたい」
女がじっと健太郎を見つめる。健太郎も見つめ返した。
「それだけだよ」
一瞬、沈黙が落ちる。
しばらくして、女は軽く鼻を鳴らし、皮肉げに笑った。
「変な人」
健太郎は何も言わず、それからはただ荷物をまとめ続けた。
二人は黙々と片付けを続けた。
夜が更け、明け方にはすべてが片付いた。
最後のゴミ袋をまとめ、部屋の埃を払い、静かに立ち上がる。
「……ありがとう」
女に短く、感謝の言葉を告げる。
女は軽く伸びをしながら、悪戯っぽく笑う。
「お礼、してよ」
健太郎が不思議そうに眉を寄せる。
「……お礼?」
「シャワー浴びたい」
健太郎は少しだけ目を細めた。笑った。
「いいよ」
そう言いながら、部屋の扉を開け、薄くなった夜空を見上げて、女と一緒に自分の部屋に戻る。
長い一日が、ようやく終わろうとしていた。
*
女がシャワーを浴びている間健太郎は狭いベランダに出ることにした。
明け方の風が涼しく肌を撫でる。
上空には雲がゆっくりと流れ、街の光がかすかに反射していた。
ポケットに手を入れ、指先でライターの感触を確かめる。
ため息をつきながら手に取り、じっと見つめた。
何度も捨てようとした。
それなのに、結局戻ってきてしまう。
タバコも吸わないのに、なぜこんなものを持ち続けているのか。
理由は明白だったが考えたくなかった。
バスタオルで髪を拭きながら、女がベランダに出てきた。
濡れた髪から水滴が落ちる。
オーバーサイズのTシャツにショートパンツ。
Tシャツはよく見れば健太郎のものだったが、もう指摘もしなかった。
「風邪ひくよ?」
健太郎が言うと、女は隣に並びながら言った。
「……コインランドリーのベンチで寝てたやつが言う?」
「なんの言い訳もできないな」
女はポケットからタバコを取り出し、一本咥えた。
「吸ってもいい?」
「いいよ」
女はタバコを咥えたままライターを探るが、手元にないことに気づく。
健太郎がポケットからデュポンのライターを取り出し、無言で火をつけた。
女は煙を吸い込み、じっと健太郎を見つめる。
「そんな後生大事に持ってるなら、人にあげたりしないほうがいいんじゃない?」
健太郎はライターを見つめる
「……捨てたいけど、自分では捨てられなかったんだ」
独り言のように言った
「でも、人に譲れば手放せる気がして。実際、一度手放したんだ。君に押し付けて」
女を見て苦笑しながら、ライターを掲げた。
「なぜかまたここにあるけど」
「……じゃあ、もう一回押し付けてみたら?」
女が煙を吸い込み、ゆっくりと吐き、それから目の前の殺風景を見ながらポツリと言った。
健太郎は少し驚き、女を見る。
「……いいの?」
「いいよ」
ただし、と女が眉を顰めて健太郎を見る。
「一応確認しとくけど、呪いのアイテム的なやつじゃないよね? 所持した人間に死の呪いが訪れるとか、夜な夜なライターの音が聞こえるとか」
「新品だよ。ちゃんと東京のデュポンで買った」
健太郎は部屋の中を顎先で示した。
「保証書もある。つけようか?」
「いらないし、わけわかんない」
女が笑いながら、手を差し出す。
「はい、ちょうだい」
健太郎がライターを渡す。女はにべもなく受け取る。
「気色悪いなら、捨ててもらって構わないから」
「気色悪くなったら、そうする」
女が静かにライターを見つめる。それを見ながら健太郎は少しだけ微笑んだ
「……ありがとう」
「ん」
「君はいい人だ」
女が驚いたように健太郎を見返す。
「私が?」
「うん」
女が吹き出した。
「下宿先の男寝取ったり、他にもいろんな男と遊び回ってる私が?」
「さっきも言ったけど」
健太郎は少しだけ首を傾げる。
「完璧な人はいないよ」
女が一瞬言葉を失い、それからタバコを空缶にに押しつけて火を消して言った。
「……なんか、もう疲れた。ベッドで寝ていい?」
「どうぞ」
女は伸びをしながら、室内へ戻る。
ふと振り返り、言う。
「……一緒に寝る?」
健太郎が静かに答える。
「おやすみ」
女が笑いながら、ベッドに倒れ込む。
健太郎はベランダでしばらく早朝の風に吹かれていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます